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お絵かき一家

わたしの母親は童画家として名古屋時代から春日井市時代に活躍していた。
わたしが小学生の低学年から二十代までに渡る。
ペンネームはまる なほこ。

子供の頃は、スケッチ旅行とかいってほとんど家にいなかった。
いるときは絵を描いていて、その背中しかみられなかった。
晩ご飯は母親がいないときは店屋物をとって済ませ、いるときはいつも同じパターンの手作り料理だった。
でも、やはり母親の手作り料理は美味しかった。

父親は出張が多く、同じく滅多に帰ってこなかった。日曜日もゴルフで。そうそうお目にかかれないレアキャラだ。

そんな家庭だったので、長兄は大学に入るとさっさと家をでて一人暮らしをしてしまったし、次兄はグレて煙草を吸いはじめ、たまにいる母親に「うるせえくそばばあ!」と学生鞄を投げつけていた。
わたしはといえば、お小遣いだけはたんまりもらっていたので、友達と夜遅くまでマックやプールバーに入り浸り遊び呆けていた。いわゆる不良だ。

その三兄弟も進むべき道を探りながら生きていて、長兄は美術系の高校に通い、それから美大の日本画コースに進んだ。卒業後、いろいろあり、いまはフリーデザイナーとして生計を立てている。

次兄はアメリカを二年ほど放浪し、帰国するとホテルマンになり、すっかり落ち着いて生活していた。

わたしは長兄とはちがう学校だがやはり美術系の高校に通い、ところがそこでもまともに勉強せずに遊び呆けていた。そして紆余曲折があり、ピアノ講師となる。

つまり、三兄弟の内、二人が美術系に進んだのだ。
遺伝なのかどうかわからないが、お絵かき一家になってしまったのだ。

長兄の絵は現存しないが、わたしはこんな絵を描いていた。

ルネサンス期のフィレンツェの画家、アンドレア・デル・サルトの壁画の模写。当時は主にパステルで絵を描いていた。

母親はとくに美術系の学校に行ったわけではなく、誰かに師事したわけでもなく、独学で描いていた。
そして、その腕を認められ、愛知県教育委員会から依頼され、道徳の教科書の挿し絵の仕事も請け負っていた。
小学生のときに、その挿し絵の入った教科書を授業で使うので、恥ずかしかった記憶がある。先生もバラしちゃうし。

んでもって、母親はどんな絵を描くのかといえば、だいたいは子供と動物とか、小人とか人形とかを描いていた。

白と黒の対比が絶妙。独学とは思えない。やっぱ敵わないや。

いまや母親も米寿で、認知症もひどく、こんな絵を自分が描いていたことも忘れている。

だから、長兄が、母親が生きているうちに、と画集を作った。
きょうそれが手元に送られてきたのだが、やはりそのパワーに圧倒された。
子供を放っておいてまで邁進したかったその想いをまざまざと見せつけられた。

子供としては、ネグレクトの過去を消すことはできないけれど、恨みなどない。
三兄弟も仲が良いし、喧嘩なんてしたことないし。
おそらく、三兄弟とも母親の活躍は自慢だったと思う。

独立心の強かった長兄と、ヤンキーだった次兄と、不良だったわたしと、いま、母親の画集を観て、それぞれ子供時代を思い出しているだろうと思う。
苦かったり、寂しかったり、楽しかったり。
それぞれに。



※まるなほこ画集、売ってます。書店には並んでいませんが。

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