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父なる神の愛

ポッドキャストFaith Hope Love で配信しているメッセージの内容です。


そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。――あなたをあわれむ方、主は言われる。


イザヤ書54章10節


 キリストは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」という言葉を語りました。神を愛し、人を愛することが最も重要なのだと伝えたのです。私たちが従うべき唯一の基準は、愛です。


 しかし、理解していないこと、自分が持っていないものを人に与えることはできません。人を愛するには、自分を愛することが不可欠なのです。自分自身を愛せない人が人を愛するのは、とても難しいことなのです。

 しかし、自分自身を愛するのには、自分がどれだけ愛されているのかを知る必要があります。


 神様の愛は「無条件の愛」だと語られることはよくあります。この「無条件」というのは本当に重要なことです。神様の愛が無条件だと頭でわかっていても、自分自身を条件付きでしか「良し」とできないことが人にはあるからです。


 かくいう私もそうでした。私は神学校にいたとき、燃え尽き症候群、バーンアウトを経験しました。徹夜しても終わらない課題や奉仕で疲れ切ってしまったのです。きっかけになったのは神学生として直面した出来事でしたが、これには私自身の生き方も深く関係していたと思います。

 その前に大学院生だった私は、毎日図書館が閉まる夜10時まで研究室にこもっていました。勉強しなければならないという強迫観念に駆られて、何もしていないときには罪悪感を覚えました。その後神学校に入学すると、神学校でこなさなければならないことの量は大学院の比ではありませんでした。成績優秀者の名前の張り出しや表彰などにもプレッシャーを感じていました。そこでますます私は睡眠を削って課題や奉仕、論文に没頭しました。その間、自分が人間ではなく神学校のためのただの歯車になっているような気がしました。その他いろいろなストレスが重なり、教会に行くために駅のホームに行けば、「今飛び込めばもう何もしなくても済む」というような考えが頭をよぎるまでにいたってしまいました。疲労が溜まりすぎて漠然と「死にたい」と感じるようになってしまいました。

その気持ちに歯止めをかけてくれたのは家族の愛でした。「人はパンだけで生きるのではない」という聖書の言葉は、そのとおりです。愛は人の命を救うのです。生きているって本当に幸せなことだと思います。

 

 私はそれから、全てのことをストップせざるをえなくなりました。しかし、私はそこで再び神様との関係を回復させることができるようになったのです。そのような状態になったとき、本当に久しぶりに奉仕や課題のためではなく、純粋に聖書を読む時間が与えられました。祈祷会という枠組み以外で、心から一対一で神様に祈る時間も与えられるようになりました。

 そして、自分に本当に必要なのは奉仕でも神学の課題でも論文でもなく、生きている神様との関わりなのだと気づいたのです。


 大学院生の時から走り続けて、とうとう一度燃え尽きてしまいましたが、今思えば、私は「何かをしている自分」にしか価値を認められなかったのだと思います。また他人に迷惑がかかることを恐れ、キャパオーバーになっても求められた仕事や課題を放棄するわけにはいかないと思っていました。強制的に神様からストップがかかるまで、私は走り続けました。


 しかし、神様との時間を取り戻したことで、私はそれが間違っていたことに気づきました。私は何かをするから価値があるのではなく、私自身の存在に意味があるのだと教えられたのです。神様が私に求めているのは努力ではなく、神様と共にいることなのだと教えられました。また、重要なのは神様が自分を愛しているということであって、人からの評価でもないということも教えられました。


 人は時に自分の付加価値で自分の価値が決まると思い込んでしまいます。ある人には経歴だったり、ある人には仕事だったり、ある人には見た目であったり、ある人には役割であったり、ある人には必要とされることであったり、ある人には他の人に認められることであったり、存在そのものではなく、何か別のことでしか自分の価値を認めることができないことがあるのです。


 付加価値で自分の価値を決めていると、自分の存在はとても危ういものとなります。その付加価値が通用しないとき、あるいは自分自身に問題があると感じると、自分の存在意義まで疑ってしまうのです。自分が思い描く完全な自分以外は受け入れられないのです。


何かすることで良しとされるとすることは、イエス様が強く警告した、律法主義です。神様は、私たちを条件付きという付加価値で愛しているのではありません。存在そのものに価値を認めています。


 自分の存在に価値を認められない、自分を愛せないと、立ち止まるのを恐れ、ワーカホリックに陥ることがあります。これは時に日本の教会の牧師達にも見られます。あるいは自分に愛される価値がないと思っているがゆえに人を信頼することが難しさを覚え、心を開き親密な関係になることに恐れを抱きます。また愛情を試してしまったり、人を過度に疑って素直に愛することがとても困難になることもあります。自分で精一杯になると、人の気持ちを考えたり思いやることも難しくなります。本当の愛は、奪うことではなく与えることです。

付加価値でしか自分を認められないと、人の評価を気にして決まったレールから外れることを恐れたり、他人を愛する対象ではなく、自分と比べる対象として見てしまうことがあります。心から人の存在を喜ぶことが難しくなります。虚しさを抱え、心から安心したり、喜びを感じることも難しくなります。


 ジレンマのようですが、このようなことは、時折牧師家庭で育った人、あるいはとても敬虔なキリスト教徒の家庭で育った人にも見られます。それは一部の例であって、もちろんそうでない方も多々いらっしゃいますが、私はそのような環境で育った方が過度にキリスト教を嫌悪したり、隠れたところで他人に対して攻撃的になってしまったり、あるいは自分に対して攻撃的になって病んでしまったり、あるいは人からの見られ方を過度に気にして「このように生きなければ」という自分の決めたレールから外れるのを恐れ、また立ち止まるのを恐れ、生き急いでしまっているのを何度か目にしてきました。


 なぜそのようなことが起こるのかと不思議に思っていましたが、あるとき奉仕していた教会で、礼拝後たった一人で五歳くらいの牧師のお子さんが広い礼拝堂で取り残されているのを目にして、その理由を見たように思いました。次の礼拝で大きなイベントを控えていたため、その子の父親である牧師先生はもちろん、先生の奥様も女性会での出し物のために忙しくその場を離れてしまっていました。広い礼拝堂でその子は一人で泣いていました。その子はその御家庭の末っ子で、親と一緒にいる時にはとても可愛がられていましたが、日曜日よく放っておかれているのを目にしました。私が見つけたとき、その子はいつ誘拐されてしまってもおかしくない状況でした。


 時に敬虔な人ほど、教会での礼拝、企画、奉仕が偶像化してしまうことがあります。しかし、それでは本当に大事なものを見失ってしまっているのです。親が教会という枠組みを偶像化すると、親は子供が教会に来ないことを恥じたり、たとえ子供が苦しんだ末選択したことであっても離婚など教会で良しとされないことを受け入れなかったりします。子供は親に愛されている確信が得られず、傷つきます。宗教的な価値観を押し付けられてキリスト教を嫌悪することもあります。あるいは時にそのような家庭の子供たちは親に認められるため、周りの期待に応えるために洗礼を受けたり、教会で働くために献身することがあります。それは大きな間違いです。誰にも気づかれないまま彼ら自身が神様と実際に出会う機会が奪われてしまうのです。彼らは周りの評価に苦しんで大人になっても神様や人に不信感を抱いたまま「良い子」を演じ続けようとし、その結果様々な歪が生じてしまいます。すると、後々大きな問題が起こることがあります。

 大切なことだと感じたのでこのようなことに言及しましたが、皆がそうだということではなく、もちろん先ほど述べたように牧師家庭や敬虔なキリスト教徒のご家庭で育った方で、このような問題を持っていない方も多くいらっしゃると思います。


神様は愛です。たとえ神様のための働きとされていることであっても、それが神様より優先されると、間違いが起こります。神様が唯一人に与えている戒めは「愛しなさい」ということです。神様は教会の奉仕に尽くすよりも、今礼拝堂で泣いているその子供のもとへその親が駆け寄ることを望んでいたと思います。大切にされなければ、自分はもちろん、人を大切にすることはとても難しいのです。愛されているという確信がなければ、心からの安心や幸せを得ることがとても難しいのです。

 自分を愛せるかどうかは、自分が愛されていることを理解することにかかっています。それは、親に愛されているという確信に深く関係しています。

 神様は、ご自身が私たちの父親であると聖書で語っています。父である神様がどんなに私たちを愛しているか理解することが、生きる上での鍵なのです。


 神様の愛は計り知れず、この世の基準とは全く異なる次元にあります。


聖書が語る主が愛した民は、決して完璧ではありませんでした。

神様を信じ「義」とみなされたアブラハムは王を恐れて妻を「妹」だと言いました。イスラエルの民をエジプトから救ったモーセは、若いころに殺人をしました。主を心から愛したイスラエルの王ダビデは、姦淫と間接的な殺人を行いました。キリストの弟子ペテロはキリストを裏切り「そんな人は知らない」と言い逃げました。キリストを広く伝道したパウロは、かつてキリスト者を迫害し、彼らが殺されることに加担していました。



 しかし、彼らは全員、深く主に愛され、最終的に神の栄光のために素晴らしく用いられました。神は、彼らの罪を問題としませんでした。神は彼らの存在を尊く見ていました。神は彼らを、良いことをしたとか、あるいは悪いことをしたという目で見てはいませんでした。ただ、彼らの存在を愛しているがゆえに選んだのです。無条件の選びとは、愛です。


「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。

 しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。

 あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。」申命記7章7-9節


 親は子供を条件付きでは愛しません。何かができるからとかできないからとか、そのような付加価値では愛しません。子供はただその子であるというだけで代わりの利かないかけがえのない存在なのです。神は父親として私たちをそのように見ています。神にとって私たちは、代わりが絶対にきかない、かけがえのない唯一の存在なのです。


 創造のはじめ、エデンの園には二本の象徴的な木がありました。いのちの木と善悪の知識の木です。人が善悪の知識の木を選んだことから、人は霊的に死んだ者となり罪に陥りました。神は私たちを良いことをしたから愛する、悪いことをしたから愛さない、とはしません。道徳的に良いことをして生きようとする律法学者も、悪いことをして生きる堕落した人々も、神の目には死んだ人です。

 神は、いのちの木であるキリストを選び、私たちがいのちを持って生きる者となることを望んでいます。私たちのうちでキリストが生きるとき私たちは罪を慕うことができなくなります。私達に重要なのは何かをして完璧になることではなく、不完全な自分を受け入れ罪を認め、悔い改めることです。弱さは神が最大限に働かれる機会となります。神は私たちの弱さを全く問題としません。大切なのは完全な自分でいることではなく、自分の弱さを認めることです。神にとって問題なのは私達がいのちを持って生きているか霊的に死んでいるかであって、善いことをしているかしていないかといった行いではありません。キリストを信じた者は、罪の無いキリストを着るがゆえ、完全な存在として神に認められます。その人の努力で完全となるのではありません。


 キリストは私たちの罪の代価を払うために来られました。神は聖い方なので、人に罪のある状態では関わりを持てません。犯罪に対し刑罰があるように、罪には対価を払わねばなりません。神は人が罪を持っても、私たちを愛し、救い、関わりを持ちたいと思われました。しかし私たちを愛しているがゆえに、私たちを傷つけたくなかったのです。そこで私たち自身が罪の対価を払わないでよい道を開こうとしました。

 その結果、ご自身そのものであり、ご自身の御子である罪なきキリストを、人の罪の対価を払う存在として世に送りました。キリストは十字架にかかるとき、ご自身が救おうとしている人々から侮辱され裏切られ傷つけられました。しかし、私たちを愛しているがゆえに、キリストは贖いの子羊として十字架につけられることを引き受けたのです。

 キリストは十字架にかかる前、弟子たちに「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれももっていません。」と語ります。キリストは、また神は、ご自分のいのちを投げ捨てても良いと思い、それを実行できるほどに私たちを愛しました。私たちの存在に無限の価値を認め、もはや私たちに罪を認めないとされました。キリストの贖いによって、私たちは無罪となったのです。全く罪の無い者としてみなされたのです。


 神は私たちを条件つきで愛しません。「何をしたから、しなかったから」愛するなどということはしません。ただ、私たちの存在が愛おしいのです。神はどんなときも絶対に私たちを裏切らず、私たちの味方で居続けます。神は世界の基の据えられる前から、想像もつかないほどの昔から私たちの存在を計画し、愛する者として選び、この世に送り出しました。神にとって、私たちのうちたった一人が欠けても世界は成り立ちません。私たちにはそれほどの価値があるのです。私たちは、あなたは、無限の愛によって愛されるのに値する者です。

神は私たちにこう伝えています。


「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4

HP Faith Hope Love

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