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なぜ経済格差は問題なのか?

 この記事の目的は「なぜ経済格差は重要な問題なのか?」を政治哲学などの知見をもとに整理することである。これは「なぜ経済格差を是正すべきなのか?」という問いでもある。この記事では、経済格差が問題となる4つの理由を提示したい。

 本題の前に3つの注意点を述べる。第1に、この記事で問題にするのは過度の経済格差である。第2に、この記事の目的は経済格差の実態・原因・対策を考えることではない。第3に、この記事は国内の経済格差を扱い、グローバルな経済格差については扱わない。

※ 参考文献は記事の最後に示し、本文では著者名・刊行年・ページのみを括弧に入れて表記する。


1.出発地点の不平等と競争の不公正

 第1に、経済格差は出発地点の不平等を拡大させ、競争を不公正(アンフェア)にする(齋藤 2017 pp. 87-88)。

 現代社会は競争社会でもある。進学・就職・昇進などにはいずれも競争という側面がある。もちろん、私たちの社会に競争があること自体は問題ではない。問題はその競争が公正(フェア)であるかどうかである。

 経済格差が大きくなれば、人々の人生の出発地点における有利・不利の差も大きくなる。例えば、貧しい家庭に生まれた人は進学を諦めなければならなくなるかもしれない。そのような有利・不利の差が大きければ、人々の間の競争は公正とはいえないだろう。

 つまり、政治学者の齋藤純一がいうように「ある人が有利な地点(たとえば裕福な家庭)から出発できるのに対して、他の人はそうではないとすれば、彼らの間の競争は公正フェアであるとは言えない」(齋藤 2017 pp. 87-88)。

 このように、経済格差は出発地点の不平等を拡大させ、競争を不公正にする。これが、経済格差が問題となる第1の理由である。

2.政治的不平等と支配・抑圧

 第2に、経済格差は政治的不平等を拡大させ、支配・抑圧を生じさせうる(齋藤 2017 pp. 88-89、ホワイト 2017 pp. 47-48、ロールズ 2004 p. 230)。

 政治的権利(投票権など)は貧しい人であれ裕福な人であれ等しく与えられている。しかし、貧しい人々と裕福な人々との間には、実際に政治に影響を与える力に大きな差が生じうる。政治哲学者のステュワート・ホワイトは次のようにいう。

貧窮した者は、法律上は、たいへん裕福な者と同等の政治的権利を持ちうる。しかし、経済的な立場の違いは、これらの政治的権利を有効に行使する能力に、明らかに違いをもたらしうる。富める者は、自らが推奨する法や候補者に賛同して選挙運動を行うために、莫大な額のテレビによる宣伝の時間を買い上げることができるが、貧しい者は労働に追われて投票する時間でさえやりくりすることが難しいであろう。私有財産や市場経済において、富裕者は投資決定に支配権をもち、この権力は政府の行動を制約しうる。(ホワイト 2017 p. 48 強調は引用者)

 つまり、裕福な人は政治に大きな影響を与える力を持ち、貧しい人はそのような力を持たないということが起こりうる。言い換えれば、経済格差はそのまま政治への影響力の格差になりうるのである。

 そのような政治的不平等が大きくなれば、政治への大きな影響力を持つ一部の人々が他の人々を支配・抑圧することになりかねない。

 このように、経済格差は政治的不平等を拡大させ、支配・抑圧を生じさせうる。これが、経済格差が問題となる第2の理由である。

3.地位の不平等と自尊の損傷

 第3に、経済格差は地位の不平等を拡大させ、人々の自尊を損ないうる(齋藤 2017 p. 88、スウィフト 2011 pp. 156-157、ホワイト 2017 pp. 48-49 pp. 62-63、ロールズ 2004 pp. 230-231)。

 「地位の平等」という考え方がある。ここでいう「地位」とは「公的機関や他者による、ある人の受け止め方に見られるように、その人の社会の中での基本的な立ち位置」(ホワイト 2017 p. 48)のことである[注1]。ホワイトは次のようにいう。

地位が不平等な社会では、ある人々の家柄、社会階級、ジェンダー、エスニシティに起因して、ある人々が他の人々よりも上位の生活の地位を占めるという広く共有された意識がある。そのような社会は、ある者が他の者を見下すことができると感じ、他の者は自分より高い地位の序列の人々に丁重でなくてはならないと感じる社会である。(ホワイト 2017 p. 48 強調は引用者)

 簡単にいえば、地位が不平等な社会とは優位な立場の人々と劣位な立場の人々の差が明白になった社会である。

 経済格差が大きくなれば、人々の生活様式などの差も大きくなり、地位の不平等も大きくなりやすいだろう。

 ここで問題になるのが人々の自尊(自尊心)である。ここでは政治哲学者のジョン・ロールズによる自尊についての議論の一部を見てみよう(ロールズ 2010 pp. 242-243 pp. 577-580)。自尊には「自分自身には価値がある」とか「自分の人生計画は遂行に値する」といった確信が含まれる。ゆえに、自尊はどんな人生にとっても重要である。しかし、ある人の自尊は他の人々と無関係ではない。ロールズは次のようにいう。

ところで私たちの自尊は通常、他者が示す敬意に依存している。私たちの奮闘努力は他の人びとから尊重されていると感じるのでない限り、私たちの目的が促進するに値するという確信を維持することは、不可能ではないまでも難しい(〔略〕)。(ロールズ 2010 p. 242)

 つまり、ある人の自尊は他の人々がその人を尊重しているかどうかにも左右されるのである。以上がロールズの議論の一部である。

 地位が不平等な社会では、劣位の立場の人々の自尊は損なわれやすくなる。なぜなら、例えば、集団Aの人々が劣位な立場にいる場合、他の人々が集団Aの人々を尊重せずに劣った者だとみなしたり、集団Aの人々が自分自身を劣った存在だと認識したりすることがあるからである。

 このように、経済格差は地位の不平等を拡大させ、人々の自尊を損ないうる。これが、経済格差が問題となる第3の理由である。

4.人々の健康への悪影響

 第4に、経済格差は人々の健康に悪影響を与える(カワチ 2013 第2章、スウィフト 2011 pp. 157-158)。

 言うまでもなく、貧困は健康に悪影響を与える。例えば、貧困によって過労になったり、適切な医療を受けられなかったり、十分な栄養をとれなかったりすれば、健康は損なわれやすくなる。

 しかし、問題は貧困だけではない。社会疫学の研究によれば、経済格差は人々全体の健康に悪影響を与えるのである。社会疫学者のイチロー・カワチは次のようにいう。

格差が大きい社会は、所得が高い人の健康にも影響を与えることが、現在の社会疫学の研究からわかっています。〔原文改行〕もちろん、格差のあるなしにかかわらず、貧困は健康に影響を及ぼします。しかし、格差がある社会では、貧しい人だけでなく、お金持ちの人も含めた、人々全体の健康状態に影響を与える可能性があるのです。(カワチ 2013 p. 48 強調は原文)

 カワチによれば、経済格差は人々全体の健康に悪影響を与える背景には4つのメカニズムがある(カワチ 2013 pp. 48-66)。

 第1に、経済格差は国民の健康状態の平均を引き下げる[注2]。

 第2に、経済格差は地域の環境に影響する。格差が大きい地域は治安が悪かったり病院などの社会的なインフラが整っていなかったりすることが多い。そのことは低所得者の健康だけでなく高所得者の健康にも影響する。

 第3に、〈自分の所得が他の人の所得と比べてどの位置にあるか〉がその人の健康を決定する要因になる。自分と周りを比較し、自分がその社会の標準的な所得に達していないと感じた場合、そのストレスが高血圧などを引き起こし、健康上のリスクを引き上げる。

 第4に、〈自分の社会的地位が他の人の地位と比べてどの位置にあるか〉もその人の健康を決定する要因になる。社会的地位も所得と同様に健康に影響する。

 これらのメカニズムによって経済格差は人々の健康に悪影響を与える。

 このように、経済格差は人々の健康に悪影響を与える。これが、経済格差が問題となる第4の理由である。

「世の中は不平等なものだから仕方がない」?

 ここまで、経済格差が問題となる理由を整理してきた。しかし、次のような意見を持つ人もいるかもしれない。「世の中は不平等なものだから仕方がないのでは?」。たしかに、私たちの社会に様々な不平等があることは事実である。しかし、私は、このような意見は政治学者の丸山眞男がいう政治的な思考法が欠けていると思う。

 丸山がいう政治的な思考法とは何か。政治の議論において、しばしば「理想はそうだけど現実はそうはいかない」といった見解が主張される。丸山によれば、このような見解は現実を「でき上がったもの」とみなしており「可能性の束」とみなしていない(丸山 2014 pp. 356-358)。長くなるが、丸山がこの点を論じた部分を丸ごと引用する。

〔略〕現実というものを固定した、でき上がったものとして見ないで、その中にあるいろいろな可能性のうち、どの可能性を伸ばしていくか、あるいはどの可能性をめていくか、そういうことを政治の理想なり、目標なりに、関係づけていく考え方、これが政治的な思考法の一つの重要なモメントとみられる。つまり、そこに方向判断が生れます。つまり現実というものはいろいろな可能性の束です。そのうちある可能性は将来に向かってますます伸びていくものであるかもしれない。これにたいして別の可能性は将来に向かってますますなくなっていく可能性であるかもしれない。そういう、つまり方向性の認識というものと、現実認識というものは不可分なんです。それを方向性なしに、理想はそうかもしれないけれども現実はこうだからというのは政治的認識ではない。いろいろな可能性の方向性を認識する。そしてそれを選択する。どの方向を今後のばしていくのが正しい、どの方向はより望ましくないからそれが伸びないようにチェックする、ということが政治的な選択なんです。(丸山 2014 p. 358 強調は原文)

 つまり、現実を「でき上がったもの」とみなすのではなく、現実が持ついろいろな可能性を認識し、どの方向に伸ばすかを判断することが政治的な思考法の1つだというわけである。

 「世の中は不平等なものだから仕方がない」という意見は、様々な不平等がある現実を「でき上がったもの」とみなしてしまっていると思われる。しかし、重要なのは、その現実が持つ複数の可能性を認識し、どの方向に伸ばすかを判断することである。例えば、現実から様々な可能性を認識し、その中から経済格差が多少なりとも緩和される可能性が見出せるならば、その方向性を伸ばすことは検討に値するだろう。

 何の根拠もないのに「きっとすぐに様々な不平等は解消されるだろう」などと考えることは現実を直視した思考とはいえない。しかし、様々な不平等がある現実を「でき上がったもの」とみなして「仕方がない」と考えることもまた「可能性の束」としての現実を直視した思考とはいえないのである。

おわりに

 この記事の要点をまとめよう。経済格差が重要な問題なのは、次の理由があるからである。第1に、経済格差は出発地点の不平等を拡大させ、競争を不公正にする。第2に、経済格差は政治的不平等を拡大させ、支配・抑圧を生じさせうる。第3に、経済格差は地位の不平等を拡大させ、人々の自尊を損ないうる。第4に、経済格差は人々の健康に悪影響を与える。

 なお、下の記事では経済格差と関連する〈機会の平等〉について考えました。ぜひこちらもお読みください。

 読んでくださって、ありがとうございました!

注・参考文献

[注1]ホワイトはこの部分を政治哲学者のディヴィッド・ミラーの著作から引用している。
[注2]大変申し訳ないが、私の力不足によりこの点をうまくまとめられなかった。この点について気になった方は、下記のカワチの文献を参照してほしい。

カワチ、イチロー 2013『命の格差は止められるか――ハーバード日本人教授の、世界が注目する授業』(小学館101新書)
齋藤純一 2017『不平等を考える――政治理論入門』(ちくま新書)
スウィフト、アダム 2011『政治哲学への招待――自由や平等のいったい何が問題なのか?』(有賀誠/武藤功訳 風行社)
ホワイト、ステュワート 2017「平等の要請」(細見佳子訳『九大法学』115号 pp. 43-72)
丸山眞男 2014「政治的判断」(同『政治の世界 他十篇』松本礼二編注 岩波文庫 pp. 339-393)
ロールズ、ジョン 2004『公正としての正義 再説』(エリン・ケリー編 田中成明/亀本洋/平井亮輔訳 岩波書店)
ロールズ、ジョン 2010『正義論 改訂版』(川本隆史/福間聡/神島裕子訳 紀伊國屋書店)

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