3:雨漏り

 ナビは見るからに古い団地の中でも、ひと際古ぼけた、他の棟とは築年数も違うと思われる4階建ての建物の前で目的地到着を告げた。
山を背にした立地の為か、晴れた日でも日当りは良くはないのだろう。階段までの通路も苔に覆われ足場が悪く、この雨では気をつけないと滑りそうに思われた。
 来客用の駐車スペースに車を止めると、遵は傘もささないまま、迷うことなく奥の階段入り口に歩いていく。結実は二人分のビニル傘を手に取り、後を追いかける。何となく、一人になる事が良い結果をもたらさない予感がした。単純に、この敷地内で取り残されることが怖かった。

 頭上で人の声がした気がして足を止め、上階を仰ぎ見る。重黒い雲に覆われた空から、絶え間なく雨が降り注ぎ、当然ながらビニル傘に叩きつけられた雨粒の騒がしい音に、人の声など聞こえるはずがない、気のせいかと思い直した。
 確認出来る側の窓には、どの階も、赤錆の浮いた鉄格子が嵌められている。1階部分の窓は、ガラスと取り替えらたであろうベニヤ板もとうに黒ずんでいて、この建物が棄てられてからの年月の長さを思わせた。

「結実、」
 階段下から遵が顔を出し、手招きをしている。
「早く、済ませたいんだ」
 結実としても、この様なお化け屋敷のような場所からは一刻も早く逃れたいのだ。苔に足を取られないように気をつけながら、建物内へと駆け足を踏み入れた。

 3段ほど階段を上がると両側にドア、それぞれに103、104と部屋表示があった。表札には当然ながら前住民を知れるものは残されていない。
遵が104号室のドアノブをガチャガチャ音を立てて2、3回ひねり、躊躇なく土足で入って行く。結実も、玄関周りの様子を覗いながら、入室した。後ろで鉄戸が、軋みながら閉じ、カチャという音とともに室内が一気に静かになり、ドアから足元を照らしていた薄明かりが消え闇に包まれる。

「じゃあ」
 そう言いながら、遵が小ぶりなマグライトを灯して結実に手渡す。
「僕はここで待っているから、結実が4階から順に見てくるんだ」
 闇の中から遵が言うには、この建物の403、303、203を順に訪問し、ドアをノックして返事がなければ、入室する。そしてそれぞれの部屋の窓の施錠を確認してくる必要がある、とのことだった。
「返事が、なければ…?」
 一拍おいたあと、返答はあった。
「…ジョークだよ」
 暗闇でも結実には見えた気がした。おそらく遵は笑っていない。
 遵の思惑や意図はわからないが、とにかくそれが終わらなければ、この建物から逃れることは許されないのだろう。
「嫌な雨だな」
 そう吐き捨てて、上階へ向かう為に玄関ドアに向かった。
「まあ、雨だからこそ、かな」
 暗闇で遵が笑っている。


 4階まで階段を上がって行く。人の立ち入りが途絶え、流れが滞った空気は淀み重く、長雨の湿度も相俟って手足にまとわりついて来る。踊り場に空いた、小さな明り取りの窓からしか日の差し込まない薄暗い階段を、踏み外さないように、でも足早に上っていく。
 早く終わらせよう、早く終わらせてここから立ち去ろう。遵が何を企んでいるのかなど知りたくもない、どうせ碌でもない事に決まっているのだ。
 そう繰り返し心の中でぼやきながら、恐怖をどうにか掻き消そうとするが、それを嘲笑うように現実味を帯びた感触で、恐怖に全身が粟立った。
「早く、帰ろ…」
 絞り出した声は、吐く息に掠れた。

 402。部屋番号を確認する。
「ノック…」
 マグライトで照らしたドアノブが、今にも勝手に動き、この重い扉の向こうから、そう、腕でも伸びてきて部屋に引き摺りこまれるのではないだろうかという妄想に取り憑かれてしまいそうになる。途端、先程聞こえた声は、この扉の向こうから自分を呼んでいたのではないか、などと物語を仕立て上げていく。
 いや、雨の音は建物内にあっても、こんなに聞こえる。声が聞こえるわけがない。あり得ない。取り敢えず、終わらせなければ帰れないのだ。どちらにせよ、戻れば終わるのだ。

 勢い良く3回、ノックをした。
返答はない。もう一度、3回ノック。やはり反応はない。当然だ、誰も居ないのだから。状況がそう証明していた。人が住まう環境ではない、こんな場所に。
…こんな場所。確かに古い団地ではあるが、周囲には少なくない数の住民が生活しており、奇異な物など感じられない。
はずなのに、その日常の中に、この奇妙な建物が存在している事こそが違和感では無いのか。
 そう思いあたり、その場に長くいる事こそが忌わしく感じられて、跳ねられたように乱暴にドアを開ける。それから足早に室内に入り、全ての窓を確認して回る。
「締まってる…」
 全ての鍵が確かに施錠されている事を確認して、部屋を出た。
 その後結実は真面目に全ての窓を確認して回ったが、302、202ともに解錠された窓はなく、遵が待つ102のドアを開け、声をかけたが返事がない。足元を照らしながら、玄関から2、3歩踏み入れたところで暗闇から声がした。

「締まってた?」
 上階と間取りは同じはずだが、遵が今どこにいて何をしているのかは伺い知れない。
「全部、たしかに、締っていたよ」
「だろうね」
 ふふっ、と遵が笑うと、部屋の中で何かが動いた気がした。
「ありがとう、おかげで僕の方も終わったよ」
 部屋の奥から、スマートフォンで足元を照らしながら遵が出て来た。この部屋だけは本当に段違いで雨音が静かだ。
「帰ろう、あ」
 部屋を出ようとドアに向かった結実に、遵が声をかける。
「この部屋は、雨漏りが酷い。もう使えないな」
 部屋の奥の闇の中で、何かが滴下する音がたしかに聞こえる。しかし、ここは1階。何がどこから滴り落ちているのか。
「それは本当に、雨漏りなのかね」
 別に嘘をついているとは思わないが、遵の事だから、何かの暗喩である可能性はある。二人は部屋を出て、それからどこから見つけてきたのか、遵は102のドアを施錠した。
ドアノブをガチャガチャと、乱暴にひねって、施錠確認までと、周到だ。
「雨漏り、には違いないと思うけど。」
 せっかく持って来た傘を受け取らず、遵は結実の車目掛けて駆け出した。生憎鍵は開いていないのだが、機嫌を損ねると今日自分がやらされた、無意味に思える肝試しが、如何なる成果をあげたのかを聞きそびれるかもしれない。そう思って、慌てて追いかけたが、案の定苔に足を滑らせて転んだ。いや、一瞬右足が後ろに引っ張られた様な感覚だった。
 遵が気づき駆け寄ってきて、結実の足を見下ろしながら
「お前は本当にいろいろなものに好かれるんだな」
 と言って右足の膝からつま先までを手のひらで触れずに撫で下ろして、最後軽い拳を作った。
「これも、使えるかなあ?」
 少し嬉しそうな遵を置いて、結実は車へ向かって歩き出した。早くこの場所を離れたい、もう、どこでもいい。ここ以外であればどこでも。
「さっきのとこ、自分で見てみろよ。それでそのまま車に乗れる?」
 結実がしゃがみこみ、右足首を確認して息を呑んだ。細くて艶の無い黒髪が何本かで絡み合い、縄状に編まれたものが、皮膚まで食い込んで血が滲んでいた。
「遵、これは…何なんだい?」
 結実の問いに、遵はいつもの笑みを浮かべた。
「呪いさ」
 そう言うと、遵は器用に縄を解いて、その気色の悪い縄を上着の内ポケットにしまった。
「帰ろう、風呂に入りたいよ。」
 遵の提案に、結実も当然同意した。あの淀んだ空気の、毛穴から染み込み浸食されていくような気持ち悪さを早く洗い流してしまいたい。

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