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農家はもっと減っていい 農業の「常識」はウソだらけ(久松達央著)を読んで...

「日本の農業はオランダより30年遅れているね。1980年代って感じ」

これは、2015年頃オランダのとある地域の議員兼畑作農家と話しているときに言われた言葉だ。当時、何だか嫌な気持ちになったことを覚えている。

久松達央さんの新著『農家はもっと減っていい 農業の「常識」はウソだらけ』(光文社新書)を一足先に読ませて頂き、「ああ、このオランダ農家の感覚は正しかったのかもしれない」と時を超えて理解した。

1980〜1990年代の日本では農業に関してどのような議論がされ、その後どのような経路を辿り、現在に至るのか。2015〜2022年の7年間はどうだったのだろうか。そんなことを考えざるを得なかった。

個別農家への心遣いと産業構造の転換のジレンマ

「農家はもっと減っていい」といえば、オランダではまさに窒素削減のために畜産の家畜頭数を減少させ、実質的に農家数を減らす政策を敢行しようとしており、それに農家が大規模な対抗運動を継続している。

個別視点で見れば、Human rightsもあったもんじゃなくひどいな(資金サポートはあるが)と思う。一方、1960年代の高度経済成長期のオランダでは多くの国民の生活が豊かになる一方で、農家は困窮していたため、政府は、小規模生産者が減少していたことと、将来的に補助金や資金援助の支出を減らすため、農業分野の輸出マーケット開拓に高い優先順位をつける。1963年に農場への投資の補助金を制定するとともに離農する人への資金サポートを行なったことで、63~73年は離農者への資金サポートが農場投資への補助金を上回った。その結果、意欲のある生産者だけが残り、産業化が進み、知識と技術を軸にするオランダ農業が促進したといわれている。

このような出来事を歴史として俯瞰するのと、現在進行形で知り合いが巻き込まれているのとでは、感情は異なる。

そして、いまオランダは、Regenerative agriculture(環境再生型農業)や物質循環型農業の文脈に方向転換している(ように見える)。このように方向性がガンガン変化する国であっても、もちろん個別農家が日々やっていることが急激に変わるわけではない。少しずつ適応をしたり、方向転換したり、今回の窒素政策のように対抗したり。おもしろいことに、60年代にほぼいなくなった小規模農家が再び出現していたりと文脈が変わればプレイヤーも変わる。

久松さんの本のなかでも、個別視点と全体構造を切り分けて考えることの重要性がたびたび出てくる。全体構造を語るときは、いかに知り合いの顔を思い浮かべないかが大切なのかもしれない。

農家、農業、農村を消費していない?

個別性に関しては、私を含めたメディア関係者は反省するところが多いだろう。たとえば、個別事例の紹介による農家同士の「horizontal exchange(水平交流)」は開発学でも大切だと言われることがあるし、成功事例の紹介もイノベーションの普及手法としても有用。もちろんそこからほかの農家が得るものもあると思う。

しかし、農業者人口が1%未満の日本では、農業、農家、農村を知る手立てとしてメディアが大きな機能を持ってしまっているともいえる。メディアは「農家らしさ」「農業らしさ」「農村らしさ」の個別の農家に語らせることによって言説を構成、再現する媒体として、特定の道徳観、文化的信念、政治的信条によって曲解してはいないだろうか。農村の問題を取り上げないことによって穏やかな場所であるとのイメージを構築し、農業、農村の危機があれば積極的に取り上げることもあるのではないだろうか。このような状況も含めてマイケルウッズ(2011)は『ルーラル:農村とは何か』(農林統計出版)の中で「農村が消費されている」と原因の一つだと指摘している。実際、農村だけでなく「農業」も「農家」も消費されているように思う。

久松さんが「農業視察には文化人類学的視点が重要」というように、農業関係のメディアを見るときや農家の事例記事(成功事例はもとより失敗事例であっても、のちに成功が鉄板)を読むときにも文化人類学的視点は欠かせない。そして『農家はもっと減っていい 農業の「常識」はウソだらけ』に出てくる失敗事例は、本当の失敗事例で読んでいて辛くなる。きれいにまとまったいい話がたくさん転がっているのは、幻想というかエンターテインメントなのかもしれない。

スタンスの曖昧さが多様な解釈を生む

この本の中には、実践的な話に突如出てくる抽象的な例えが出てくる。さらに、細かく要素に分解して理解する話なのかと思いながら読み進めると、要素では理解しきれない全体論的な視点が顔を覗かせる。また、生物を複雑な機械として考える「機械論的な話」の側面と、生命には機械のアナロジーで捉えきれない固有性がある「生気論的な話」も交錯している。

だからこそさまざまなスタンスの人たち(分断と言い替えた方がわかりやすい?)に読まれて、人それぞれ解釈もまったく違いそう。この本がバウンダリーオブジェクトとなり、それぞれの解釈を話し合うことで新たなネットワークの集合・離散が起こったらおもしろいだろうなと妄想する。

そして、この本を読んだ人の多くが、共感する箇所もあれば心がざらっとする箇所があるのではないかと思う。

追伸:表紙の写真が何のオマージュか気になります。
注意:書評でも感想でもなく、長いつぶやきになっていまいました。

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『農家はもっと減っていい 農業の「常識」はウソだらけ』久松達央(光文社新書)

そのほか過去の取材記事

「お前はどんな音を奏でたい?」ビートが効いた野菜と人を育てる(雑誌農業経営者)

食と農 安全・安心を考える 有機農業が唯一の解決策ではない みんなが食べ続けていくために選択の自由を守る(雑誌農業経営者)

久松達央さんのジツロク農業論(AGRI PICK)

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