一つのことを私は主に願った。それをわたしは求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。詩編27篇4節
キリストを信じると、教会に行かなければならないのか、これは多くの人が抱く疑問かもしれません。まず、教会とは何でしょうか。多くの人が思い浮かべるのは、十字架のついた建物かもしれません。しかし、新約聖書の使徒の働き7章48節には「いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。」とあります。聖書が語る教会は、永遠の中に存在する普遍的なものであり、物理的な対象を指すのではなく、霊的なものです。聖書が繰り返し語るのは、教会とはキリストのからだであるということです。そして、教会の頭はキリストです。
イエス様は弟子のペテロに向かって「私はだれか」と尋ねました。するとペテロは次のように答えます。「あなたは生ける神の子キリストです。」そのペテロに向かってキリストは、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。この岩の上に、わたしは教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」
と語ります。イエス様は、イエス様ご自身を神の子キリストと告白する、その信仰の上に教会を建てたのです。教会とは、イエス・キリストを救い主とする信仰者の集まりなのです。私たちは皆、世界の基の据えられる前から愛された神の子供です。礼拝とは、子供たちが神という父に会うことなのです。
新約聖書の多くの書簡を記しているパウロは、その中で教会はキリストの身体であると繰り返し語っています。イエス様は教会とはご自身の体であることを示すため、復活を指して3日で神殿を建て直すと仰いましたが、イエス様がいらっしゃる場所が教会なのです。聖書に示された教会とは、イエス様のいらっしゃる場所なのです。
聖書には、「二人三人でも、主を信じる者が集まれば私はそこにいる」というイエス様の言葉があります。この言葉に導かれ、私はクリスチャンの家族と家で讃美歌を歌い、聖書を読み、祈るようになりました。そのようにしてから、家の中が神様の光で満たされているような感覚を覚えるようになりました。私自身の罪も以前に増して気づきが増え、その分家族への柔和な気持ちが増していきました。家族にも柔和さが広がっていき、良い変化が起こりはじめました。家の中と教会は断絶された場所ではないのです。家族にクリスチャンがいなくても、共に神を信じたい、知りたいという仲間がいれば、街中でもどこでも仲間と共に神様を礼拝することができます。礼拝は、父なる神に会いにいき、ますます父に愛されていることを知る歩みです。その愛を知った時、私たちは愛を他の人に伝えることができるようになります。イエス様は、信じる者が互いに愛し合うことを見て、人は私たちがイエス様の弟子であるという事を知ると語りました。私たちが互いに愛し合う所に、神様はいらっしゃいます。
イエス様を信じている人は、その人が主の宮であると聖書は教えています。キリストを信じる者が、教会そのものなのです。つまりどんな時も、キリストを信じる者にとって教会は離れ得ないものなのです。キリストの御名の元、行動するならその人が教会でありキリストの身体であるからです。私自身、パウロも牢獄で礼拝していたのだと気づいたとき、いろいろなところへ出ていき神様を伝えたいと思うようになりました。
カンタベリー大主教であったウィリアム・テンプルは、「教会とはクリスチャン以外のためにある。だからクリスチャンは教会の外に出て、世のために活動するのだ。」と語っています。
教会とは、新約聖書の原語ギリシャ語でエクレシアといいますが、これは人の集まりを指す言葉です。教会は組織でも建物でもなく人です。私達の教会籍が地上のどの教会にあっても、私たちの本当の教会籍は、天にあります。「私たちの国籍は天にあります。」と新約聖書のピリピ書が語る通りです。
教会は一つのキリストの身体です。教会には様々な教派やグループがありますが、天において区別はありません。正教会、カトリック教会、プロテスタント教会、福音派か、メインラインか、ペンテコステか。そんなことも神様の目には全く関係ありません。互いを否定することは、キリスト御自身の身体を否定することなのです。
教会はただ一つのキリストの身体です。イエスキリストを信じる者は、どこにいても、どの時代に生きていても、キリストの身体であり、一人一人が欠けてはならない唯一無二の、キリストの身体の尊い器官なのです。
初めに投げかけた、キリストを信じた者は教会に行かなければならないのか、という問いには聖書によって次のように答えることができるでしょう。「私たちが行くのでなく、私たちが教会なのです。」教会とは通うものではなく、私たち自身です。
愛のある場所に神はいらっしゃいます。神のいる場所が教会です。歴史の中で、「教会」と名がつく場所に分裂が起こることは何度もありました。今現在も教会と呼ばれる場所の中で、歪が生じることがあります。愛が唯一の解決の道です。教会は罪人の集まりですが、愛は多くの罪を覆うことができるからです。教会と称していても、神がいなければそこは教会ではありません。教会を建てるのは神です。神は愛のある場所にいらっしゃいます。愛のある場所が、教会なのです。
これまで、日曜の午前中に教会で礼拝を守ることがともすると偶像化され、傷ついてきた方もいらっしゃるかもしれません。様々な理由でそのような礼拝に集えない方は多くいらっしゃいます。また集うことができるのも、その時間に交通機関で働いてくださっている方があってこそのことです。しかし、神様はひと時の儀式ではなく、毎日私たちの心がどこにあるかを見ておられます。イエス様は、「神から心が離れた行い」を戒め、「神を愛し、人を愛すること」が最も大切であると人に伝え続けました。「儀礼に参加するように」ではなく、「神と人を愛するように」と伝え続けました。パフォーマンスではなく、一瞬一瞬、毎日神様を信頼し共に過ごしているか、そのことのほうが、ずっと重要な問題なのです。今、新型コロナウィルスの影響で、礼拝の在り方に世界中で変革が起こっています。このことによって、世界中の教会が、教会とは建物ではなく「人」だということに気づきつつあると思います。教会は人の作った組織に従属するものではなく、神に属するものです。信じる人々そのものです。私たちそのものなのです。
イエス様は、十字架に掛かり死んだ後、復活し、弟子にこう語りました。「私は世の終わりまであなたがたとともにいます。」
イエス様は復活して、今この瞬間私たちのいるところにいらっしゃいます。キリストの身体である私たち教会を導くのは、教会のかしらであるイエス様です。イエス様が今生きていらっしゃることを信じ、この方に教会を委ねたとき、私たちの中に神が現れ、互いに愛し合うことができるようになります。人がその愛を見たとき、私たちが今いる場所が、教会へと変わります。愛し合う場である教会が広がり、世が神の国へと変えられるとき、全ての人が神を知ることになるでしょう。
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