センチメンタリズムは夢見る自分の明日を見るか

数週間前まで「春の兆しが感じるな」と思っていたのですけれど、もう「兆し」ではなく、すっかり春の陽気になってきました。バイト先では、この間まで窓の外に降る雪を見ながらお客さんと話をしていたのですが、今では扱う食材が、セリやふきのとうなど、早春の食材に変わってきています。あぁ、もう季節が一周したのですねと、穏やかな空を見上げながら、その柔らかな日差しを少し恨めしく思います。返済を止めていた奨学金の返済開始がそろそろ始まるな、こんなバイトばかりしている場合ではないよな、と思うと同時に、大学に行って300万も借金を作って、で、自分は何をしているのかとアホらしくなってきます。

この前、家にあった日記を読み返しました。2013年から始まるその日記たちは、毎日書かれてる時期があれば、一方で、何ヶ月も空白になっている時期もあります。自分の精神状態が落ち着いていて、それなりに穏やかな日常を過ごしている時にしか、日記なんて綴ってられないのでしょう。文字にすら書き起こしたくない日々もありますから。

僕が山へ登っている日や、学生時代に教授に怒られている日、海外旅行へ行っている日、友達を飲んでいる日、変なイベントに参加している日、恋人とあっている日など、さまざな日常が書かれていましたが、時折、センチメンタルな時には「どうしたら、自分が満足できるのか」といったことが、長々と、ここに引用したくないくらいの言い回しで書かれていました。僕は2013年、もとよりそのもっと前から変わっていないのだなと、日記を見ながら苦笑しました。だって、それらの文章は、今の自分が書いてもおかしくないくらいの文章でしたから。「この頃はこんなこと書いていたんだね」と青い自分を懐かしみたかったのに。

「何年か経って、この日記を見返す頃には穏やかな気分でいるだろう。その時に楽しめるタイムカプセルみたいなものだ。」という思いが、当初、日記を始めた動機の中にありました。そして書いた通り、久しぶりに見るそのタイムカプセルは楽しめもせず、前進していない自分を認めざるを得ない、その証明のようでした。ページをめくるたびに書かれている、ラジオから流れてきたいい感じの曲のタイトル、何か研究に関するアイディアやデータのメモ、別の大学の生徒の名刺、海外旅行中に手にした観光地のパンフレット、旅先であった人たちの連絡先など、それらが僕に問いかけます。当時からどれだけ前進したのかと。

ふと、自分がゲイでなかったら、と考えました。また国立公園やガイドの仕事に戻るのも悪くないなと思いました。そもそも、自然が好きでそれを専攻にしたのですから。田舎に住んで自分の家族を持って、大きめの畑でもやりながら、地元のコミュニティに溶け込もう。子供ができたら、学校に通わせて、そしたら父兄の知り合いが増えるかもしれないし、家族と一緒にハイキングでも行けたら楽しいだろう。山菜やキノコを食卓に並べよう。

まぁ、そんなことは起きないのです。ゲイのパートナーが出来ても、国立公園があるような田舎で生きていこうとは思えないのです。以前、僕が働いていたガイド事務所ののオーナーから「適任だと思うから、将来的に事務所を引き継いでくれないか?」と言われましたが、それも断りました。噂をされながら生きるのは嫌なのです。大人しく暮らしていたいだけなのです。僕には、「田舎に引っ越した夫婦」というのが、羨ましく見えることがあります。好きな人と堂々と生活する様が羨ましいのです。多くの人が普通に得ている敬意というものを、僕らは勝ち取らねばならないのですから。

ただ、センチメンタルに浸っていても僕に人生は前進しません。そもそも、何をそんなに考える必要があるのか、わからなくなる時もあります。シンプルに、もっと適当に働いてのんびり暮らせばいいのに。仕事はほどほど、あとはプライベート楽しむ。それでいいはずだし、世の中の多くに人はそういうものなのだと思っています。僕自身、もう少し大人にならないといけない時が来たのでしょう。

ps.この前、企業のWEB面接を受けた時に、家賃補助の話になり「将来、お子さんや家族が増えたら....云々」と言われました。人の親切ですら、少し傷ついてしまい、その後、傷ついたことに少し笑えてきました。俺、アホみたいじゃん、とね。