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なぜ人は泣いて生まれるのか

37年前、大声で泣きながらこの世に生を受けた自分を思うと、そんなに嫌だったのかと思う事がある。
残念ながら今回も第一希望のシャチに生まれる事ができなかったのが悲しいのか、はたまたスタート時一度きりの「家族ガチャ」でレアを引けず、田舎の中の中を引き当てた事の悔しさからか。
話がそれたが、これは別に自身の人生を悲観をしているわけではなく、何故泣いて産まれてくるのだろうというただの疑問だ。
以前気になって調べてみたのだが、大声で泣くのは、それによって肺を膨らまし、心肺機能を今までの母体内でのものから、自分自身で行うシステムに移行する為だとか。
それにしても大声で笑いながらではダメだったのだろうかと思う。少し試してみたが、笑っても肺は膨れている気がする。若干吸気側に難があるが。
ともあれ十月十日の長きを耐え、想像を絶する痛みの中産まれてきてくれた我が子が、大笑いしながら登場したらどうだろう。
きっと無機質な分娩室にはあたたかな笑顔が溢れるに違いない。
外で待つ旦那さんは、暗い廊下に響き渡る我が子の笑い声を聞き安堵する。そこへ看護師さんが駆け寄り、「おめでとうございます。立派な笑い声の男の子ですよ!」と報告に来るのだ。
言葉は発せずとも、シャチじゃ無くても中の中の家庭でも、生まれた事が幸せだと瞬時に伝わるだろう。
しかしそうまでして泣くということは、笑う事は比較的難易度が高いのだろう。
生まれ落ちた瞬間にすくっと立ち上がり、「天上天下唯我独尊」と言い放った彼の方とは違い、大半の人々は人生のベースが苦でできているらしいから、泣く方が容易いのかもしれない。
今までの人生を振り返ってどちらが多かったかと考えたが、圧倒的に無表情が多いと気づいた。
理科の授業で酸素や二酸化炭素より圧倒的に窒素が多い事を知ったときに受けた感覚ににている。
そしてさっきまでニヤニヤしながら妄想していた顔も無表情になっている事に気付く。
相変わらず中の中を進んでいる人生だが、もう少し酸素濃度を上げられるように残りの人生も楽しもうと思う。
ところで、シャチは産まれた時泣くのだろうか。










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