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善悪は感情の表現にすぎない?――情緒主義入門

 みなさんは「善悪や正義についての発言は、個々人の感情や気持ちを表したものにすぎない」というような意見を聞いたことはないでしょうか。倫理学において「倫理判断は感情の表現にすぎない」という考えは「情緒主義」(情動主義)と呼ばれます。はたして、情緒主義は妥当でしょうか。

 この記事では、Ⅰにて、エイヤーの情緒主義を概観し、Ⅱにて、その問題点を確認します。

※ 参考文献は記事の最後に示し、本文では著者名・刊行年・ページのみを括弧に入れて表記します。

Ⅰ.情緒主義の概要

 情緒主義の始まりはアルフレッド・エイヤーという哲学者の『言語・真理・論理』(原著1936年)という本です。本節では、この本を参考にして、エイヤーの情緒主義を概観します。

 結論から言えば、エイヤーの考えでは、「金を盗むことは悪い」とか「慈善団体に寄付することは善い」といった倫理判断は、感情の表現にすぎず、真でも偽でもありません。エイヤーは次のようにいいます。

命題に倫理的記号〔「善い」「悪い」「べき」など〕があらわれることは、その命題の事実的な内容には何ものをもつけ加えない。たとえば私が誰かに「君があの金を盗んだとは悪いことをしたものだ」という場合、私はただ「君はあの金を盗んだ」といった場合に陳述したであろう以上のことは何も陳述してはいないのである。(エイヤー 2022 p. 147 〔〕は引用者による補足)

 エイヤーによれば、「AがXしたのは悪い」とか「AがXしたのは善い」といった発言は「AはXした」という事実以外の何らかの事実を述べたものではありません。それでは、「悪い」とか「善い」といった言葉は何を述べているのでしょうか。エイヤーによれば、それは話し手の感情です。エイヤーは次のように続けます。

この行いが悪いということをつけ加えることにより、私はその行いに関してそれ以上の陳述をしているわけではない。私はただ自分がそれを道徳的にみとめないことを明らかにしているにすぎない。それはあたかも私が特別な恐怖の調子で「君はあの金を盗んだ」といったのと同じである。あるいはその言葉にいくつかの特別な感嘆符をつけ加えて書いたのと同じである。声の調子や感嘆符は文章の字義上の意味には何ものをもつけ加えはしない。それはただ、それの表現に話手のある感情がつけ加えられていることを示すのに役立つのみである。(エイヤー 2022 pp. 147-148 強調は引用者)

 エイヤーの考えでは、「君があの金を盗んだのは悪い」と述べることは、恐怖の感情をこめて「君はあの金を盗んだ‼((((;゚Д゚))))」と述べることと同じようなものです。同様に、例えば、「彼女が慈善団体に寄付したのは善い」と述べることは、尊敬の感情をこめて「彼女は慈善団体に寄付した‼(≧∇≦)」と述べる同じようなものです。エイヤーは次のように続けます。

さて今私が私の陳述の一般化をして「金を盗むことは悪い」というならば、私は事実的な意味を持たない、いいかえれば真か偽でありうるような命題を表現してはいない文章をつくり出しているのである。それはあたかも私が「金を盗むこと‼」と書き、その感嘆符のかたちと太さとが適当な規約により、特殊の道徳的な非承認の感情が表現されていることを示している場合と同様である。この場合真か偽かでありうることは何一つとしていわれていないことは明らかである。(エイヤー 2022 p. 148)

 エイヤーによれば、「金を盗むことは悪い」と述べることは「金を盗むなんて‼((((;゚Д゚))))」と述べるのと同じようなものです。「金を盗むなんて‼((((;゚Д゚))))」という発言は真でも偽でもありません。よって「金を盗むことは悪い」という発言も真でも偽でもないのです。

 このように、エイヤーの考えでは、「金を盗むことは悪い」とか「慈善団体に寄付するのは善い」といった倫理判断は、感情の表現にすぎず、真でも偽でもありません。

 以上がエイヤーの情緒主義の概要です。

Ⅱ.情緒主義の問題点

 倫理学者の佐藤岳詩は、エイヤーの情緒主義に対して投げかけられた批判を3つに整理しています。本節では、それぞれを見ていきましょう。

 第1に、エイヤーの情緒主義には、倫理における対話や不一致を不可能にしてしまうという問題があります(佐藤 2017 pp. 208-210)。

 もしもエイヤーが正しければ、例えば、「体罰は悪い」という発言は「体罰‼(# ゚Д゚)」と述べるようなものであり、「体罰は善い」という発言は「体罰‼(≧∇≦)」と述べるようなものです。この場合、それぞれの話し手の間に対話は成立せず、できるのは互いの感情のぶつけ合いだけになってしまいます。

 しかし、実際には、「体罰は善いか悪いか」といった倫理をめぐる議論は、互いの主張を理解し、妥当な結論を出せるような建設的なものでありうると私たちは考えているように思われます。

 こう考えると、エイヤーの情緒主義は、私たちの倫理をめぐる実践の現状に合っていないように思われます(また、エイヤーの情緒主義では意見の不一致を説明できないという問題もあります)。

 第2に、エイヤーの情緒主義には、倫理を不安定にして、合理性や理由などの重要な概念を使用不可能にしてしまうという問題があります(佐藤 2017 p. 210)。

 感情には不安定なところがあります。例えば、悲しむべき理由がないのに涙が出てきたり、相反する感情が同時に出てきたりすることもあります。感情は必ずしも理由に基づいて生じるものではないし、合理的な判断に従って生じるものでもありません。そうだとすると、今日は悪いと思えたものが、明日には善いと思えてしまうかもしれません。

 倫理の判断が感情のような不安定なものの表現にすぎないならば、倫理まで不安定なものになってしまい、そこから合理性や理由などの要素がなくなってしまいます。しかし、今日善いものは明日も善いだろうし、「なぜそれは善いのか」と問われれば、何らかの理由を挙げることができると私たちは考えています。

 こう考えると、エイヤーの情緒主義は、倫理についての私たちの理解とは外れているように思われます。

 第3に、「フレーゲ=ギーチ問題」という問題があります(佐藤 2017 pp. 210-211 pp. 219-221)。申し訳ないことに、私はフレーゲ=ギーチ問題をうまく説明できないため、これについては問題の骨子の紹介にとどめます。

 哲学者の伊勢田哲治によれば、フレーゲ=ギーチ問題とは次のような問題です。

「Xは善い」とか「Xは悪い」といった文章はいろいろな場面で使われる。そのなかには、もっと長い文章の一部として使われる用法もある。たとえば、「もし私のしていることが悪いならとっくに罰をうけているはずだ」といった文は、内容はともかく日本語として特に違和感はない。しかし、この文の前半で出てくる「悪い」を感情の表現だとか普遍的指令だとかと考えて置き換えようとしてもちゃんとした日本語にならない。このことから発生するのがフレーゲ=ギーチ問題である。(伊勢田 2008 p. 89 n. 19)

 情緒主義では、私たちが日常で行う「道徳的推論」や道徳用語を用いた「埋め込み文、条件文」が説明できません。これがフレーゲ=ギーチ問題の骨子です。情緒主義はフレーゲ=ギーチ問題を解決できないと言われています。

 まとめます。エイヤーの情緒主義には、第1に、倫理における対話や不一致を不可能にするという問題、第2に、倫理を不安定にして、合理性や理由などの重要な概念を使用不可能にするという問題、第3に、フレーゲ=ギーチ問題があります。

おわりに

 この記事では、Ⅰにて、エイヤーの情緒主義を概観し、Ⅱにて、その問題点を確認しました。

 エイヤーの『言語・真理・論理』を始まりとする情緒主義は、その後、チャールズ・スティーブンソンという哲学者の『倫理と言語』(原著1944年)という本によってさらに発展しました(伊勢田 2008 pp. 79-83 佐藤 2017 pp. 212-221、スティーブンソン 1976)。機会があれば、スティーブンソンの情緒主義についても取り上げたいと思います。

 なお、以下の記事では「倫理は普遍的ではなく相対的なものである」と考える倫理的相対主義という考えを取り上げました。ぜひ、こちらもお読みください。

 読んでくださって、ありがとうございました!

参考文献

伊勢田哲治 2008『動物からの倫理学入門』(名古屋大学出版会)
エイヤー、A.J. 2022『言語・真理・論理』(吉田夏彦訳 ちくま学芸文庫)
佐藤岳詩 2017『メタ倫理学入門――道徳のそもそもを考える』(勁草書房)
スティーブンソン、C.L. 1976『倫理と言語』(島田四郎訳 内田老鶴圃新社)

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