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映画『PERFECT DAYS』、脱目的の自由な時間が流れる


ただその日を過ごす

ただその日を過ごす、という生き方に憧れます。
それは、未来でも、過去でもなく、現在を生きるということなのでしょう。
未来に目標や目的を定めて時間を使うのに慣れてしまっている私には難しいことですが、そこに生き方のヒントが隠されていると感じます。

そこでは、どのように時間が使われるのか想像できません。
受動的で変化が少ない日常なのか。そこに喜びはあるのか。
そもそも変化は訪れるのか。そこで生きている実感は得られるのか。。

時間は使わない、時間が流れる

PERFECT DAYSは、そんな生き方を描いています。
トイレ清掃員の平山は、神社の杜を掃く掃除の音で目覚め、歯を磨き、缶コーヒーを買い、仕事に出かけ、薄い布団のなかで文庫本を閉じて眠りに落ちる、といった決まったルーティーンの日常を過ごしています。

しかし、判を押したような決まった日常かというと、そうではありません。
そこには微かな変化がみられます。
仕事の同僚の彼女が尋ねてきたり、同僚が辞めたり、突然姪が尋ねてきて同居生活が始まったり、行きつけスナックのママの元旦那と出会ったり。
変化は、必ず自分をとりまく周り(他人)からもたらされます。

もし周りから影響されなければ、平山は変わらない日常を過ごし続けるでしょう。自らが自分の時間の使い方を変えることはありません。
しかし、変化は次々ともたらされます。そして平山はその変化をそのまま受け入れていきます。

そこでは、能動的に時間を使うというより、揺れ動く時間が平山の身体に流れている、といった表現の方が当てはまりがよいでしょう。
流れる時間をそのまま受け入れる。
そのことで、かえって過去の縛りや未来の目的から解放されて自由になれる。そして、生きている実感が得られる。

現在を生きるとは、そんな時間のあり方なのだと感じさせてくれます。

別設定で観てみたい

ところで、この映画をまったく別の設定で観たかった、と密かに思うのは私だけでしょうか。

一つは、トイレです。
平山がトイレ掃除の仕事に出かけるのは、THE TOKYO TOILET プロジェクトで著名な建築家やクリエイターが改修した渋谷区内にある新しくクールな公共トイレです。
もしこれが、まだ各所に残る汚い不潔な公共便所だったら、我々はこの映画をどのように見るのでしょうか。

同じことは、役者・役所広司にもいえます。
流れる時間をただただ受け入れる平山役にしては、役所広司は生きる力が外向きに溢れすぎているように思えます(さらに、同じことは田中泯にも)。
もし廃人を演じられるような役者、あるいは役者以外の人物が平山を演じたとしたら、どんな映画になったのでしょうか。

(丸田一葉)

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