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学校は何のためにあるのか

 学校は何のためにあるのか・・・?

 よくよく考えるとその答えは『勉強するため』ではない。勉強は目的ではなく手段だ。文科省はじめ、研究団体や評論家からは教育論やそれに類するものは数多発信されているが、思うに 一言にまとめれば『社会で生き抜く力を身につけるため』なのであろう。しかしこれがおかしな方向に曲がりに曲がって偏差値が高めの学校なんかだと『次も偏差値ができるだけ高い学校に進むための予備校』みたいな役割になり、『生き抜く力云々』は入学案内の表紙を開いたところに載っている『校長からのメッセージ』くらいでしか確認できない。さらにそうやって最終的にたどり着いた最高学府においても、結局は『より優れた就職先を得るため』のステップでしかないのだと思う。

 しかし私はここで考えてしまう。大学に行かないとそもそもできない仕事(高級官僚、大学教授、宇宙飛行士など)に就くとか、大企業でエリートたちの中で 生馬の目を抜くような競争社会を目指すというなら別だが(その場合であっても 高偏差値の有名大学でないと参加は難しいのが現実だ)、猫も杓子も大学に進む世にあってその渦中の人たちからは『より良い学校に進めば、また高い学歴があれば選択肢が増える』などといった なんだか変な価値観もまかり通っている気がする(進学塾の広報上の常套句なのかな?)。ただ 思い返してみても、私がこれまで経験した中では 大学に行ったからといって選択肢が増えたといった事例をついぞ見ていない。

 しかしそんな事実には目隠しをして、学習塾のポスターには『■■大学(△△高校)に◯◯名合格!!』などと、『社会で生き抜く力』とは無関係の価値を全面に打ち出しているのが通例である。それに魅力を感じ、飛びつく人がいるから結局それが売物になっているのだろうが。誤解を恐れず言うならば どうしてもそこに自分が学びたい唯一無二の価値があるという場合以外であれば、有名でもなく偏差値も高くない大学に行く意味は、自由な時間が多い学生時代の中で、友人や仲間との替えのきかない思い出を作ることくらいではないかと思う。

 さて。では学校というものが 生徒たちが社会で生き抜く力をつけるためにあるのなら、その生き抜く力の中でも最も重要な要素は『強さ』なのだと思う。ビジョン(理想・目標)を持ち、その実現のために努力できることは行動としては大切だが、それを支える内面の問題として、『強さ』は不可欠である。叱責される、否定される、ダメ出しをされる、構ってもらえない、褒めてもらえない、努力が報われない、思ったようにできない、周囲と意見が違う、共感が得られない・・・などといった 生徒たちにとっては居心地の悪い状況を作らないようにすることこそ、優れた教育現場であるかのような最近の風潮である(この活動の『信者』の特徴は 自分が正しいと信じて疑わないことだ)。しかし生徒の人格を尊重し、優しく傷つけないように対応した環境で育成されるのは、自分に対する指摘への耐性が無い代わりにプライドだけは高い、『弱い』温室育ちである。

 強い人材を育成しようとするなら その触媒としてストレスは必要である。挫折を乗り越える力を身に付けてあげるのが教育であると私は思っているが、挫折を乗り越える力を得ようとするならば、実際に挫折しなければなるまい。要するに『上手くいかなかった』という経験がなければ、それを乗り越えることもできないのである。

 『否定的な意見は言わないようにしましょう』などといった、場の空気や発信者の自尊心を重視することのみに注力している教育現場では、強い人材は育ちにくい。安心安全な教育環境とは、否定されないことではなく、否定的な意見でも躊躇なく言い合えることだ。そう考えると 現代のスタンダードである『人に優しい』教育の 被害=副作用 を被っているのは当の生徒たちなのだと思う。

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