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【自伝小説】最南端の空手フリムン伝説|著:田福雄市@石垣島|第10話 七転八倒編(3)

【肉体改造】

ウエイトトレーニングに没頭するフリムンに、師範から昇段審査を受けるよう指令が出た。

弐段を許されてから5年後のことであった。

前回の審査の時と違い、現役を退いてからかなりの年月が経っていた事もあり、フリムンは審査に向けある事に着手した。

そう、筋肉の質を変える「肉体改造」である。

空手用の筋肉とパワー用の筋肉は全く違う。

パワー競技に筋持久力やスタミナは必要ないが、空手の試合は2分~3分間動き続けなければならない。

更に連続組手では1分の複数回を要求される。

1分×段数×10ラウンド。

参段の審査なら1分×30ラウンド(30人組手)をクリアしなければならない。

もちろん、基本や型や補強込みだ。

よって審査用にトレーニングメニューを変える必要があった。

更に、空手の稽古時間をこれまでの倍以上に増やすなど、とにかくやれることは全てやった。

実戦的な組手(スパーリング)も頸椎を痛めてから殆どやってこなかったが、そこも徹底的に練り直す必要があった。

もちろん新しい型も覚えなければならない。

とにかくやる事は限りなくあった。

こうして自らを追い込み、少しずつ不安を跳ね除けていったフリムン。

ただ不安よりも、期待の方が遥かに大きかったのは言うまでもない。

(厳しい審査に耐え得る下半身の強化)
(坂道ダッシュ)   (自重トレーニング)
(ミット打ち)   (ミット蹴り)
(腹踏み)   (腹打ち)
(スパーリング×30ラウンド)

【覚悟の力】

2010年4月…遂に審査の日がやってきた。

前回以上に自らを律したお陰で、自信を持って審査に臨めた。

更にフリムンは今回のテーマを1つに絞っていた。

それは至ってシンプル。

準備運動から最後の連続組手まで、とにかく最初っから飛ばしまくるという作戦であった。

「いやマジ シンポー!(≧◇≦)」 

特別昇段審査の様子(右下は対戦相手)
共に審査(弐段)を受けたT中指導員
審査後の皮下出血。これが連続組手の代償である

飛ばした。
最初から最後まで飛ばしまくった。
一瞬たりとも手を抜くことなく、
スタミナ配分など度外視で出し切った。
覚悟を決めた人間の底力に、
フリムン自身が一番驚いていた。

「マジ人体って凄ぇ~」

しかし、連続30人組手の最中、水分補給などのお手伝いをしていた後輩たちの方が逆にテンパってしまい、ガンガン飛ばすフリムンを見て大慌て。

勝手に盛り上がってミスを連発しまくった。

※( )内は心の声

「先輩飛ばし過ぎっす、ペース落としてっ」
(全然大丈夫じゃ、勝手に止めんなっ)

「先輩、キツそうですが大丈夫っすか?」
(だから大丈夫じゃ、勝手に決めんなっ)

「先輩、もっと水飲んで(グビグビグビグビ)」
(も、もういい、もう要らんっゲボッ)

「先輩、汗拭きます(呼吸器塞いでフキフキ)」
(ま、マジ息できんヴフッ…止めっフガッ)

「先輩、落ち着いてっ!」
(こっちの台詞じゃっ!)

気を使えば使うほど邪魔ばかり(笑)

それほど、その日のフリムンのイケイケ振りは常軌を逸脱していた。

こうして、堂々と胸を張って新しい帯を締めることを許されたフリムン。

この時の体験が、フリムンにより一層の自信を与えた。
年齢に関係なく、まだまだ強くなれるのだという自信を。

フリムン44歳の時である。 

【師範代行】

昇段審査から半年後、山形県支部田畑道場25周年記念大会(東北極真カップ)に、七戸師範の代行としてM城師範代、O城師範代、そしてフリムンの3名が選出。

演武で花を添える事となった。

この重過ぎる代役に、フリムンは頸椎ヘルニアのリハビリで始めた古武道(棒術)を披露する事にした。

ちなみにこの棒術、最初はリハビリの一環で始めたのだが、のめり込むタイプの彼は練習に没頭し過ぎて大会に出場。

八重山地区大会で四度優勝を搔っ攫い、県民大会にも出場した。

もう彼の辞書から「リハビリ」という文字は抹消した方が良い。

喉元過ぎれば熱さを忘れるとは、もはや彼のために作られた言葉である。 

高校時代に娘たちがお世話になったY﨑先生と

こうして始まった師範代行としての特別演武。

静まり返った会場で、三人は全てを出し切った。

全員で型を演じた後に、個々で演武を披露

ちなみに遠征先で演武を披露するのはこれが初めてだったフリムン。とても貴重な体験をさせて頂いた。

田畑理事長にも恐れ多いほどの接待を頂き、感謝の気持ちを胸に山形を後にした。

そして、この「東北極真カップ」での演武をキッカケに、現役復帰戦の会場を山形に選んだフリムン。

人生とは、人と人との繋がりによって構築されている事を、改めて知ったフリムンであった。

【パワーリフティング協会発足】

こうして空手と並行して、パワーリフティングの世界でも結果を残し続けてきたフリムン。

そんなお世話になった業界に恩返しがしたいと、2011年に有志を集め「八重山地区パワーリフティング協会」を発足。

その発起人となり、理事長に就任。

現在に至っている。

地元誌でも大々的に報じられた


そんな八重山地区大会の様子

  

道場生も毎年出場。大会に花を添えている

ちなみに記念すべき「第1回八重山地区大会」の覇者は、何を隠そうフリムン本人であった(笑)

八重山大会「初代王者」に輝いたフリムンの試技

そしてそのままの勢いで、県大会初制覇を目指し更にギアを上げたフリムン。

長年追い続けた夢も、もう手の届くところまで来ていた。

【限界突破】

パワーの世界でも県大会制覇を目論んでいたフリムンだが、10年という歳月を以てしても未だ手が届かず、常に2位か3位止まり。

よって優勝以外眼中になかったフリムンは、過去最恐の練習メニューを自らに課し、この大会に全てを掛けた。

2012年に開催された「第37回全沖縄大会」である。

ベンチプレス(ジム記録160㎏)
デッドリフト(ジム記録210㎏)
スクワット(ジム記録220㎏)

こうして地獄のトレーニングを経て迎えた本番当日。
遂に夢を叶える瞬間がやってきた。

スクワットでは公式戦の自己記録を更新。ベンチやデッドも失敗することなく全てクリアした。

そしてトータルでも過去最高値を打ち出し、本業の選手たちを抑え遂に「初優勝」というビッグタイトルを手に入れたのだった。

(試技中の著者)

全国大会出場のキップを手に入れたフリムンだが、それは優勝したからだけではなく、ある記録を打ち出したからである。

他のスポーツ競技と違い、パワー競技では「全日本標準記録」と言うものが設定されており、例え優勝してもそれをクリアしなければ出場は認められない。

そう、例え運よく優勝しても、簡単に出場できないのがパワーリフティング競技の全国大会なのだ。

地元誌でも報じられた県大会と全国大会の記事

全国大会入賞により地元紙を賑わしたフリムン。そんな彼に、とうとう熱烈なファンが誕生した。

(子どもだけどw)

何とその子は新聞の切り抜きを常に持ち歩き、たまたま会ったフリムンにそれを提示。

本人を驚かせた(笑)

も~なんて可愛いんでしょう♡

全国を経験し、ファンも獲得したフリムンであったが、全国の壁は余りにも厚く、テッペンを獲るには空手を辞めパワーに専念するしかないと判断。

もちろん、空手の先生が空手を辞めるなんて言語道断。
よってこの大会を最後に、潔くこの競技から退く事を決意した。

早いもので、頸椎ヘルニアから既に7年の歳月が流れていた。

フリムン47歳の時である。

ちなみにパワーの公式大会では、厳しくも細かいルールが設定されているため、殆どの選手がジム記録を大きく下回る。

種目や個人差にもよるが、大体10㎏~20㎏ほどの差が出るだろう。

よってジム記録を公言しても、この世界では失笑されるだけ。
実際に試合で出した記録のみが、本物の記録として認められるのである。

そんなフリムンの公式記録は以下の通り。

スクワット(210㎏)
ベンチプレス(147.5㎏)
デッドリフト(200㎏)
トータル(545㎏)

結局、これが限界であった。

空手家として、そして47歳という年齢にしては中々の記録ではあるが、パワーリフターとしては大した記録ではない。

世の中には、まだまだ怪物たちがゴロゴロいるのである。

次回予告

【GTO】グレート・ティーチャー・鬼z…!?
乞うご期待!


▼「フリムン伝説」の記事をまとめてみました!


この記事を書いた人

田福雄市(空手家)
1966年、石垣市平久保生まれ、平得育ち。
八重山高校卒業後、本格的に空手人生を歩みはじめる。
長年に渡り、空手関連の活動を中心に地域社会に貢献。
パワーリフティングの分野でも沖縄県優勝をはじめ、
競技者として多数の入賞経験を持つ。
青少年健全育成のボランティア活動等を通して石垣市、社会福祉協議会、警察署、薬物乱用防止協会などからの受賞歴多数。
八重山郡優秀指導者賞、極真会館沖縄県支部優秀選手賞も受賞。


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