坂口安吾 文学のふるさと
ものすごく読みたくなってひさーしぶりに坂口安吾の 文学のふるさと を読んだ。
この文章は大学時代に読み心惹かれ、大好きな文章のひとつ、まさに 私の心のふるさと といえる作品だ。
短い文章なのでまだ読んだことのない方はぜひどうぞ。(ネットでも検索するとすぐに読める。)
私は高校時代に臨死体験をして、、、といっても医療ミスというか医療事故によるものだったのだが、とにかく呼吸がとまり、心臓も止まった。所謂、昏睡状態とか意識不明でなく、死んだという(身体から離れている)状態のとき
はっきりと "私は在る" と意識していた。
ラジオの雑音を最大にしたような音といくら目(心の目?)を凝らしてみても
まったく光のない闇の謎の空間に自分だけがいたのを知覚しそのことをしっかり覚えている。
そして、このままここに居たら自分は間違いなく死ぬと自覚していた。
その時私は二つのことを切望した。
その後どのくらい時間が経っていたのかわからないが、石で殴られ、押し付けられているような激痛(電気ショックと心臓マッサージのため)で蘇った。
死というものは彼岸にあるのではなく、生と陸続きのもので、表裏一体のものである、、、というのが私が臨死を通して得た結果である。
母が生前、人は生まれるときも一人、死ぬときも一人ということを言っていたが、まったくその通りでもあった。
それはともかくこの臨死体験によって死というものの魅力からなかなか逃れられなくなったのも事実。
臨死体験をした高校2年の終わりから、大学時代もその後も生きるということがめんどくさく、煩わしくなっていた。(身体があるということが不自由で仕方がなかった)
大学時代のある時期には、人と関わることに嫌悪を感じ、買い物の際に代金を払うのでさえ苦痛だった。
でもある事情があって私は死ぬわけにはいかなかった。全く私は生きる意味を見失っていたのだがそんな私に、この文章は"生きることとは所詮そんなものだ"ということを教えてくれた。
それを、"生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独" という言葉で安吾は表現している。
私は現在、何の不満もなく、何の心配も、問題もない、不自由もない、ありがたい生活を送っている。
それでもやっぱり私にとって、この文章は 心のふるさと であり、
家族がいて、生活があり、喜びがあり、悲しみがあり、信仰があっても、
やはり孤独から逃れることはできないのだと思う。
2011/11/18記 2023/08/18 一部手直し
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