見出し画像

短編小説「ハンガリー人のピアニスト」

ハンガリー人のピアニストに恋をした私。
ちょっと前に誰かに恋をしていたような気がするけれど、すっかり忘却の彼方。

ハンガリー人のピアニストとの出会いはベートーベンのピアノ・ソナタを収めたCD購入時。
私は二十代前半。
そのときは、まだベートーベンを軽快に楽しげに弾く彼の演奏スタイルに驚かされただけだった。
だってベートーベンは重厚だって思い込みがあったから。
よく聴き込むと、彼のベートーベンはとても興味深く、ピアノ・ソナタ第八番『悲愴』の第一楽章、出だしのグラーヴェをメトロノームで測ったら、なんとぴったりの速さで弾いていた。
曲のテンポはすぐに、アレグロ・ディ・モルト・コン・ブリオに一変する。
爽快でかっこいい!
私は趣味でピアノをたしなんでいたので、ベートーベンを彼のように軽やかにかつスピーディーに弾きたいと、真似をすることに必死になっていた。

それからしばらく経ったころ、テレビのクラシック番組に、彼が出演することを知った。
当然、録画準備をして、テレビの前で正座した。
そのころには、信じられないくらいに速弾きする彼のテクニックを「神」と仰いでいた。
テレビ放送が始まった。
ナビゲーターは、日本を代表する女性ピアニストであり、ショパンコンクールの審査員の一員でもある大御所だ。
プログラムはベートーベンのピアノ協奏曲第五番変ホ長調作品七十三『皇帝』。
私は最初、彼はベートーベン弾きなのかと思っていた。後にちがうことがわかる。
とにかく、ピアノコンチェルトであっても、オーケストラと指揮者が演奏を導いても、彼はとても楽しそうに軽やかに自分のスタイルで弾いていた。
コンチェルトは、ソリストが主役なのだと知った。
動いている彼を観るのはそれが初めてだった。
ふわりとした癖毛の髪。遠くを見るようなブルーグレーの瞳。信じられないほど細やかに動く太い指。夢中になると下唇を噛む癖。
私のみぞおちは簡単に鷲掴みにされた。

そのころはまだVHSのテープでの録画だった。
それから、私は毎日スコアとにらみ合い、彼の映像を繰り返し観て、ベートーベンのピアノ協奏曲をどう解釈して弾いているのか、勉強をした。
ひとつ、気づいたことがあった。
彼は、スタカートをとても大事に弾いていた。
大事に、というのはすこしちがうかな。スタカートの音の粒を揃え、裏拍のリズムを取ることを、ごく自然に弾いていた。
そうか、裏拍を意識して楽しめばいいのか。発見になった。
そうだよな、ベートーベンといえば、裏拍だ。あらためて認識させられる。

あまりに繰り返して観ていたから、VHSのテープは、やがてくしゃくしゃに絡まって再生不可能になってしまった。
でも、私はしっかりと彼の演奏と表情を思い出すことができる。
ありありと、鮮明に。
記憶の方が、むしろ豊かに思える。

彼のCDをもう一枚買った。
ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』だ。
まるで水滴が水面にひとつひとつと落ちるような繊細な音色だった。
私は、今度はその音色を真似できないかと試行錯誤した。
音色を真似るのはとても難しい。
指の太さだってちがうし、肩の厚みだってちがう。
とある名ピアニストがいっていた。
「最高に美しいピアニッシモを奏でようと思ったら、フットボール選手のような肩の筋力が必要だ」
私の肩は、薄っぺらい。
なかなか彼の出す音を再現出来ないでいた。

彼がバルトークの録音に力を入れているのを知るのはかなりあとのこと。
彼のCDをコレクションしていたら、バルトークのものが圧倒的に多いのだ。
もちろん、ショパンもモーツァルトも弾く。
彼の弾くラフマニノフのピアノコンチェルトは圧倒的に素晴らしい。
何が素晴らしいって、超絶技巧なのにさらりと弾いているところ。
そして、ロシアの寒々しさを感じさせる厳しい音色。
でも、彼はバルトークの録音に力を注いでいた。
ハンガリー人の血がそうさせるのだろうか。
もちろん、私はバルトークの勉強を始めた。
ハンガリーやルーマニアの民族音楽が、どこか日本人にも通じる旋律で、興味深い。
彼はそれらを懐かしむような、また新しいもののような音色で弾き上げる。
バルトークは旧東欧の民族音楽を熱心に研究し、旅して回っていたそうだが、それだけではない。
きちんとクラシック音楽のコンポーザーとして、ピアノ小曲からオーケストラ曲まで、たくさん作品を残している。
バルトークの民族音楽収集家の側面は、本からでも学ぶことができる。
ピアニストの彼も、同じハンガリー人のバルトークを色々な側面から研究はしていただろう。
でも、小難しい話はいまは関係ない。
バルトーク作の『ルーマニア民族舞曲』という曲が気に入ったので、彼の演奏を真似て練習をした。
彼の演奏は、とにかく速い。よく指が回るものだ、と感心する。
まるでダンスを踊るのを促しているかのようにリズミカルに弾く。

彼がピアニストとして頭角をあらわしたころ、同じ年代の二人のピアニストとくくられ、「ハンガリー人ピアニストの三羽烏」と呼ばれていた。
それぞれ端正なルックスで、国内外から女性ファンが続出したらしい。
ところが、私は彼らのどの来日公演にも行けなかった。
病気に罹患してしまったのだ。
パニック障害という病気で、外出することがままならなくなったのだ。
それまで、私はいつもひとりでコンサートや舞台観劇、美術展などに行って楽しんでいた。
母は「いつもひとりでかわいそうに」といっていたが、私はひとりで行動するのが好きだったので、余計なお世話だった。
でも、ひとりでもふたりでも、何人いても外出することができなくなってしまった。

ハンガリー人のピアニストの、演奏を聴き、CDジャケットの写真を見つめる時間が唯一の癒しだった。
ピアノを弾きすぎると過呼吸になった。
私はそのままピアノから離れ、療養した。
彼の写真を見つめていると、ときどき涙が出た。
音楽は、病気の人の前にも優しく平等だ、と感じたからだ。
美しいピアノの調べ。ハンサムなハンガリー人のピアニスト。
それさえあればいいや、と思っていた。

どこか投げやりに生きていた数十年。私は孤独の中にいた。
音楽だけが、私の生きる支えになっていた。
パニック障害もすっかり良くなり、仕事にも就き、またコンサートへ通えるようにもなっていた。
でも、空虚の中にいた。

そんなある日、新聞であの懐かしいハンガリー人のピアニストが来日することを知った。
そのときは、もうピアニストとしてではなく、指揮者としてオーケストラを率いての来日だった。
私は飛び付くようにして新聞をにらんだ。
チケット発売日をチェックし、カレンダーに書き込んだ。
なんとなく生きていた私に一筋の光が差し込んだ。
初めて彼の存在を知ったのは二十代前半。
数十年たち、私ももうおばさんと呼ばれる歳になっていた。
必然的に彼も白髪頭に出っ張ったお腹、という姿になっていた。
でも、彼への想いは褪せない。
チケットも無事に取れ、コンサートの日まで指折り数えて過ごした。

コンサート当日。
いよいよ彼と会える。胸を躍らせコンサート会場へ向かった。
サントリーホールの周りにはレストランがある。
そこで小腹を満たした。ワインも一杯ひっかけると、気分が浮き浮きとしてきた。
開場時間になり、ホールへ入る。
すでに長テーブルに並べられた彼のCD売り場にはたくさんの人だかり。
私は座席番号を確認して椅子に座る。
ステージにはオーケストラが座る椅子と大きなグランドピアノ。そして、彼が立つ指揮台。
プログラムはリストのピアノ協奏曲とブラームスの交響曲。
購入したパンフレットをぺらぺらとめくる。
彼のインタビューが載っている。
お互い歳を取ってしまったけれど、発信者の彼と受信者の私の立ち位置は変わらない。
胸のときめきも。
彼が生きている時代に生を受けたことを誇らしく思った。
ブザーが鳴り、客席が暗転する。ステージが光を受け、ぼうっと浮かび上がる。
オーケストラ団員が入ってきて席につく。
コンマスがA音を鳴らしチューニングする。
下手の扉が勢いよく開き、夢にまでみた彼が燕尾服で登場した。
にこやかに客席に笑みを向け、一礼する。
大きな拍手。
彼が指揮台に上り、タクトを振る。
演奏が始まった。
彼の指揮は、まるで彼のピアノ演奏を再現したかのようなキレと潔さがそのまま出ている。
終始楽しそうにタクトを振る彼に、私たち観客は魅了されていた。
「楽しい!」
クラシックコンサートで、そんな感動を得たのは初めてのことだった。
彼は最後まで笑顔を絶やさず、ご機嫌に指揮をしていた。
やっと会えた。思い起こせば二十代前半。
ベートーベンのピアノ・ソナタのCDを買ったことで出会った彼。
どんな時も寄り添ってくれた彼のピアノ演奏。
何十年来の片想いを募らせ、やっと会えたのだ。
そして、素晴らしい演奏を贈ってくれた。
ピアニストとしての彼を生で観ることは出来なかったのはすこしばかり悔いが残るけれど、でもじゅうぶんだった。
「ありがとう」
私は心の中でつぶやいていた。

その二年後、彼は心臓病で亡くなった。
まだ六十四歳だった。

彼の名は、ゾルタン・コチシュ。
あなたのことを、いつまでも、永遠に恋しつづけるだろう。
だって、伝説になってしまったのだから。

                  完




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?