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自己との対話。世界は自分の内面を投影しているなら。むしろ。

むしろ、じっくりとストーリーと感情を味わう。
それが大事なんじゃないかと、ふと思いまして、書いていきます。

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スピリチュアルが好きな方に時々ある思考。
理不尽なことが起きると、
鏡の法則、投影、、、、
要は、自分で作ってる世界だよ!なんて切り捨てんばかりに言われたりします。


優しい人もたくさんいますので、
アンチなことを言いたいわけではありません。

それに、私も世界は自分で作っているんだと思います。
(そんなテーマで、今年の夏休みの自由研究をしたりもしました。既に懐かしい。)


でも、この思考って危ういなって思うんです。
世界は自分で作る=自己責任、自作自演
みたいな。


自己責任!?
確かに、言葉にするとそうかも知れない。
言葉の表面に異論はないけれど、発する意味や突き放す感覚に危うさを感じます。


だって、
マクロな宇宙視点から考えると、
むしろ、その「感情」を体験したくて、自分の世界に経験(脚本・ストーリー)という形で、
感情体験を採用したわけですよね?

と、言うことは。
人の心(ミクロな宇宙)は、感情を味わわないと(経験しないと)、
その経験(脚本・ストーリー)は完了しないのではないでしょうか?


それなのに、辛い現実の時だけ、
加害者も被害者もいないんだった!と、舞台から降りたりしてませんか?
私にはそんな時期もありました(笑)


あとは、
そうだ、これは自分が作った世界でしたー。はいはい。
と、冷めたように舞台中断(汗)
のめり込みすぎて、一旦休憩を入れているうちに舞台放棄してみたり。

確かに自分軸に戻ることは大事です。
ただ、ネガティブなストーリーほど、ポジティブなストーリーと違って、
舞台を降りる傾向があるような気がします。

自分が作った世界なんだけどさ。
誰かを責めても仕方がないんだよ。
って言って。


ちなみに、これは思考のはたらきですね。


実際、物理的に誰かを攻撃するのは良くないと思いますが、
心というミクロな宇宙の中では良いんじゃないかなって、私は思います。


何の為にこんな経験をしなくちゃいけないんだろうと思う度、
しっかりと感情を感じ切ると、この経験がなかったら変わることがなかった
価値観・考え方に気づくことが多々あります。


この感情体験のために、役者として出てきた周囲の人々。
傷ついた自分。
行き場のない気持ち。
体のどこかにある感情。

悲しみ、怒り、絶望…
純粋な透き通る周波数もあれば、
冷たく重たい周波数もあります。
体のどこかにこの周波数が渦巻いているのですが、
これは感情を味わえる舞台上でしか見つけられません。

体のどこに感情があるか探すと、
感情とストーリーは別物だったと想い出します。


この感情を体験したかったんだなって。
この価値観と出会いたかったんだなって。
その為にこのストーリーを書いたんだって。


これは、ストーリーに溺れるでもなく、
ストーリーを放棄するでもなく、
ストーリーに向き合う私なりの姿勢です。

このストーリーを書いた自分は、
その時、どこでどんな景色を見て、今の私に思いを馳せたのだろう。

舞台から降りず、しかし、台本の行間を読み、
どんな感情体験をしたかったのか、
どんな価値観と出会いたかったのか、
人生の役者であり脚本家である自分との対話を続けます。


だから、嫌なことがあったら、しっかり怒りますよ(笑)
悲しみますし、嫌なことはやめてくださいって言ったりもします。

それが私自身にとっての、自己との対話なのかなと。

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