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Twitterとゲイと私

以前、とある私の尊敬している人がTwitter(Xと呼んだ方がいいのかもしれないけれど、僕の中では未だにTwitter)をやめた。一年ほど前のことだ。
個人で事業や情報発信をおこなっている人で、実際に彼の業務のお手伝い(一度だけ、しかもほとんど付き添い)をしたこともあった。Twitter経由でイベントのお誘いをしてくれたこともあった。年齢も近く、同年代として彼の活躍を応援し、ただ一方で、その行動力と情熱を自分自身と比べてしまい、自分の不甲斐なさを恥じることもあった。

その彼がTwitterをやめると宣言し、本当にやめた。そしてその後の心境について語ってる文章を先日読んだ。それはそれはいい文章だったし、共感する部分も多かったのだが、ゲイである僕にとってTwitterは彼にとってとは異なる役割をも担っていることを無視できなかった。

基本的に地方に住んでいて、かつゲイの友人がほとんど居ない僕には、Twitterは友人をつくる大きな役割を持ったプラットフォームである。一言で「ゲイ」と言っても、当たり前に人々の性格や価値観は千差万別だ。ゲイ同志だから意気投合するわけではないのは、異性愛者だから馬が合うとは限らないというに等しい。ゲイの出会い系アプリでどこかの誰かと個人的なやり取りをして知り合うよりも、Twitterで普段の投稿ややり取りからその為人を知れた方が、同じ感覚を持った人とは繋がりやすいし、送信も気楽である。
僕は実際にTwitterの友人と実際に会ったことは数回しかないのだけれど、それでも似た感覚を持った人たちと交流することは確実に日々の心の支えになっているし、私生活では周りの人々に言えない事に対して反応をもらう貴重な場所である。

当初は、このブログのリンクを貼るためだけに2017年に作ったアカウントだった。リンクを貼る以外特に何も発言せず、ただただブログのリンクを載せ続けるだけのアカウントであったのに、それに反応をくれた人たちのおかげでインターネット上に幸運にもゲイの友人たちができた。今思えば感謝すべきことだなと思う。なぜなら、当時の恋人以外に、僕にゲイの友人は本当にいなかったから、たとえ休みの日に遊びに行く友人がいても、基本的に僕は心のどこかで孤独だった。当時の恋人が、何人ものゲイの友人とBBQや飲み会、バーへ行った様子をLINEで教えてくれて(遠距離恋愛だったので)、それを見ているだけの日々だった。素直に羨ましかった。

そう言う意味で、Twitterが僕にもたらしてくれた役割は大きいものの、一方で僕を余計に不安にしてることも否定できない。
基本的に、Twitterの情報の多くは都市部から発信されているものだし、ゲイの多くが都市部へ住もうとする以上それは抗いようの無いものだけれど、
地方で暮らす自分の身からすれば、自分は常に蚊帳の外にいる気持ちを否定できない。

また、僕がTwitterを始めた当初よりセックスを投稿する人が格段に増え(なぜならセックス動画を有料アダルトビデオとして自ら「売る」ことができるプラットフォームが誕生し、Twitterを通してそのプロモーションを始めたから)、仕様変化も相まって、それが自分のTLに流れてくることがかなり増えた。以前は、フォローしていなければ流れてこなかったものが「おすすめ」とか言って混ざってくる。

自分に近いセンスを持つ仲間や興味あるもので埋まっていくはずだったTLは、時折差し込まれるセックスの動画と知らないゲイ達の写真で気持ちが分断される。知らず知らずのうちに、その価値観は日々僕の中に刷り込まれていき、「アウトドアをしながら素朴に暮らしたい」と思っていた僕に、「仲間がいないこと、派手さの無い日々を送っていること」を認識させる。

このアカウントは年月をかけて、ゆっくりと僕の認識下に入り込み、別の価値観を持って僕を二つの側面に分断し始めている。大学生の頃までに独自に培った己の価値観は、日々の刷り込みを通して大きな別の流れに巻き込まれ、価値観の統一化に晒されている。「これが今の社会で成功する道」「プログラミングを学ぼう」という投稿を常に目に映し続け、知らぬ間に価値観は均一化され、「何も知らなかったから突き進んだ道」に迷い込むのが難しくなる。そもそも、10代からTwitterを眺めていたのなら、独自に培う価値観などそもそも生まれにくいのかもしれない。

また、Twitterで人の意見を見ること、そして自分で意見を言うこと、どちらを取ってもTL上では僕は自分の気持ちをどこかで否定されている気分にならざるを得ない。僕らの心はごく小さく傷つき、その解決策や別の話題を求めて次の投稿へスクロールする。それでも、僕らの心は救われることは無く、もやもやとドーパミンと共に霧散していく。

そもそも最近のTwitterは、かつて一部の層しか見ておらず「便所の落書き」と揶揄されていた 2ch が若者からおじさんまでの全世代&全世界に拡大侵食し、「鵜呑みするとバカを見る」を知らない層にまで広がっているような風体だ。

Twitterをやめることはこれまでの自分の価値観をとりもどし、自分を穏やかな気分にする方法の一つだろうと、それなりの自信があるものの、先に述べたように、一方でこれは、ゲイの僕にとっては近い価値観の友人を作り、交流し、相談をするツールでもある。そして、このブログを載せている貴重な媒体でもある(僕は自分の文章を読まれるのが好き&自分で読み返すのが大好き)。

この気持ちの決着はつかないけれど、可能な限り、Twitterを離れる生活をしようと思う(iPhoneからは消した)。
またしばらくしたら、心情の変化を書こうと思う。人の生活をうらやましがらず、「アウトドアでのんびり」な気持ちにシフトしたいから。

そんな感じ。