片羽の鳳凰は青藍の空を恋う 第3話
とんでもないことに巻き込まれてしまった。
皓皓は宮の周囲をぐるっとなぞるように歩きながら、これからのことを考える。
宮殿に閉じ込められて、四日目のことだ。
藍の言う通り宮の裏手は高い壁で囲まれており、取っ掛かりのないつるりとした壁面は、山歩きに慣れ親しんだ皓皓でも乗り越えられそうにはなかった。
しばらく散策してみても、猫が通れる隙間もない。
壁沿いにいくつか倉庫が建てられていたが、その屋根の上までよじ登っても、まだ壁の頂上には到底手が届かない。
壁沿いに歩き続けると、例の深い谷に突き当たった。宮殿を囲んで半円状に壁があり、その両端は谷によって切り取られている。そういう構造のようだ。
悪意すら感じるほど、徹底された包囲網だった。
最初の夜に泊まった部屋がそのまま居室としてあてがわれ、皓皓のいない間に誰かがあれこれ整えてくれているらしい。外から戻ると、湯が張られた桶と、新しい着物が置かれていた。
「いたれりつくせりだな」
呟きながら、桶に添えられた手拭いを濡らし、汗ばんだ肌を拭う。
里で一番に高級な宿だってここまで気が利いてはいない。泊まったことはないけれど。
ふわりと食欲をそそる香りがする。扉を開けて廊下を除くと、料理の皿が乗った手車が置かれていた。
朝昼晩、大体決まった時間になると、こうして必ず食事が運ばれて来る。
首を伸ばして見渡しても、長い廊下には人影がない。
豪勢な食事からはまだ湯気が漂っていた。異様な光景だ。
初めの一、二回は気後れしていたが、空腹に負けて手を付けて以来、誰の許可を取らずとも勝手に食べてしまうことにしている。
どうせ呼び掛けたところで答えはないのだと、もう学んでいた。
料理に残る熱からして、給仕を行なった誰かが近くにいるはずなのに。
一人食事を始める。料理はどれもとても美味で、味気なかった。
これは、本当に家に帰らせてはもらえないのだ。
そう悟ったのは割合早い段階でのこと。
そのうち誰か「こんなことは馬鹿らしい」と言って外に出してくれるのではないか、という期待を脆くも打ち砕かれたのは、この宮の異常に気付いた時。
宮の中、外、何処を歩いても、誰にも会わない。
妙だ。
着物や食事の用意、それ以外も、皓皓が此処で過ごす上で困ることのないような気配りはそこかしこに施されているのに、誰かがそれをしている姿が一切見えない。
まるで隠れんぼでもしているかのように、おそらくはこの宮の使用人たちであろう誰かは、皓皓の前に姿を現さなかった。
「誰かいるなら出てきてもらえませんか?」
何度か呼び掛けたみた。応えはなく、気配も感じられない。
それでも、部屋に戻れば水差しと、籠いっぱいの果物が用意されていたりする。
居心地の悪さに耐え兼ね、意地でも誰かを見付けてやろうと歩き回った結果、廊下で遭遇したのは藍だった。
藍の気持ちの切り替えは皓皓より早く、彼は彼が招いたわけではない客を徹底して気にしない、という構えを決め込んだらしい。
が、皓皓に縋り付かれて渋々足を止めた。
「その、食事や着替えのことなのですけれど」
「何か不満か?」
「そうじゃなくて……誰が用意してくれているのかなって」
「忌子の皇子にも使用人くらいはいる」
「でも、姿が見えません」
「ここの奴らには、俺の前には姿を見せないように命じてある。おまえも同じように扱われているのだろう」
「どうしてそんなこと……」
「うるさいのが嫌いなんだ」
暗に「話し掛けるな」と言われてしまった。
皓皓としては見えない誰かに世話をさている方が落ち着かず、出来れば止めてもらいたい。
一応そう呟いてはみたのだが、その時その場に誰もいなかったのか、聞こえた上で希望を受け入れてもらえなかったのか。
その後も、いるはずの使用人たちと出会うことはなかった。
それから更に二日が経った。
着物が汚れるのを気にしたのは一瞬。日向を選んで地面に寝そべれば、皓皓にとっては懐かしい草と土の香りがして、大きく息を吸い込んだ。
前庭の草地で両手足を広げ、晴れた空を見上げる。
「困ったな……」
一人ぼやく。
困ったことに、此処での暮らしには何の不便もない。
それに困っていた。
衣食住は十二分に保障され、こうして外に出れば慣れ親しんだ草木と土に触れられる。限られた範囲の中とは言え、窮屈を感じるほど狭くはない。
人と会わないのだって、山奥で一人ひっそりと暮らしていた皓皓にとっては普通で、孤独なんて養父が他界して一年も経たないうちに手放してしまった感情だ。
藍の見立てによれば、
「次に様子を見に来た時にきっぱりと断りさえすれば、宛も諦めるだろう。それでも無理強いするほど、あいつ愚かな奴じゃない」
とのことなので、ならばひと月の辛抱だ。
そう思うと何も困ったことはない。
手慰みに千切った草の青い匂いで肺を満たす。
ネツサマシの草だ。庭に生えた下草に何故か薬草が多く混じっていることには、最初に散策して回った時から気付いていた。しかも土が良いのか育ちがいい。他にも、血止めの塗り薬や、胃腸の調子を整える薬になる薬草も生えている。
そうして草を摘み集めていればさして退屈することもなく、無為に時間を過ごす罪悪感にあっと言う間に慣れてしまった。
気掛かりがあるとすれば、鷺学に頼まれた薬と薬草を届け損ねていること。
これだけ沢山のネツサマシが集まればきっと喜ぶのに。
今思っても詮無いことを思いながら、体に染み付いた癖のように、皓皓は草を摘み集める。
藍はこの宮を鳥籠だと言い、自分を籠鳥だと言った。
こうして閉じ込められているにも関わらず、何の不自由も感じられない、皓皓自身はどうだ?
物思いに耽っていた皓皓の顔面に、「きゃっ」という小さな悲鳴と共に、大きな布が降ってきた。
丁度獣を捉える罠のように、落ちてきた布が皓皓を包み込む。
何事か? と慌て、もがき、なんとかそれを払いのけた時、開けた視界に、顔を蒼白にした少女たちが立っていた。
年の頃はまだ十にも満たないような幼い子で、瓜二つの顔立ちにお下げ髪、着物までお揃いで、一目で双子の姉妹だとわかる。
ちょこん、と並んで立つ姿は飾り人形のような愛らしさ。
襷掛けをして袴の裾を絞った格好を見る限り、藍や藍の身内ではなく、この宮の使用人だろう。
皓皓を襲った布は敷布だった。
二人の顔に「しまった」と書いてあるのと、抱えられた大きな籠に着物が詰まっているのを合わせて、洗濯物の回収中に飛ばしてしまった敷布がたまたま皓皓の上に被さってきたのだ、と状況を察する。
二人が同時に地面に両手両膝を付き、額までくっつきそうになるほど頭を下げてひれ伏した。
「ああ、そんな。大丈夫だから、気にしないで。君たちはこの宮の女官さんだよね?」
二人は押し黙ったまま。
まさか口が利けないのか? と思い、すぐに考え直す。
「僕までに気を遣う必要はないよ。ただの一庶民なんだから」
二人がそろそろと皓皓の顔色を窺う。
遠慮がちに、小さな口が開かれる。
「……でも、」
「……皓皓様は藍様と対になられるお方なのでしょう?」
「様付けはやめて。それに、その話は宛皇子が勝手に言っているだけで……藍皇子は納得していないよ」
少女たちは困惑した様子で顔を見合わせた。
「名前を聞いてもいい?」
「……小翡と申します」
「……小翠と申します」
「いつも着替えを用意してくれているのは君たち?」
二人揃って小さく頷く。
「そうか。小翡。小翠。ありがとう」
「とんでもございません」
「わたしどもの仕事ですから」
ぶんぶんと首を振る二人に笑みが溢れる。
冷たい空気しか感じられなかった宮の中で、こんなに愛らしい子供たちが働いていたのか。
つい、もっと喋りたくなってしまう。
「ついでと言ったらなんだけど、お願いをしてもいい?」
「何なりと」
良く似た声が重なった。
「此処から出して欲しい」
それは、と言葉を詰まらせてしまった二人の絶望的な表情を見て、申し訳ない気持ちになる。
「ごめんなさい。わかってる。出来ないんだよね」
「申し訳ございません」
少女たちを慌てて宥め、再び平伏しようとするのを押し留めた。
「籠か風呂敷か、何か容れ物を貸して貰えないかな? あれを運びたいんだ」
地面にこんもりと山になった薬草たちを指す。無意識に摘んでいるうちに、こんなに集まってしまっていた。
このまま放置してただ枯らせてしまうのは勿体ないので、折角だから保存出来るように処理しておこうと思い至ったのだ。
不思議そうな顔をする少女たちに苦笑いする。
それはそうだ。知らない人間からしたら「何故こんな雑草を?」と疑問に思うに違いない。
「薬草なんだ。つい癖で集めちゃって」
「御意に」
二人が深々と礼をする。
「あの、そんなに畏まらないで、普通にして。普段だって、わざわざ隠れたりしないでほしい。僕は藍皇子みたいに、うるさいなんて言わないから」
「藍様を悪く仰らないでください!」
突然、悲鳴のような声で二人が叫ぶものだから、皓皓は面食らってしまった。
「申し訳ございません」
「でも、」
と、小翡と小翠がそれぞれに唇を噛み、両目に涙を浮かべて訴えた。
「藍様が姿を見せるなと仰るのは、わたしどもを慮ってのことなのです」
「どういうこと?」
「片羽の身を嫌い、忌子として周囲に災いを齎すことを恐れていらっしゃるのは、誰より藍様御自身なのです」
「藍様は、御自身が関わった相手は、不幸になるとお考えです。だから、わたしたち使用人どもにまで気を遣って、極力人と関わらないようにしておられるのです」
「あのように厳しい物を言いをされるのもわざとなのです」
「本当はお優しい方なのです」
初めこそ遠慮がちだった少女たちの言葉には徐々に熱がこもり、やがて二人はすんすんと啜り泣き始めた。
「……君たちは、藍様のことが好きなんだね」
「大好きです!」
少女たちの裏表ない好意に、一時の感情で人を悪く言ってしまった己を反省する。
自分はまだ藍のことを知らないのだ、と理解した。
同時に知りたい、と思う。無垢な少女たちが懸命に敬愛する人のことを。
「藍様のこと、教えてもらえないかな?」
途端、二人の目が輝いた。本当に藍のことが大好きなのだ。
皓皓が摘み散らかした薬草を分けて束ねる作業を手伝ってくれながら、小翡と小翠は口々に藍についての話を語って聞かせてくれる。
「藍様がお生まれになった時、お父上であらせられる弟皇様は、藍様を皇族から除籍されることをお考えになられたそうです」
「除籍?」
「皇族と関わりのない家へ養子に出すか、あるいは、神職に就かせて俗世との交わりと断つか」
「そんな。生まれてすぐに?」
「皇族に片羽が生まれるということは、それほどの禁忌なのです。昔は産湯に浸かる前に鬼籍に入れられることすらあったとか」
「ですが、あまりに可哀想だとお止めになったのが兄皇の皇后様、宛様のお母上です。弟皇様は兄皇后様に説得され、藍様を皇子としてお育てになるとを決めました」
「藍様が六つの時、藍様のお母上がお亡くなりになられました。
元より体の丈夫ではない方で、病が原因だったのですが、藍様は今でも御自分のせいだと思っておられます」
「勿論、わたくしどもはそうは思っておりません。兄皇后様や宛様、芻様も……
ですが、折の悪いことに同じ年、酷い日照りによる飢饉がありました」
およそ十年前。まだ幼かった皓皓の記憶にはほとんど残っていない。
それでも「あの年は酷かった」と、大人たちが語るのは何度も耳にしている。余程のことだったのだろう。
「臣下たちの『災いは皇族に忌子が生まれたせいだ』とする声は大きくなる一方で、最早兄皇后様でも藍様を庇いきれなくなってしまいました。
そして、弟皇様と兄皇様は藍様を国の中心から遠ざけ、この宮にお囲いになるとお決めになったのです」
「この宮の主人となってまず最初に、藍様が使用人たちに下された命令が『自分の前に姿を現わすな』だったそうです。以来、藍様はこの宮の使用人たちも、皇都から遣わされてくる臣下の者たちも、ずっと遠ざけておられます」
「藍様が憚りなくお会いになり、お話しされるのは従兄姉君の宛様と芻様だけです」
僅か六つで周囲から忌み嫌われ、言ってしまえば父親に見捨てられる形で、辺境の宮に閉じ込められ、他人と接することなく生きてきた人生。
少なくとも、藍が他人に対して友好的でない理由は、これで理解出来た。
皓皓とて人付き合いが上手い方ではない。
その要因が、山中での暮らしと、自分が片羽であることに関係するのは確かだった。
そう考えると、藍のあの辛辣な物言いも仕方ない気がしてくる。
「君たちは何時から此処で働いているの?」
「三年前からです」
二人の出身は下級貴族だそうで、家を継げない貴族の女児や長男以外の男児が、宮仕えをする例は多いのだそうだ。
三年仕えただけの彼女たちは、まともに藍と顔を合わせたことがないと言う。
暮らしに不自由がないよう、いつも影からこっそりと様子を伺うだけ。
今語ったこともほとんどが彼女たちが宮仕えを始める前の話で、先輩使用人たちからの伝え聞きだそうだ。
それでも少女たちは主を敬愛する。
二人以外にも大勢の使用人が働いていて、中でも長年勤める人たちがそう語ったというのだから、使用人たちの間での藍へ対する感情は、小翡や小翠と同様なのだろう。
皓皓の中で、藍という人物の認識が変化し始めていた。
机の上にどかりと置かれた資料を前に、藍はここ半月で何度目になるかわからない溜め息を吐いた。
資料は全国から宛の元に集められた物だ。それがそのまま藍の所に横流しにされてくる。
宛があの皓皓という庶民を宮に連れて来てから、もう半月になる。
なんとかして彼を家に帰してやろうと、説得のための手紙を何度も宛に送ってはいるのだが、返事はない。
そのくせこうして仕事はしっかりと押し付けてくるのだから、つくづく身勝手だ。
遠くない所に他人の気配がする。そんな生活は此処へ来てから初めてで、藍はこのところ、ずっと落ち着かない気分だった。
いきなり見知らぬ場所に連れて来られた彼に至っては、さぞや不安に違いない。
と、それとなく観察していれば、初めの数日こそ迷子の子供のように泣きそうな顔で彷徨い歩いていたのが、いつのまにか使用人の少女たちと親しくなったらしい。恐るべき順応の早さで、今や彼女たちと共に草を摘んだり、洗濯をしたり、時には料理にまで手を出しているようだ。
お陰様でしばしば遠くに聞こえるようになった笑い声には閉口するが、結局のところ、藍には関係のないことだった。
広げた資料に目を通しながら思う。
(大体、俺に何が出来ると言うんだ)
宛から送られてくるのは、ある熱病についての資料だった。
発祥地、患者について、症状の詳細などが纏められた報告書。
それが十数年前から年々、いや、日々増え続けている。
(こんな資料を此処に集めて、それで何になる?)
宮から一歩も外に出られない藍に出来ることといえば、渡された資料を分析して纏め直すことと、今いるこの書庫に収められている膨大な蔵書を紐解いて、この原因不明の熱病と似た症例が過去の何処かにないか調べること。
それだけだ。
藍が新たな報告書を前に、自虐的な思考に沈んでいた時だった。
「わぁっ……!」
扉口の方で声がした。
それに驚きもしなくなってしまったことに、また溜め息が零れる。
好奇心旺盛な雛鳥は、とうとうこの書庫まで探り当てたらしい。
宮の中でもとくに広く天井の高い部屋を選び、入るだけの書架を押し込められて作った書庫。どの書架にもぎっちりと本が収まっていて、溢れ出た分が机や床まで侵食している。
声の方へ向かってみれば、皓皓が手近な本棚から、一冊を抜き取ろうとしているところだった。
「おい」
「ひゃっ!」
跳び上がった皓皓が手から本を取り落とす。
貴重な本だ。丁重に扱え、と思う。
藍からの無言の非難を感じ取って、皓皓は慌てふためいた。
「ご、ごめんなさい!」
拾い上げた本が傷付いていないことを確かめて、棚に戻そうとした彼の手が止まる。
「これ、医学書?」
その棚に並んでいる本は全て医学や薬学関連の物だ。
藍は意外な思いで皓皓の手の中にある本を見る。
「親字が読めるのか」
鳳凰之国では音だけを表す表音文字の『子字』と、一文字に意味まで含まれる表意文字の『親字』、二種類の文字が用いられており、用途によって使い分けられている。
庶民が読み書きのほとんどを子字のみで行う一方、親字は専門的な学問や、戸籍などの正式書類に使われる。また、外交や貴族の嗜みとしても必須であるため、学者や役人、貴族皇族の間では、むしろ子字より親字の方が親しまれていた。
一応は皇族に籍を置いている藍はどちらも使いこなせるが、片田舎の庶民である皓皓に親字の心得があるとは意外だった。
「少しだけ、です。父と母が薬師で、そういう本が家に沢山あったので」
なるほど。
馴染みのある言葉が並ぶ棚に手を伸ばしたのも、無意識のうちだったのかもしれない。
「すごい量の本ですね」
圧巻の蔵書を見渡して、皓皓が呟く。
その表情はどこかうっとりとしていた。
「本が好きなのか?」
「好きと言うか……本を読む以外に、娯楽がありませんでしたから」
「本なら一人で読めるからな」
図星を指された顔が藍を見る。
年に数回従兄姉たちが訪ねて来る以外、藍はずっと一人で過ごして来た。
まるで牢獄のように出入り道を塞がれた、この宮の中で。
遊び相手なしでも暇を潰せる方法だけは、嫌と言うほど身に付いている。
彼もまた、そうなのだろう。
「……読みたいものがあるなら、持って行っても構わない」
そんな彼に、どういうわけか気まぐれで、情けを掛けてみたくなった。
「いいんですか?」
「見られて困るようなものは一般人には読めないように書いてある」
皓皓の目が煌めく。
藍の前で初めて見せた明るい表情だった。
やはり薬師という職業柄なのか、簡単な読み物ではなく、先程手を伸ばしたのと同じ医学書の棚を熱心に物色し始める。
と思えば、不意にこちらを向いた。忙しい奴だ。
「藍様は医学に興味があるんですか?」
「何故?」
「庭に沢山薬草がありましたし……医学に関する本が多いようですから」
「暇潰しの、独学だ」
目敏い。
皓皓が見上げている棚の横には、以前に宛から送られてきた資料も積まれたまま。そちらにも興味があるようで、ちらちらと横目で伺ってくる。
秘匿情報というわけでもない。
別に構わないだろうと許可すれば、興味津々な様子で報告書を読み始めた。面白い内容でもないだろうに。
好奇心に輝いていた顔が、資料を読み進むにつれて曇っていく。
「やっぱり流行っているんですね。熱病が」
「やはり?」
「知り合いの医師に聞きました。原因不明の高熱が続く病が流行っていると」
里の診療所の息子からの情報らしい。となると、ほぼ確実な情報だろう。
「そうか、もうこんな辺境まで広まっているのか」
「もう?」
一枚の紙を拾い上げ、皓皓に渡す。
国全体を描いた地図で、点々と赤い印が打ってある。藍が書き込んだものだ。
赤い点は都を中心に密集しており、辺境の里の方は比較的数が少ない。
「同じ熱病の報告があった場所を記録してある。古い例だと十七年前。ここ二、三年で急増している。最初は皇都や大都市ばかりだったのが、やはり数年前から全国に散り始めているんだ。
都の医師たちも対策に取り組んではいるが、何しろ症状以外に共通項がなく、原因らしい原因が見付からない。感染症なら歯止めを掛ける方法の模索も出来るが……被害は拡大し続けている」
「藍様は、その流行病について研究しているんですか?」
「研究なんて大層なものじゃない」
いくら本を読み知識を蓄えたところで、医師でも薬師でもない藍に専門的なことはわからないし、実際の病を診察出来もしない。
全てはこの広いようで狭い宮の中だけで行われている、児戯に等しい紙の上の四苦八苦。
本を読むのも、庭に薬草の種を撒くのも、手慰みだ。
「十七年前、か。そんな昔から……」
食い入るように地図を見詰めていた皓皓が、「あ」と声を漏らした。
「弟皇の所に忌子が生まれた頃だな」
彼が言いかけて飲み込んだ、その先を藍は自ら口に出す。
すぐさま具体的な数字を挙げられるのは、それが自分の年齢と同じ数字だからだ。
「自分のせいだと、思っているんですか?」
随分と単刀直入な問いだった。
答える気も失せてしまう。
答えは、是。
「……貴方のせいじゃない」
自然と漏れてしまったような、飾り気のない言い方だった。
同情でもなければご機嫌取りのためでもない、素直な言葉。
そして、そこには根拠もなく、何の慰めにもならない。
あまりにも薄っぺらで、跳ね除ける気にもなれない空虚な言葉。
「ごめんなさい」
おまけに脈絡さえなく、突然謝られた。
「何が?」
「僕、あなたのことを勘違いしていたから」
皓皓が言う。
「藍様は、優しい人なんですね」
虚を突かれた。
何処で入れ知恵されて来たか知らないが、およそ自分には似つかわしくない形容詞に寒気を覚える。
だから他人と関わるのは嫌なのだ。
勝手に作り上げた幻想に藍を当て嵌めて、自分の思いたいような人物に藍を仕立て上げる。
それがどんなに実際と違っていたところで、彼らにはどうでもいいことなのだ。
「……もう行け」
「はい……あ、本、借りて行ってもいいですか?」
好きにしろ、と手振りで示すと、皓皓は分厚い薬草図鑑と医学書を数冊抱え、一礼して書庫から出て行った。
「まったく……」
宛が再び訪ねて来るまで、まだあと半月もあるのか。
その間、あの本で大人しくしていてくれればいいのだが。
よりにもよって特別難しいのを選んで持って行った。いくら多少の知識があるといっても、簡単に読める内容ではない。
流行り病についての資料の分析を一旦止め、藍は何処かにあるはずの親字の辞書を探し始めた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?