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岩戸鈴芽は戸締まれない【すずめの戸締まり感想】

 東日本大震災から12年経つ。

 21世紀生まれは誰もが、もう震災前より震災後の方が長い時間を生きている。すずめの戸締まりは12年経ってようやく出たのかそれともようやく出せたのかそれは分からないけれど、すずめの戸締まりを私は面白いと思ったからそれをどこかに書き記したくなった。ちなみに実際にすずめの戸締まりを見たのは去年の11月なのでこの記事はようやく出たのかようやく出せたのか、どっちだろうね。

 ※本記事は”すずめの戸締まり”本編のネタバレが含まれます

地震と戸締まり

 「君の名は。」から足掛け3作目、隕石、豪雨と来てついに地震に踏み込んだ新海作品を私は見る前はどうなのだろう、と思っていた。津波を除いたにしたって、地震が私たちの心に落とした影は相当に濃く深い。さらに言えば「君の名は。」や「天気の子」はエンターテインメントとして、彼ら彼女らの運命の出会いを描いている。災害はそのフレーバーだ。それは時に救いにもなるけれど、地震をエンターテインメントに昇華するには12年という時はまだ短く感じるのだ。岩戸鈴芽だってまだ囚われているのに、私たちは受け止められるだろうか。そんな不安が胸をよぎった。

 実際に見てみるとすずめの戸締まりは地震というモチーフを大事にしていた。岩戸鈴芽と宗像草太の運命の出会いはあるものの、作品の長い間で岩戸鈴芽は地震と向き合っていた。もちろん全体を見れば、地震というモチーフを取り扱う上で細心の注意を払っていることは見て取れた。過去2作に比べれば少しファンタジー成分が強めでなんとなく現実と虚構の境目をぼんやりとさせていたし、作中で地震が頻発していたわけではなかった。けれど地震というモチーフはずーっと中心にあって、それを可能にしていたのは私がないがしろにしていた”戸締まり”というモチーフだった。

すずめは戸締まれない

 すずめの戸締まりという作品名と相反するように岩戸鈴芽は戸締まりが出来ない。ダイジンと草太(イス)を追いかけて家を飛び出したときも、スナックからサボタージュしたときも、あるいは草太の家から駆け出したときも。岩戸鈴芽はドアを開け放ち顧みることはない。思ってみれば単純なことで緊急時に家のドアを施錠する余裕なんて誰だってない。12年前の震災の日、揺れの中自室にいた私とは違って、母は忙しなく家を駆けまわり、ガスの元栓を閉め、防災物品を取り出し、そして玄関のドアを開け放った。ニュースを見ながらとりあえずの被害がないことが分かったあと、母に言われて私は玄関のドアを閉めた。ドアの戸締まりとは地震の終わりの合図だったのだ。だけれどそれは私の実家が東京だったからにすぎず、多くの人はあの日どころか今この瞬間まであの日開け放ったドアすら閉められないままいる。そしてきっと岩戸鈴芽もそうだったのだ。

すずめの戸締まり

 「すずめの戸締まり」本当にそのまま岩戸鈴芽があの日開け放ったドアをただ締めに行く作品だった。それは彼女一人では到底なしえないことで、彼女はたくさんの人に助けてもらっていた。それと同じように、彼女が道中、地震を止めるために閉めて回っていたドアは、誰かが閉められなかったドアだった。それは地震を止めるという直接的なことだけでなく、誰かの思いをくみ取るという、もっと大事な寄り添い方だったと思う。彼女は誰かに助けられて、誰かを助けて。岩戸環は岡部稔のアシストを受けていたし、宗像草太と芹沢朋也は友達だった。世界がそうやって回っていることは地震とは全く関係ない事柄だけど、あの震災の日に私たちが気づいたことでもあった。だから「すずめの戸締まり」はあの日から今日までの縮図だったことに気づいた時、私はこの作品を本当に良い作品だと思った。

 宗像草太がイスになったことは、この作品が接頭字にラブが付く作品じゃないことを象徴するような事象だったが、地震と戸締まりにどう関係するのだろうとずっと考えていた。あのイスは最初から鈴芽の手元にあったから見分けづらいけれど、その本質は地震の日に自宅に置いてきてしまったものだった。あのイスには母親との思い出とか色々なものがあったはずなのに、序盤の方ではそれを思い出すことが出来なくて、本来あのイスの中核をなす大事なものを鈴芽は家に忘れてきていた。だから草太がイスになったのは、”イスってイスだけじゃないんだよ”なんてそんなありきたりなメッセージだったんじゃないかってそう思う。だから鈴芽は最後にイスと草太ともう一つ大事なものを持ち帰ってきた。

 イスとは空間だ、イスそのものでなく、その上の空間に意味があり、より大事なものがある。私が座る場所という事実が、イスへの愛着をより際立たせる。それはきっと家と同じだ。ドアもまたドアそのものに大きな意味はなく、自分の大事な空間を確立させるという点で大きな意味を持つ。戸締まりをしていない間は、家の中と外はどこか繋がっていて、大事な空間というのがぼやけてしまう。だから出かけるときも帰ってきたときも私たちはドアにしっかりと戸締まりをして大事なものを確かめる。あの震災で家を失った人は、あるいは戸締まりできないまま家に帰れない人たちは大事なものをぽっかりと失ってしまった。家があった場所にいけばそこに空間はある、でもその空間は私たちが大事にしていたものではなくなってしまっている。壁とドアがないだけで空間の意味は大きく変わってしまう。でもそこに壁の一部や机や棚やそしてイスがあるだけで、そこに僅かだけ大事な空間を感じられる。あのイスもまたそういった類のものなのだ。

私の戸締まり

 私は幸運にも震災で家を失うことはなかった。だから大事な空間を失うという経験をきちんと語れていないかもしれない。震災から時は流れ、あの時実家に住んでいた私も今1人暮らしをしている。家に1人しかいないとどうしてもいってきますや、ただいまをおろそかにしがちだ。だけれどせめてドアの施錠だけは、大事なものを大事なものと確認する行為だけは毎日毎日、しっかりと行っていきたい、映画からの帰り道私はそんなことを考えていた。自宅につき開錠しようとポケットを探った時気づいた。鍵がない。よく考えると自宅を出た時に施錠した記憶がない。とふと持っていたスマホの画面に目が行った。


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