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ウィズ・コロナのマスク販売とサッカー

20XX年6月14日。
その日、メキシコには青い空が広がっていた。

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メキシコ・ソノーラ州のマスク工場は、そろそろ昼休みに入るところだった。世界的なマスク需要の高まりもあって、工場は今日も忙しくみんなてんてこ舞いだった。工員は昼飯の話題などで軽口を叩き合っていた。

午前11時53分。突如、轟音とともに大爆発が起きた。煙が引くと、工場の機械類は吹き飛ばされて散乱し、焦げくさい臭いが広がっていた。爆発の中心部には、おびただしい量の出血の海と、人々のうめき声があった。荘厳な工場は一瞬にして瓦礫の山と化していた。

その後入った情報によると、メキシコ、カンボジア、ウクライナなどで、マスク工場が世界同時多発的に爆破されたということだった。またソマリア沖では、マスクを輸送するコンテナ船が海賊に拿捕されていた。

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新型コロナウイルスが地上に発生してから数年が経過した。
発生した2020年当初、感染拡大を防ぐ方法が模索された。世界的に死亡者が急増する中、感染拡大防止のため外出や移動が厳しく制限された。そのため、世界各国の経済活動は大きく停滞した。
そこからの数年は、毎年のように冷夏が訪れた。自粛による経済活動の減速によって、地球温暖化が止まっているのではないかと囁く向きもあった。

その後、徐々に感染拡大は落ち着いてきていた。著名な大学の研究機関が、マスクの着用が予防に効果的であるという決定的なエビデンスを発表した。それに基づき世界各国は法制度を整備し、市民はマスクを正しく装着していれば外出が可能になった。社会は活気を取り戻しつつあった。

マスク工場に対する同時多発テロは、そんな状況で発生した。


事件直後、地球環境保護団体「不良のトンベリ」による犯行声明が発表された。

現代を支配する経済成長というドグマが悪であるとか、独占資本が人類の未来を搾取しているとか、勇ましいアジテーションだったが、要するに「地球温暖化を抑止するため、マスク工場に同時多発テロを仕掛けた」ということだった。


世界は大混乱に陥った。
ウィズ・コロナの社会生活にとって、マスクは必要不可欠な物資であった。それが突然、極端な供給不足になったのだ。
マスクを求める人々による暴動まで発生するようになり、世界の指導者は対応に迫られた。

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事態を重く見たWHOは、世界的なマスクの一括生産と販売体制を構築することにした。
もはやマスクは戦略物資となった。マスク工場の防衛には巨大な軍事力が必要であり、WHOは国連軍のオデッサ基地内にマスク工場を建設して大規模生産に当たった。オデッサの防衛には2万人、1個師団の兵力が割かれた。


生産されたマスクの流通については公平を期するため、世界的通販企業の特設販売サイトによる、月に1回の一括販売が行われている。

試しにXY年11月の販売スケジュールを見てみよう。
マスクを購入するためには、WHOのFAN-IDを取得する必要がある。今回は11月2-7日が事前抽選販売の期間で、一つのFAN-IDで4枚まで申込が可能だ。マスクは品質によって、以下のようにカテゴリー分けされている。

カテゴリー1:180ドル(N95マスク)
カテゴリー2:120ドル(医療用サージカルマスク)
カテゴリー3:60ドル(不織布マスク)

事前抽選販売の申し込み状況によって、一般先着販売の枚数と価格が決定される。今回の一般販売は日本時間だと11月8日の夜10時00分開始で、世界中で同時に販売サイトがログイン可能となる。先着販売なので秒を争う勝負だ。サイトが重いためなかなか接続できず、その間に人気のマスクはすぐに品切れになってしまうことが多い。

マスクの品質としては、カテ1が最も高性能だ。サッカーの観戦は屋外なので、普段はカテ2以下のマスクで入場可能だ。屋内の密集環境(音楽のコンサートなど)や、市中での感染状況が悪化した場合などはカテ1が必要になることがある。

感染状況が落ち着いている時期は、都道府県から支給される布マスク(公式販売はないが、世間では「カテ4」と呼ばれている)を着用していれば屋外の散歩などは許可される。しかし、店舗内に入る時などは、マスクのカテゴリーごとに人数制限がある。休日にショッピングモールに入ろうとすると、カテ4だと1時間、カテ3でも20分ぐらい入場待ちの列に並ぶことになる。だがカテゴリーの高いマスクを着用していれば、待たずに優先的に入場できる。いわばファストパスのようなもので、市民がこぞって求めるのも無理はない。

日本では当初は、WHOから購入したマスクの転売は法律で禁止されていた。しかし極端な供給不足もあって、あまりに生活が不便であると不満の声が高まった。そのため国は、東京証券取引所内にマスク市場を創設し、オンラインでリアルタイムトレードを行えるようにした。

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新規患者数などの指標が上昇して、警戒レベルが引き上げられると、要求されるマスクのカテゴリーが上がる。例えば、普段は布マスクをしていれば学校への登校が可能だが、市中での感染者が増えるとカテゴリー3のマスクを着用しないと校門をくぐれなくなることがある。このように実需の急激な変動が起こると、マスク価格も急騰する。そこに投機筋の思惑も入り、東京マスク市場は摩訶不思議な動きを見せている。


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札幌は、本格的な雪の季節を迎えていた。

仕事帰り、奈美はすっかり暗くなった大通公園を歩き、家路を急いでいた。白い息を弾ませながら、明日のサッカーの試合に思いを至らせる。明日は今シーズンのJリーグ最終節、地元のチームであるコンサドーレ札幌が初優勝をかけて、サンフレッチェ広島を迎え撃つ試合だ。
2位のガンバ大阪は勝ち点1差に迫っているが、札幌が勝てば文句なくリーグ優勝となる大一番である。奈美は普段からサッカーを見ているわけではなかったが、札幌では大きな話題になっていることもあり、明日に備えてしっかりとチケット、それにN95マスクの手配をしていた。


Jリーグのシーズンは佳境を迎えていた。奈美が暮らしている札幌には、コンサドーレ札幌というチームがあった。そしてコンサドーレは、ガンバ大阪と激しい優勝争いを繰り広げていた。
奈美はこれまで、数回しかサッカーを見に行ったことはなかった。しかし地元のチームが優勝争いをしていると聞いて、その姿をぜひ見てみたいと思った。幸い、取引先の会社がチームのスポンサーで、最終節のチケットを1枚譲ってくれるという話になった。

「最終節はもう、優勝決まった後かもしれないけどね」
「チケットはあげるけど、マスクは自分で手配してね

マスク。そうだ。サッカー場のような場所に行くには、カテゴリーの高いマスクを用意しなきゃいけないんだった。

奈美はサッカー場で必要とされるマスクについて調べてみた。やはり人が多く集まるイベントだけあって、普通の外出よりもカテゴリーの高いマスクが必要とされるらしい。中でも札幌ドームは、Jリーグでは唯一の屋内環境ということで、少しでも警戒レベルが上がるとカテ1の着用が義務付けられることが多いとされていた。

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N95マスクかあ……。高いし、なかなか手に入らないっていう話だよなあ。
奈美はそれまでの人生で一度も、N95マスクを手にしたことはなかった。普通に生活している分にはほとんど必要とされないマスクだ。


一般先着販売の開始日、奈美は公式販売サイトからの購入に挑戦した。

30分前からパソコンの前で待機し、午後10時ちょうどにアクセスする。運よく販売ページにログインは出来た。しかしカテ1の購入ボタンまではたどり着いたが、購入をクリックしたところでエラーが出てしまう。「戻る」ボタンを何度も押して挑戦したが、その度に残り枚数の表示が緑から黄色、黄色から赤へと刻一刻と変わっていく。わずか数分、戻るボタンと格闘している間に完売となったようで、「残念ながら、今回はマスクをご用意することができませんでした」と表示されブラウザが閉じた。

奈美は驚いた。カテゴリーの高いマスクの入手がこんなにも困難なんて。でも、サッカー場にいる人たちは毎週のように試合に行ってるという話だ。どうやってそれだけのマスクを確保しているのだろう?

知り合いで誰か、サッカーに詳しい人はいたかしら?奈美は、以前の同僚であった俊宏を思い出した。俊宏は一時期異動で札幌支社に来ていたが、今は東京の本社に戻っている。Jリーグで柏か何かの応援をしていて、コロナ以前はベトナムやサウジアラビアに行ったって自慢してたっけ。

「すみませんね、奈美さん。僕が何とかしてあげられたら良かったんですけど……」

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ZOOMの画面の向こうにいる俊宏は、コロナ太りのためか数年前よりも幾分顔がふっくらしていた。
俊宏は熱心なサポーターなので、マスクは個人的にかなりの量を備蓄しているようだった。しかし札幌ドーム以外のサッカー場では、カテゴリー1のマスクが必要になることはまずないため、N95は俊宏も持っていないということだった。

これからカテ1のマスクを手に入れようとしたら、おそらくオークションサイトなどを利用するのが早いだろう。また、サッカー場周辺にはダフ屋のような輩もいるそうだ。N95マスクはきわめて流通が少ないので市中で見ることは稀だが、イベント会場で必要とされる場所にはどこからともなく現れるらしい。ただ、その値段は極めて高額だ。

俊宏は探すときのコツを教えてくれた。N95マスクには偽物もあるので、掴まされないように気をつけろということだった。マスク販売を商売にしているような者ではなく、自分もサッカーを見に行くけどたまたま一枚余らせてしまったような人から購入すると安く手に入るという。そして、スタジアムに一緒に入場できる人から買えば、偽物をつかまされる可能性は低いだろうと言われた。


「ほんとうのサッカーファンというものはね、転売マスクみたいなものは買わないんですよ」

俊宏は饒舌に、サッカーファンの生態を語りだした。

何とかマスクを手に入れたくて、転売業者から高額で買う者もいる。だがサッカーファンの間では、必要なときはファン同士、定価でマスクを融通しあっているらしい。公式販売では一度の申し込みで4枚まで購入できるが、その全てを自分が使用するとは限らない。それを一応備蓄しておいて、仲間内で融通し合うしきたりがあるそうだ。高額で市場に流すなんてもっての外だ、サッカーファンは仲間同士で助け合う道徳性を持っている、と画面上の俊宏は自慢気な表情をしていた。

だが奈美は思った。ほぼ定価とはいえ、限られた人しか手に入れることが出来ないのは不便ではないのか。サッカーファンのような多数派の派閥が、自分たちと仲良しかどうかでマスクの行先を決めるなんて、差別的なように思える。現に、奈美のようにコネを持たない人間は、定価で手に入れるすべはない。闇から高値で買うか、諦めるかしかないのだ。そんな差別的なネットワークよりも、転売であっても価格という市場の仕組みに任せる方がよほど道徳的ではないのかと。とはいえ、俊宏にそんなことを言っても仕方がないので、奈美はお礼を言って通信を切った。

世の中をうまく渡っていくには、社会資本というやつが必要らしい。奈美にはそれがなかった。奈美は腹が立った。何とかマスクの問題を、市場の力で解決したいと思った。

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奈美は俊宏のアドバイスに従い、最終節に試合を見に行く人でマスクを余らせている人がいないか、SNSで探してみた。
何日か探したところ、何と定価で譲ってくれるという人を一人発見した。
当日受け渡しでスタジアムにも一緒に入れるそうなので、業者ではなさそうだ。名前は尾崎芙美子というらしい。パートの仕事を定年になってから時々一人でサッカーを見に行っているということなので、おそらく60歳過ぎだと思われる。試合当日のキックオフ2時間前に、福住駅で待ち合わせることにした。

「奈美さんはサッカー久し振りなんだね。私も今年から見始めたのよ」

奈美が時間ほぼぴったりに待ち合わせ場所に着くと、芙美子は落ち着かない様子で先に待っていたようだった。恰幅が良く人懐こそうな初老の女性だった。奈美に気を使っているのか、よく喋る。

「冬になってまた感染者も増えてきて、今日は最終節で満員だから、マスクはカテ1になりそうって予報が出てたの。私もカテ1なんて初めてよ。でも親切な人が2枚売ってくれたのよ」

先々週のホームゲームの帰り道に、アウェイサポーターで芙美子に声をかけてきた者がいたらしい。その試合に負けて優勝の可能性がなくなったため、もう自分たちは必要なくなったから譲りますということだった。芙美子には好青年の集団に見えたという。

サッカー場に着き、チケットとマスクを見せて入ろうとすると、係員に止められた。芙美子のN95マスクは、見る人が見れば一目でわかる偽物であると言われた。2人は慌てて、入場ゲート周辺でマスクを手に入れられないか探した。ダフ屋はいたが、マスクは一枚10万円と高騰していた。そんなにお金を持っていなかった2人は現地観戦を諦めて、居酒屋で食事をしながら中継を見ることにした。

芙美子が注文したホッケは、少し焦げた味がした。

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平謝りの芙美子に「こういうこともありますよね」と言ったら、芙美子は「おばちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

試合は2-0から残り5分で立て続けに失点し、追い付かれた。監督は慌てて二枚替えをしたが、スコアは動かず、引き分けで試合終了となった。札幌は優勝を逃した。
クラブにそこまでの思い入れはないつもりだったが、地元のチームが優勝を逃すとやはり落胆はした。とはいえ、現地で見ていたらもっとショックだったのだろうと思った。気まずくなってきたこともあり、会計をして帰ることになった。別れ際、芙美子は思い出したように「マスク、ごめんね」と言った。奈美は「楽しかったです」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。

著者 円子文佳(まるこふみよし)
Twitter https://twitter.com/maruko2344
note https://note.mu/maruko1192

最後まで読んでいただきありがとうございました。言うまでもないですが、「N95マスクさえしていれば感染することはない」という設定は全くのフィクションですので、ご承知ください。しばらく「コロナによって社会が変わると、サッカーはどう変わるのか」を書いていくかもしれません。前作は以下になります。


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