ゲイに関する本が読めなかった話

先週、恋人と別れた。6年半の恋愛を終わらそうと言い出したのは僕であり、様々な視点から考えれば「どれほど恩知らずなのか」と言われても仕方がないのだけれど、いずれにせよ、僕らの恋愛はここで終わりとなった。その話は、また今度書くとして。

半月ほど前に本を読んだ。タイトルは「二人で生きる技術(大塚隆史)」と言い、新宿2丁目にゲイバーを持つ著者がその半生を綴りながら、パートナーとの関係を維持していく「技術」について触れていくものだった。インターネットもない高度経済成長期に青春を過ごし、日本人の9割近くが結婚したという当時の日本でゲイとして生きること、そして「好きな人と一緒に暮らしたい」という素朴な夢のために奮闘する姿は、ややコミカルな文体とは似合わないほど力強く、時に重く悲しかった。

その本を読み終えて、ふと、自分が今までLGBTQ関係の本を嫌厭していた事を思い出した。そう、30歳にしてこの本が僕が初めて読んだLGBTQ関係の本である。

今までも書店やインターネットなどでLGBTQに関する本は時折見かけた。特に最近は世間の注目度も高くなり、同性婚への議論もあってか目にする機会は増えているように思う。ただ、それを見る時に僕の中に湧き上がるのは形容し難いアレルギーのようなものだった。

妙なもので、自分が当事者なのにも関わらず「いや、俺そこまで気にしてないし」といったプライドのようなものが、僕を本から遠ざけていた。もし、著者がストレートの人であれば「外からの視線で書いてるんだろう」と思うし、著者が当事者なら「自分はそこまで思い詰めていない(何ならそんなに染まっていない)」と取り繕いたくなる。本を読む際に「思い詰めているかどうか」は関係ないはずなのだけれど、無意識に読まずに済む理由を探してしまっていた。また、多くの本が東京を中心としたゲイカルチャーに根ざしており、地方に暮らす当事者としてはゲイを取り巻く環境がそもそも違いすぎると感じていたのも大きな理由である。

何にせよ、本を手にすることは、自分のセクシャリティを20代中盤になってからようやく認識した僕にとって、自分が当事者であることを認めてしまうような(今更なんなんだという気持ちだけれど)、セクシャリティを深刻に受け止めていることを認めてしまうような気がしていた。元々あまのじゃくな性格ではあるけれど、その気持ちが素直になったのはつい最近のことであり、その変化に気が付いたのは前述の本を読み終えた後だった。

自分が持っていた様々な肩書き(元植物の研究学生だとか、元国立公園職員だとか、山スキーヤーだとか)の中に、ゲイである事が深く刻まれることを未だに恐れていた。心の奥底で続く、長い長い抵抗である。30歳になっても続く、自分の中の諦めきれない何かである。本を読んで得たものは、その内容だけではなく自分の中の心理状態の変化もあったようだ。

自分がゲイであるが故にできることがあるはずだと思い始めたのも、ここ最近のことだ。この何年間、きっと気が付かない内に僕はどんどん変わってきたに違いない。きっと、これからもそうなるんだと思うし、そうなっていきたい。それしか出来ることはないと思うし。