「信じる」ということについて 芦田愛菜さんの話から


自分のいる趣味の界隈で、ふうふの妻の方が旦那以外の男と関係を持とうとしたということが、旦那によって周りに知らされることになった。その時に思ったことについて、少し深掘りして考えてみたい。最初に誤解のないように述べておくと夫婦間のことについては興味がなく、それについて自分の論を押し付けようなどとは思っていない。

婚姻関係の前提には「信頼」があるように思う。ある男女が二人とも、基本的には生涯添い遂げるような前提で、それに即して法律が整備されていると思っている。だから不貞行為には罰則があるし、犯した方は争いの場では不利になる。周りには、結果としては離婚に至った夫婦もいる。彼らも、当然ながら最初の方は多かれ少なかれ相手を「信頼」していたと思う。子供がいらっしゃる家庭であれば、出産の際や産後もそうした助け合いがあったのではないかとも考えられる。

しかし結果として、彼らの関係がブレイクすることがある。今回のような不貞行為があった時に、おそらく自分が当事者であれば「信じていたのに、どうして」と思うであろうし、本人に対してそう伝えるだろう。これだけの関係性がある中で、いったいどうして自分を「裏切った」んだという風に思うかもしれない。

ふと、芦田愛菜さんが映画えんとつ町のぷぺるの記者会見で問われていたことを思い出した。「信じるとはどういうことでしょうか?」

引用 「揺るがない軸を持つことは難しい。だからこそ人は『信じる』と口に出して、成功したい自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」

「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました

https://www.huffingtonpost.jp/entry/mana-ashida-hoshinoko_jp_5f51b134c5b6946f3eaf9b93

これを見た時には、ハッとした。なるほど、自分が使っている「信じる」というのは利己的なもので、その実は相手が自分の意にそぐわなかったら「裏切られた」「期待と違った」と相手に対して思うことなのだと。難しくとも、揺るがない自分になれるように意識的になろう、そんな風に思った記憶がある。

今回の件で、この一連のことを思い出した。仮に、自分が浮気をされた側だとして、相手を「裏切った」という時、自分は相手のそうした一面を知らず、それに対して怒ってしまっているということなのか?

彼女の話でいえば、そういうことなのかもしれない。そして、そうした一面をも受け止めていく(その後に関係が継続するかどうかは別として)

そう考えてみると酷だなと感じる。相手と何があるかによって、この「信じる」については受け入れられるところと、そうでないところがあり、自分の妻が不倫していたという程のことが、自分に起こったとしたら自分は相手を徹底的に糾弾するだろうし、相手への理解(相手の一面を認めることをはじめとした)などはなさそう。言ってしまえば、信じられるというのは人間的に強い人のことなのだなと。この「信じる」ということの中には「許す」ということが含まれているような気がした。自分が読んでいた『鋼の錬金術師』という漫画にスカー(Scar)というキャラがいる。イシュヴァール族の一人で、過去に一族の大半を殺されたため、殺した錬金術師たちへの復讐を行っている。話の過程で彼の叔父が現れ、弟であるスカーに対して「許さねばならぬのだよ」と諭すシーンがある。中央政府に一族の大半を虐殺されていながらである。ここでは、もちろん戦争という負の連鎖を止めるためという側面もあると思うが、人と人の理解には結局のところ、相手を受け止める「許し」が必要なのではないかとここでも思った。

少し話がぐちゃぐちゃしている気がするが、僕らが誰か、何かに対して「信じる」という時は、自分が一方的に相手に期待しているだけではいけず、そうらなかった時には「そういう一面もあるのだ」と寛容になって受け止める、それが日常生活レベルでは大切なのかもしれない。ただ、たとえば不倫であるとか、自分に近しい人間を殺されたであるとか、そうしたことが起こった時に、相手を「信じ」たり「許し」たりすることは、強い人間ではないと難しい。そんなことを思った。

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