見出し画像

親の期待に応えられない【家族エッセイ】

私は自分のことを大切に思うし、大好きだ。
それは両親が幼い頃から私という存在を認めてくれて、愛を注いで育ててくれたからだ。
私は自己肯定感が高い方だと思う。しかし、承認欲求も強いのだ。
その理由は私に成功体験がないからだ。親の期待に応えられた例がないからだ。

私は小学一年生の頃から中学三年生までバスケットボールをやっていた。それなのに金メダルやトロフィーを獲ったことは一度たりともない。

父は私が所属していたミニバスケットボールチームの監督だった。父が私に対して上手くなって欲しい。強くなって欲しい。と思っていることは常々感じていた。
大人になった今思い返しても、周りの選手よりも理不尽に厳しくされていたと思う。私がミスをすると父は私をすぐコートの外に出した。その後、私と同じミスをしても笑って注意されるだけで済まされる子をコートの外から見るのだ。あの気持ちは忘れられない。
悔しい悔しい悔しい。理不尽だ。コートの外に出されては何もできないじゃないか。どうしろっていうんだ。何度辞めたいと思っただろう。
父は私が大人になってから、
「るいが中学生になってミニバスを卒業してやっと本当の指導者になれたと思う。やっぱり自分の子供と周りの子を同じように思うのは難しかった。」
と話していた。
私にはその気持ちは分からない。自分の子が可愛いなら、他の子より酷い目に遭わせようなんて思うだろうか。

体育館を離れたら父は私のお父さんになる。欲しいと言ったものを買ってくれることもあるし、膝の上に乗せて甘えさせてくれるし、夜はよく一緒に寝ていた。
「父ちゃんはるいが大好きだよ。」
寝る前によく父が言っていた。
父は枕の上に頭を置くと3秒足らずで眠るので本日分の置き土産ですとでも言わんばかりにそれだけ言い残して大きな鼾をかいて眠る。
父が私のことをどれだけ大切に思っているかは理解していた。父が体育館で私に厳しくするのは、嫌いだからじゃない。父は私に期待をしているのだ。わかっていた。
だがその期待が苦しい時もあった。
私は頭が良くない。バスケをする時、なぜその時その動きをする必要があるのか、頭で理解しないまま形だけやっていた。大人になって、車の運転をする時や英語を学び直した時にも同じ感覚に陥ったのだ。しっくりこないけれど、形としてこう教わったからやってみる。正解しても、理解していないので腑には落ちない。自分の脳に、身に刻まれてる感覚が全くない。
そんな私がバスケで県一番になったり、全国一番になどなれるわけはなかった。

私が卒業してすぐ、一つ年下の選手が率いる新チームが大会で金メダルを獲った。
私達の代の母親方もその試合を観に来ていた。勿論私の母もだ。
私は素直に喜べなかった。それは、母親方も同じだった。一番になれない劣等感は、この頃から知っている。だがこの頃は私一人の劣等感ではなかっただけマシだった。

私には小学1年生の頃から中学3年生まで一緒に過ごした幼馴染がいる。ミニバスのチームも同じで、とにかく彼女と比べられることは多かった。それぞれの親にだけでなく、部活の顧問や体育の先生からもだ。
元々幼馴染と私はミニバス上がりということでスタートメンバーとして試合に出ていた。だが、私の持久力があまりに足りなかったために、夏以降はシックスメン(控えの選手)に成り下がった。対する幼馴染は3年間ずっとスタートメンバーとして試合に出ていた。その頃から段々と個としての劣等感を覚えるようになる。

私が住んでいた市には中学生の駅伝大会があった。その大会に出るには校内選考で選ばれなくてはならない。運動部に所属している人は皆その大会に出るために精を出していた。私も例外ではなかった。
校内選考を控えたある日、母がランニングシューズを買ってくれた。アシックスの、綺麗なエメラルドグリーンのスニーカーだ。私の好きな色だった。
「駅伝、選ばれたらいいね。」
母に期待されていると感じたことはあまりなかった。それでもその時ばかりはその一言に、母の期待を感じた。頑張ろう。強く思った。
その頃、部活で3ヶ月で100km走るというメニューがあった。日に平すと3km程度だが、毎日部活があったわけではないので一日で10km以上走ることもあった。走るのが得意な人からすればなんてことないのかもしれないが、私は部活の度に地獄だと感じるほど辛かった。喉は血の味がするし、足の裏は痛いし、常に脚を止めてしまいたいと思っていた。走ることが世界で一番嫌いだと思った。
そんな奴が駅伝大会の選手に選ばれるわけはなかった。お話にもならなかった。

一方幼馴染は校内で一番の好タイムを叩き出し、駅伝に出場した。優勝こそ逃したが、彼女は区間賞を獲っていた。
そもそも幼馴染と自分を比較すること自体が間違いなのだ。生まれ持った身体能力が違いすぎた。後々考えたら簡単にわかることだが、その頃は本気で張り合えると思っていた。いや、本当は当時から薄々気づいてはいたが、親の期待に応えたい一心で気づかないふりをしていたと思う。

駅伝大会は応援に行ったが、劣等感のあまり彼女に「頑張れ」の一言も言えなかった。
大会が終わり、私の元に彼女が駆け寄ってきて、
「途中でるいの顔が見えて頑張ろうと思えたよ。」
と言った。涙が出た。私は人間性も負けていた。恥ずかしかった。

こうして私は親の期待に応えられぬまま大人になってしまった。
親の期待に応えることが人生の全てではない。だが、私が生きる意味の一つとしてこれからも親の期待に応えられるように何かを成し遂げねばならないと執念を燃やしている。
何を期待されているのかも分からないが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?