「Vtuberは変わってしまった」は正しいのか

お久しぶりです。
このところ記事を書いていなかったが、相変わらずVtuber界隈は騒がしい。

いい話題も沢山ある。しかし世間の耳目を集めるのは炎上、ゴシップなどのネガティブな話題がほとんどのようだ。
(ネガティブなことが話題になりやすいのはVtuberに限らないので、それは人間の持つある種の性質なのだろう。)

私としては、ネガティブな話題とは距離を置きつつもそれなりにVtuber界隈を楽しんでいた。完全に視界から外すことは難しいが、最近のゴシップは(それぞれの影響度はともかく)散発的なものばかりだったため、とりあえずは無視することができた。

そんな中、ちょっと気になるツイートが話題になっていた。


言葉選びがセンセーションだったこともあり、肯定・批判の両方から多くの反応がされていた。またこのツイートを発端に「Vtuber今昔論」「Vtuberかくあるべし論」について侃々諤々しているインターネット井戸端会議をいくつか見かけた。
※なお、ツイート主の高橋氏は『死んだ』と表現したことを自ツイートにリプライする形で謝罪している。


個人的にこのツイートには多少の共感を感じたが、それと同時にうんざりとした感情も湧いた。
「昔のVtuberは絵のついた配信者じゃなかった」という懐古論はもう何度も繰り返されていて、そのたびに水掛け論となっている。
流石にうんざりだ。しかし、老害だの懐古厨だのといった言葉で切り捨てることもできなかった。

私は共感と反発の狭間でぼんやりとした所在のなさを感じ、その感情の実体と由来について探ってみることにした。

そんな感じで、今回は「昔と今でVtuberはどう違うのか」について、私なりに考えてみた。それをここにまとめたいと思う。

※注:
この記事では懐古的志向に対して自虐的に表現することが多々ありますが、それは私自身が懐古論に対してある程度の共感を持っており、そのままの表現では現状の否定と捉えられかねないことを危惧したためです。
また、この記事ではVtuberの炎上やゴシップには触れません。


お願い:記事を読む前に

改めて、この記事の発端となったツイートを確認していただきたい。

まずはこのツイートを、

ツリーも含めて全て読み込んでいただきたい。

そして、高橋氏の意図を汲んだ上での批評ならともかく、条件反射的な批判だけは絶対にしないで欲しい。


もちろん、私の主張に対する批評・批判なら存分にしていただいて構わない。


1.「昔のVtuberはこうじゃなかった」の本質

1-1. まずするべきは「共通認識」の掘り下げ

さて、「昔のVtuberはこうじゃなかった」という主張はありふれたものだ。
一方で、それに対する個別の否定もまたよく見かける。

例えば……
「昔は動画主体だった」
⇒「黎明期から配信メインのVもいた」
「昔のVは決められた方向性があった」
⇒「最初から『中の人』の素が出る部分が人気だった」
「昔のVはスゴイ技術や表現を目指していた」
⇒「初期のVはリアルYoutuberの模倣だった」or「今の方がスゴイ技術を使っている」

しかし、これら個別の否定は基本的に意味がない。
なぜなら、「昔のVtuberはこうじゃなかった」という主張がありふれているということは、すなわち「昔のVは今とは違ったよね」という共通認識が一定の層に存在していることを意味しているからだ。

いくら個別に要素を否定しようと、「共通認識があった」ということを否定することはできない
「それはあんたたちの勘違いだよね?」と説いたところで、夢見ていたことに変わりはないのだ。
ここで必要なのは、共通認識の実体と由来を探り、理解することだ。


では、なぜ「昔のVtuberはこうじゃなかった」と思うのか。
黎明期のVtuberに対する期待が大きすぎたのか?
現在のVtuberに対する評価が過小なのか?

恐らくは前者だろう。
しかし、未だに多くの人を惹きつける「黎明期のVtuberの魅力」というものを、単に期待しすぎた、という言葉で切り捨てるのは少々惜しい。
もう少し掘り下げて、違う表現を試みてみよう。


1-2. 黎明に見た夢

黎明期のVに夢を見ていた人たちは、当時のVの魅力についてどう考えているのだろうか?
実は、この「黎明期のVの魅力」についてはけっこう意見が割れている。

例えば前出の高橋氏はビジネス的にコンテンツをとらえた上で、キャラクター創造の観点からVtuberに注目していたようだ。


また、以下の記事の作者は、「新たな技術、表現を発揮するクリエイターが活躍できる場」としてVtuberというコンテンツに期待していたのだと読み取れる。


さらに、ここで例として出すのはあまり適切ではないが、「のらきゃっと」を運営しているノラネコP氏は目指す『理想のキャラクター』の実現として「のらきゃっと」が自分の手を離れても存在し続けることを目指している。
これもまた、黎明期に夢見られたVtuberの在り方の一つだ。


ここに例に出した以外にも多くの意見があり、それらを見ると各々が好きに自分の理想を投影していたことが伺える。一方、何となくそれぞれに共通点があるようにも思える。

皆一様に「新しいもの」ができると期待していたと語る。
「ワクワク感」があったと語る。

そして皆、「バーチャル」という言葉に強い思い入れを見せている。


1-3. 夢を見れた理由

なぜ黎明期のVに夢を見れたのか。それは、「バーチャルYoutuber」という言葉に丁度いい「余白」があったためだと私は思う。

黎明期のVtuberにあって今のVtuberにないものがあるとしたら、この「余白」だと思っている。

もともとはキズナアイが自称していただけだった「バーチャルYoutuber」という単語は、同様に名乗る後続が現れたこと、また視聴者が勝手にカテゴライズすることで爆発的に広まっていった。

その広まりの中で、「バーチャルYoutuber」という単語(いつの間にかVtuberと縮めて呼ばれるようになっていた)は様々な要素を吸収していった。当のキズナアイ自身も、自らVtuberを定義したりはせず、(少なくとも表面上は)広がるバーチャルの世界を歓迎していた。

その過程で多くの人が「バーチャルYoutuber」に勝手な願望を投影した。できてしまった。それを受け入れるだけの「余白」があった。
そして恐らく、「バーチャル」という確立したイメージと曖昧な世界観を矛盾なく両立する言葉が、その願望のベクトルを揃える役割をしていたのだろう。
だからこそ、勝手な願望を抱えつつも皆で一緒に夢を見ることができた。

各々が願望を投影しつつも、「昔のVtuberはこうじゃなかった」という認識に何となく共通項があるのはこのためだ。



2.過去と今と

2-1. 「昔の夢」と「今の現実」の対比

黎明期のVtuberは皆、ひとつなぎの大秘宝を求めて大海原に漕ぎ出した無謀なルーキーだった。

一方で、現在のVtuberは「勝ち筋」が見えてしまった。確立されたビジネスとマネタイズ戦略が支配し、あるかないかもわからない幻の秘宝を求めて漕ぎ出す世界ではなくなった。

恐らく、「昔のVtuberに感じたワクワク感」だとか、「昔のVtuberは今のVtuberとは違った」といった感覚はこの辺りに由来するのではないだろうか。


しかし、これは良いことだろう。
海図から未知の領域が消え、安定した航路を確立したことは人類の進歩だ
地に足ついたビジネスやマネタイズ戦略が出来上がったことは、Vtuberというコンテンツが成長し、地盤が固まりつつある証拠だ


2-2. そこに見た夢の価値は

そもそもが黎明期のVtuberに見ていた夢なんてものは、各々の勝手な願望が寄り集まってできた共同幻想のようなもので、そんなものいずれ醒ることは火を見るよりも明らかだ。

よくよく思い返してみると、Vtuberという世界の懐の広さで言えば今の方が間違いなく優れている
今は昔では考えられなかった人たちがVtuberを名乗り、活動している。

過去の Vtuber界隈はというと、「やさしい世界」などと嘯きながら、異端者には眉をひそめ、「ときのそら」の眼の色が変わった(カラコンを入れた)だけで文句が出ていた。なんともケツの穴の小さいことだ。



……では、あの頃の夢は、理想は、何の価値もなかったのかと言うと

決してそんなことはない。


間違いなく、過去と今は地続きだ。黎明の狂乱があったからこそ、今のビジネスとしての基盤を備えつつ、懐の広さも併せたVtuber界がある。

そして、私が実際に経験したあの黎明期のワクワク感は間違いなく唯一無二の体験だった。
今のVtuber界も現在進行形で楽しんでいる。しかし、その楽しさには相違があることも間違いない。

過去の方が優れていた、というつもりは毛頭ない。一方で、過去に感じていたことに特別感があったことも否定しない。
過去の特別感と今の楽しさは地続きで、けっして分離して語ることはできない。

今の楽しさに価値があるように、過去の夢にも価値がある。そして、これから先、きっと予想だにしない価値がまた生まれるだろう。
なんだか月並みすぎて恥ずかしいが、実際に私はそう考えているようだ。



3.あとがき

あの頃に描いた青写真はまだこの手の中にある。
それはセピア色に褪せ、もはやかつての色彩を見ることはできない。
それでも、思い描いた景色は綺麗だったから、未だに手放せないのだろう。



余談:「にじさんじ」について

※注:
余談のつもりで書いたが思った以上に長くなってしまったので、この項だけ独立させて別の記事としてまとめるかもしれません。

さて、過去と今のVtuberが変わってしまった、という論争で必ず出る話題がある。

「にじさんじ」の誕生だ。


にじさんじが始めたVtuberの運用方法(敬意をこめて「にじさんじ方式」と呼称させていただく)には以下のような特徴がある。

・表情や動きをトラッキングし、Live2Dという技術で二次元の「絵」に反映させる手法を用いている(3Dモデルではなく2Dイラストをメインで使用する)。
・様々な設定の「ライバー」を、同一の枠組み(箱)の中で運用する。
・活動方針や内容は「ライバー」自身が決める。企画や準備に至るまで、基本的にすべて「ライバー」が行う。


にじさんじ方式の功績についてよく語られることとして、低コストで多くのコンテンツを生産できることが挙げられる。
実際、3Dモデルを用意して専用のスタジオで動かすより、Live2Dで動く2Dモデルを自宅のPCで動かす方が費用は少なくてすむ。そして編集の入った動画を定期的に作るより、日常的に配信を行う方が手っ取り早くコンテンツが作れる。

しかし、にじさんじ方式は、単にコストの面にとどまらない、もっと偉大な発明であると思う。ここを過小評価している人がそれなりにいると感じるので、少し私の考えを説明させていただきたい。


にじさんじ方式の本質を一言で表すなら、
「機動戦を展開できる形態の構築と関係性による価値の提供」だ。

機動戦について詳しく書くと長くなるのでごく簡単に説明すると、意思決定のスピードを速め、迅速に行動に移せる形態を構築したということである。


話は逸れるが、OODA(ウーダ)ループという言葉をご存じだろうか。
OODAループとは、アメリカ空軍大佐ジョン・R・ボイドによって提唱された意思決定と行動に関する理論である。
リンク:Wikipedia OODAループ

OODAループでは以下のサイクルを繰り返すことで素早く状況を把握し、行動に移すことを繰り返す。
 Observe(観察)
 Orient(情勢判断)
 Decide(意思決定)
 Act(行動)

似たような言葉にPDCAサイクルがあるが、PDCAサイクルはPlan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Action(改善)のサイクルである。
PDCAサイクルでは計画が先頭にくることから、じっくりと時間的スパンをかけて行動を決定する意味合いが強い。
一方で、OODAループは状況の把握、判断から意思決定し、行動に移すまでを高速で行う意味合いが強い。
(このOODAループとPDCAサイクルの違いは文献によって結構まちまちだったりするので、何となくそういうものだと思ってもらえればよい。)


にじさんじ方式に話を戻す。
にじさんじ方式では意思決定を行うのは末端であるライバーだ。ライバーは自ら配信やSNSでの発信を行い、そのフィードバック(視聴者の反応)を直に受ける。そして次の行動をどうするか、を決めるのはライバー自身だ。
これは、OODAループの全てがライバーの中で完結し、高速に状況への適応を可能とする。

これが、チームによるVtuberの運用であった場合、どうしてもPDCAサイクル的な運用とならざるを得ない。
それはコントロール性で優れているかもしれないが、スピードや即応性という面では劣っている。

このように、にじさんじ方式では活動に関わる権限の多くを末端に委譲したことで、変化の激しいエンターテインメントの世界で迅速な展開を行うことができるようになったのだろう。

また、著名な経営学者である野中郁次郎(リンク:Wikipedia)が提唱する『全員経営』では、末端社員一人一人が自立分散的に判断し、「実践知」を発揮することの重要性が語られている。
これもまた、ライバー一人一人が判断・行動するにじさんじ方式との共通点を感じることができる。


ここまでが、「機動戦を展開できる形態の構築」に関する部分。
次は、「関係性による価値の提供」だ。

この部分に関しては何となく理解できる人も多いのではないだろうか。

にじさんじは異なる設定を持つライバーを同じ枠組み(箱)の中でデビューさせた。そして同じ箱の中で必然的に交流が生まれ、「関係性」が構築された。

「関係性」は、ロバストな(頑健な)魅力だ。たとえ、個々人の魅力が多少変質したり、欠損したりしたとしても、関係性の魅力は簡単には失われない
また、関係性の魅力が個々人に還元され、各々の魅力を強化することもある。

もちろん、箱がなくても関係性は築ける。実際、にじさんじのライバーも箱外と交流を持っているし、箱を持たずとも交流を広く持ち、多くの関係性を構築するVtuberもいる。
しかし、箱という枠組みが関係性を構築するのに都合がいいことは、説明せずとも十分に理解できるだろう。また、視聴者側が関係性を把握しやすいというメリットもある。


以上のように、にじさんじ方式は単にコスト的な優位性にとどまらない利点をもつ方式であり、変化の激しい現在のエンターテインメント業界にうまくマッチした方式であったと考えられる。


最後に断っておくが、私はにじさんじ方式が絶対の正解であるとは断言しない。
確かににじさんじ方式はVtuber界隈に大きなインパクトをもたらし、現在のVtuberの主流となる方法論を生み出した。しかし、成功の形はそれだけではない。

私は適者生存による自然淘汰はされるべきだと考えているが、それと同時に多様な形のVtuberが存在すべきだと思っている。
適者生存は自然の法だが、多様性の形成もまた自然の法だ。



※もし記事中に間違いがございましたら、コメント等でご指摘いただければ幸いです。