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専門学校における教員の仕事 2

 しかし若い先生はどうしてそれほどまでに他人から良く思われたいのだろう?嫌われたくないのだろう? きっとそれは人間関係を構築する力が決定的に不足しているからなのだと思う。他人から否定されたくない。よって自分も他人を否定しないようにする。若い世代が『空気を読む』ということを色んな場面で必要以上に優先するのはそんな理由からだと思う。言い換えれば自分に自信がないのだ。『(心が)折れる』や『病む』などというワードは20歳前後である生徒と接していれば日常的に耳にするが、こんなところからもひ弱なハートの持主であることが垣間見える。彼らのいう『良い人間関係』とは、お互いに指摘や否定などしない、ヌルい表面だけの間柄ということであるのだが、生徒に希望する就職先の条件を尋ねると半分以上が『人間関係の良いところ』と口を揃えるので笑ってしまう。その意味するところは突き詰めれば『指摘』も『否定』もしない・されないという意味である。そして心から恐ろしく絶対笑っていられないのが、生徒たちと対人能力の点ではさほど変わらないのが若い教員である事実なのだ。

 若い教員は弱点や欠点を指摘されることが自分の人格を否定されることと同義だと解釈するから、そんなことがあれば必要以上にダメージを負う。子供の頃からお互いに指摘や否定をしない友達や先生の中で大きくなったから、他人との摩擦に耐性がない。さらに絶望的に『上手くいかない』ということがダメだ。『頑張ったのにできなかった』ということが受け入れられないから、失敗することを避けて初めからチャレンジしなかったりもする。こうして失敗と成功、そのいずれの経験値も乏しく、困難を克服した経験がないから小さな挫折にさえ自分の存在を否定するような温室育ちが形成されていくのではないだろうか(事実自分の指導するクラスで欠席が多くなっただけで『生きるってどういうことなんでしょう?』と相談され、ブッ飛んだことがあるww 体育会系の部活を経験している教員はこの部分で随分マシではあるが)。

 教員の仕事というものは当たり前だが教科の指導が中心である。しかしその他にも実に様々な能力とそれを身につけるための努力が必要な職業でもある。教員が身につける能力の内、最たるものは結局求心力ではないだろうか。スキルやテクニックではない、もっと崇高で根源的なものだ。『こんな人から学びたい』と思われる『こんな人』であれば、指導効果はダン違いに上がる。求心力の高い教員はそのまま指導力にも優れているということである。ところが若い教員はこの求心力と好かれるということを混同してしまう。だから生徒におもねるような先生ができてしまうのである。しかし経験上、好かれようとしてご機嫌をとればとるほど好かれないという悪夢のような法則には抗いようがないのである。例えは悪いが、与えることで子供の気を引こうとするのは老人のやることだ。

 そんな『友達関係の教員』に教育された生徒が進学して次の学校に進む。きっと大学のように、就職するために存在している訳ではない学校であればそれでも構わないのかもしれないが、我々のように原材料を仕入れて『現場で使いモンにする』という使命がある専門学校ではそうはいかないのが頭の痛いところなのである。

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