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【自伝小説】最南端の空手フリムン伝説|著:田福雄市@石垣島|第11話 捲土重来編(2)

【遺伝子たちの活躍】

丁度この頃から、石垣道場のフリムンチルドレンたちが全国の舞台で大活躍するようになってきた。

これまでもそうであったが、その勢いは更にパワーアップ。これは、全て初孫が生まれて2ヶ月以内に起こった奇跡である。

孫が生まれて僅か2ヵ月という短いスパンで、なんと全国大会や世界大会で次々と入賞者が誕生。過去最高の成績で、フリムンと石垣市民を驚かせた。

こうして同好会発足時には想像すらできなかった事が次々と実現されていった。

捲土重来とは、まさにこの事である。

努力が報われるとは限らない。
しかし、結果を出す者は努力を惜しまない。
努力せずに結果を出そうとするその心根こそ、
報われない最たる原因である。
よって努力を怠るべからず。
人の二倍、三倍の努力を。
(byフリムン)

もうここまで来たら、後は「全日本王者」と「世界王者」を輩出するのみ。これが指導者としての最大の目標となったが、それ以上に大切にしていたのが、リーダー足り得る若者の育成だ。

強く、優しく、行動力に溢れ、そして想像力に富み、損得ではなく善悪で物事を考えられる本物のリーダーの育成。

それこそが、彼の最終目標である。

こうして全国や世界という言葉が普通に出るようになってきたのも、創世記の先輩たちが苦汁を舐め続けて得た教訓が活かされたお陰である。

よって先人への感謝の気持ちを忘れてはいけない。

武の道は伝承継承で成り立っているからだ。

これまでも、そしてこれからも、である。

【9対1の法則】

50代に入り、立て続けに良い事ばかりが続いたが、これまでの経験から良い事はそう長くは続かないのが定番であった。

挫折だらけのフリムンなら尚更だ。

そんな彼が、長い空手人生で掴んだ栄光は僅か1割程度。残りの9割はほぼ敗北と失敗だ。

これをフリムンは「9対1の法則」と呼び、自らの戒めとして常に心の中に留めていた。

「勝って兜の緒を締めよ」

自らも、そして道場生にも常にそう説きながら精進の手を休めずにいたフリムン。

道場生の活躍に背中を押され、自らもビッグタイトルを手にすべく大勝負に打って出た。

これまでやってきたウエイト・トレーニングに加え、心肺機能と筋持久力アップのために導入したのが、バイク(競技用自転車)を使ったローラートレーニングである。

幸い、後輩に自転車競技で活躍する専門家が居た。小学校時代からの後輩、Y田コーチである。

国体競技でも上位入賞の経験を持つY田コーチの下、ど素人のフリムンはゼロから指導を受けた。

トレーニングはコーチ宅のガレッジにて週一で行われ、丸々1時間みっちりと汗を流した。

Y田コーチ宅での地獄のトレーニング

慣れない筋肉を使い、慣れないペースで行われるローラートレーニング。

1時間バイクから降りることは許されず、一定の回転数を持続しながら、合間に70秒や90秒を数セット高回転ペダリングで限界まで追い込む。

もちろんペダリング中はほぼ無酸素運動。

そして最も辛いのは、出し切った直後に休めない事であった。

息も絶え絶えの中、そのまま一定の回転数でこぎ続けるため、汗が引く時間は皆無。水分補給もバイクをこぎ続けながら行った。

そんなハードなトレーニングにより、フリムンの体は見る見るそれを吸収。単発系から連打系の肉体に変貌していった。

特に、ペダルを回し続ける事により「膝蹴り」の威力が強化され、突きから膝の回転数が爆上がりした。

トレーニングは時に深夜にまで及んだ

ビッグタイトルを手に入れるためのトレーニングに加え、組手のスタイルも大幅に修正。

これまでのガチンコスタイルを捨て、フットワークを駆使しながら手数を武器にポイントを重ね、確実に勝ちに行くスタイルに変えた。

古き良き極真スタイル(一撃必殺による一本勝ち狙い)に拘り過ぎてしまい、手数で後れを取っていたフリムン。

しかし、スタイルを変えることにより手数は増え、打たれる回数も減り、後半スタミナを切らす事もなくなった。

もちろん筋トレも高重量低回数ではなく、低重量高回数にシフトチェンジ。筋肉の質もオールチェンジし、肉体は完全に生まれ変わった。

こうして、空手の基本的稽古はもちろん、ウエイト、ローラー、ミット、スパーリングなどを毎日こなし、1年365日休むことなく肉体改造に明け暮れたフリムン。

加えて空手IQの強化にも時間を費やし、1年後、フリムンは引退覚悟で最後の勝負に打って出た。

「ここまでやってダメなら潔く諦めよう」

それほどまでに追い込んだ背景には、道場生の活躍はもちろん、孫の誕生が大きく関与していた。

娘の誕生を機に、「我が子に見せられる背中を作りたい」と始めた空手の道。

今度は孫の誕生を機に、「孫に自慢できる背中を作りたい」と取り組んだビッグタイトル獲得のための肉体改造。

これを「最後の聖戦」とし、この世界での自分史の締めとする。

それが、50代に突入したフリムンの最終計画であった。

当時、まだ極真の大会で一度もテッペンを獲った事がなかったフリムン。よって、今度こそ絶対に「9対1」の「1」を実現させなければならなかった。

目に入れても痛くない、孫や道場生のためにも。

【別れ】

孫が生まれ、道場生が大活躍し、もうこれ以上ないほど幸福感に包まれていたフリムンだったが、そんな幸せな日々も長くは続かなかった。

初産という事で両親の住む石垣島を選んだ娘だったが、それも生まれてから3ヶ月間という約束であった。

当時、婿殿は仕事のため実家のある沖縄本島に住んでいたので、飛行機に乗れるようになれば帰るのは覚悟していた。

しかし、いざその日が近付くとフリムンは動揺を隠せず、孫の寝顔を見ながら涙を落とし、このまま時間が止まって欲しいと願う日々を送っていた。

悲し過ぎて暇さえあれば添い寝ばかり
孫のために用意したベビーベッドや揺りかごも
持ち主を失い骨組みだけが取り残された

退院してから3ヵ月間、毎日共に暮らしていたのに、それがある日を境に海の向こう側へ飛び立つという現実を受け止めることが出来ず、このままでは気が狂ってしまうと思ったフリムンは、少しでも忘れられるよう稽古やトレーニングに没頭した。

次回予告

気が狂いそうな別れを背に、最後の聖戦へ向かうフリムン!
乞うご期待!
こちらから!


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この記事を書いた人

田福雄市(空手家)
1966年、石垣市平久保生まれ、平得育ち。
八重山高校卒業後、本格的に空手人生を歩みはじめる。
長年に渡り、空手関連の活動を中心に地域社会に貢献。
パワーリフティングの分野でも沖縄県優勝をはじめ、
競技者として多数の入賞経験を持つ。
青少年健全育成のボランティア活動等を通して石垣市、社会福祉協議会、警察署、薬物乱用防止協会などからの受賞歴多数。
八重山郡優秀指導者賞、極真会館沖縄県支部優秀選手賞も受賞。


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