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カミングアウト、という概念への違和感

なぜ、「カミングアウト」という概念が必要なのでしょうか?
……いきなり大テーマですが、先日感じた異和感をようやくことばにできそうなので、いったん記録しておこうと。
※ここでいうカミングアウトとは、”これまで公にしていなかった自らの性的指向等を表明すること(Wikipedia)”です。

……先日、同僚と恋愛トークをしていた時、社内のある人が異性愛者かどうかという話になりました。
同僚:「同性愛者だったら事前に言ってもらわないと」。
曰く、言ってもらわないと同性愛者かどうか分からないし、自分がその状況を理解する(受け入れる)のに時間がかかるから、と。

ルールを変えるためには

少し話しは逸れますが、民主主義≒多数決の世界で、ルールメーカーは大抵その集団の多数派です。ルールを変えるには、多数派に少数派の人たちの主張を認めてもらう、という構造があると思います。

”恋愛”においても同様に、”多数派が少数派を受け入れる”構造が見える気がします。
例えば、結婚制度とか。
日本では、法的には結婚は男女間のものとされているし、この法律がなかなか変わらないのは、これを支持する人がたくさんいるからなんだと思います。

なので、このルールを変えるには、
少数派のひとたちが、多数派の中で権利を主張・勝ち取っていく、という側面は確かにあると思います。

違和感の正体は、主従の関係性

さて、最初の会話で感じた違和感に、話を戻します。
……たぶん、違和感の正体をひとことで言えば、主従関係が成立していることへの違和感(怒り)、です。

こう言っては元も子もないのは頭では理解しているのですが、
個人的なことについて、
なぜ、ある種多数派の許可を得なければならないんでしょうか。どうして、カミングアウトという概念が必要なんでしょうか。そもそも。

理解と共感しか、多数派と少数派の溝を埋める方法がないのなら、そこを埋めていくしかない。そして、カミングアウトはその一つの手段である。

きっと、そういう側面があるとは思うのですが、なぜカミングアウトって強調されるんだろう……と。

もちろん、私も何かしらの多数派として、知らずに振る舞った結果、多くの人を傷つけているのかもしれません。
自分の思考とかことばとか態度とか振り返っていかなくては……ならないのですが、
今日は先日感じたモヤモヤがどこにあるかわかった気がするので記しておきました。

また考えがアップデートされたら、
更新しに来ようと思います。

それでは、みなさん良い日を/良い夢を。

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