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小説「庭」58,933文字

奥さまが庭を散策する。
わたしが手入れをした薔薇の花を愛でている。

後ろ姿なので顔はよく見えないが、きっといつもの微笑を口元に浮かべていることだろう。

そうなると、わたしも心が弾む。

わたしが世話をしている大きな薔薇の花冠を指で触る。

あ、いけない! 枝には棘がある! 気をつけて!

脚立の上から声をかける。心の中で。

わたしは庭師。
この邸宅に通うようになり六年になる。
だけれども、わたしなどが奥さまにそう易々と声をかけることはできない。
ただの雇われの身だから。

奥さまは真夏でも長袖を着ていらっしゃる。
もちろん麦わら帽子も。
秋になると長袖のニットを肘まで捲っていることがある。奥さまの真っ白な肌はつるりとした陶器のようだ。
穢れというものが一切ない。

きょうはとくに暑い。
最近の気候は異常気象で、五月に入ったばかりだというのに、もうこの暑さだ。
わたしの背中や額からも汗が吹き出る。

わたしの手。土で汚れたみすぼらしい手。
お嬢さまの頭を撫でたいが、お嬢さまが汚れてしまうので、それも叶わない。
わたしがまだこの邸宅に来たばかりのころはお身体より大きいのではないかというランドセルを背負っていらっしゃったが、いまやお嬢さまもセーラー服の中学生だ。
ピアノがお得意で、近所のピアノ教室に通っていらっしゃる。

「野辺、その薔薇はなんていう名前なの?」
お嬢さまはときどきわたしの仕事を覗きにいらっしゃる。

「これはアプリコットキャンディという名前の薔薇でございます」

「色が可愛らしいわね」そのオレンジ色の花にお顔を近づけ、匂いを嗅ぐ。頬のそばかすとつんと上を向いた鼻先はお小さい頃からなんら変わらない。

「お部屋にお飾りになりますか?」
わたしがそういうと、「うん!」とはっきりうなずく。

「それでは恐れ入りますが花瓶をお持ちになってきてください。薔薇には棘があり、危ないものですから」

「わかったわ」
お嬢さまは身軽に踵を返す。

その間にわたしは五分咲きの薔薇を選んで鋏で切る。

お嬢さまはものの数分で戻ってこられた。無色透明の切子の花瓶を抱え、息を切らしている。「持ってきたわよ」

わたしはお嬢さまから花瓶をうけとり、ホースで水を入れ、バケツで薔薇の枝先を水切りしてから刺し入れた。花の開き具合から、どこからみても薔薇の花が正面を向くように手を入れ飾った。
「はい。できました。すこし重いですからお気をつけてお持ちになってください。水替えは二日に一度でお願いします」

お嬢さまに手渡すと、「ありがとう、野辺」と花瓶を胸に抱き抱え、慎重に歩きながら玄関から中に入っていった。

この家にはお子さまは一人しかいない。
旦那さまは会社の経営をされているということで忙しく、ほとんど家にはいらっしゃらない。
だから、わたしが奥さまとお嬢さまをお守りしている。
何からか? と問われても、わたしにもよくわからない。
とにかくお二人に降りかかる災厄からだ、と答えておく。

それにしても、この邸宅の庭は広い。二百坪くらいだろうか。あるいはもっとあるかもしれない。
南西の角地に屋敷があり、庭は主に南側に広がっているから、太陽の恵みがたくさん降り注ぐ。
メインのアーチは南角に東西に抜けるように配置してある。

この一角はそれぞれに贅を凝らしたお屋敷が多い高級住宅街だ。
子馬くらいの犬を散歩させている人もいる。

わたしは毎日軽トラックを運転して家から通う。
隣のそのまた隣の区の、下町のアパートがわたしの住まいだ。
わたしの部屋の大きさは、この邸宅のキッチンにも満たないだろう。

わたしは庭師なのでこの家のなかに上がることはほとんどない。
一度、キッチンの排水口が詰まってしまったとき、奥さまがとても困られていたので、わたしが修理を買ってでた。

家の中は宮殿のようで、天井が高く、ダイニングにはとても大きなシャンデリアがぶら下がっていた。

真夏で、キッチンの排水口からはなまものが腐ったような臭いが立ち込めていた。

しかし、ヌメリが溜まったのが原因で、手を突っ込んで磨くと、すぐに水が流れるようになった。
お手伝いさんが流行り病で二週間、入院されていたときのことだった。

わたしは朝十時に仕事に就き、夕方の五時には邸宅を後にする。

昼は自分で作ったおにぎりを食べ、水筒のお茶を飲む。
三時になると奥さまが紅茶を淹れてだしてくださる。いつもお菓子をつけて。

庭に置かれた鋳物のテーブルセットに座り、わたしは紅茶を啜る。自分で手掛けた庭を眺めて。至福のひとときだ。

春と秋に薔薇は咲く。わたしの腕の見せ所だ。
とくに五月は薔薇たちが満開になる。二番花、三番花の薔薇はもうすこし長く楽しめる。花冠は小さくなるが。

わたしは午前中にたっぷりと水をやり、「花がら摘み」をする。
満開を終え、古く傷んだ「花がら」をこまめに切る。すると他の蕾たちが今度は自分の番だと咲き誇る。
花が終わった枝はばっさりと切ることも重要だ。新しい枝を伸ばし、二番花や三番花を楽しんでいただくためにも。

それに黒星病やうどんこ病からも守ってあげないとならないから消毒の薬剤を散布することもも欠かせない。あと、活性剤も忘れてはならない。

ここの庭の薔薇は、前任者がさまざまな種類のものを植えていったので、保持するのが大変だ。
ときには新しい苗を植えることもある。
木立ち性の新種の薔薇だ。
鉢で育て、庭に植え付ける。
根を張り、枝がぐんぐん伸びる。シュート(勢いのある枝)の先端を摘み取る。伸びすぎたシュートは遠慮なく切り戻す。こうして高さと花数を調節する。

奥さまが薔薇のアーチをゆっくりとくぐられる。
きょうは晴れてよかった。五月晴れだ。
雨が降ると、奥さまは外にお出にならない。
三時の紅茶もお手伝いさんが持ってくる。
奥さまが持ってこられるときは、わたしに必ず言葉を掛けてくださる。

「きょうもご苦労様。見事な薔薇だわ」

わたしは「ありがとうございます」と返す。
奥さまの微笑みが美しい。あまりに眩しいから直視できない。
わたしのためにテーブルセットにパラソルを差してくださった。
お美しいだけでなく、お優しい。

お嬢さまが弾くピアノの音が漏れ聴こえてくる。
わたしには誰の何ていう曲なのかはさっぱりわからないが、お嬢さまの演奏は素晴らしい。
音が花弁に光る水滴のように瑞々しい。
お嬢さまの若さそのものなのだ。

そんな演奏を聴きながら作業をしていると、ふとわたしもここの家の住人になった気分になる。
いささか図々しいな、と我に帰る。

「野辺」
背中から声が降る。ふりかえると奥さまが庭に立っておられた。

「はい、なんでごさいましょう」わたしは答える。努めてにこやかに。

「薔薇展が三越デパートの屋上で開催されているのだけども、もう行かれたかしら」

「はい、先々週末に行ってまいりました」

「どうだった? 素直な感想を聞かせて」

「ええと、そうですね。新種がいくつか出ておりました。規模が小さいもので、観て回るのにそうたいした時間は要しませんでした」

「そう。その新種というのは珍しいものだったのかしら」

「いえ、そこまで斬新なものではありませんでした。この庭の薔薇にもここ数年のうちに出てまいりました新種がございますので、充分それで楽しめるとは思います」

「そうね。ここにあるすべての薔薇も把握できないものね。さらに新種を植える必要もないわよね」

「はい。わたしもそう存じます」

「じゃあデパートにわざわざ行くのはやめておくわ」
奥さまはふんわりとした笑みを浮かべてお部屋へ上がられた。

お珍しい。わたしなぞとお喋りをしていただけるなんて。恐縮してしまう。だが、嬉しいものだ。

しかし考える。滅多にお出掛けにならない奥さまのせっかくの外出の機会をわたしの発言で奪ってしまったのではないだろうか。
少々焦りが襲う。
三時のお茶を出していただくときに、提案してみよう。お出掛けになられてはいかがかと。

ところがその日、三時に紅茶を持ってきたのはお手伝いさんだった。
わたしは面食らった。お手伝いさんに思いきって訊いてみた。
「奥さまはお忙しいのですか」
「いえ、そうではございませんが······」
なにやら歯切れが悪い。
「どうされたのですか」
お手伝いさんは前掛けを握り、もじもじとしていた。
「それが······、目眩を起こされて、いま横になられております」
目眩? なにかの病気の予兆なのではないだろうか。
「大丈夫ですか? 病院に行かれた方がよろしいのでは」
「はい、わたくしもそう申し上げたのですが、しばらく横になれば治るから、とおっしゃるので」


その日は仕事を終えアパートに帰ったが、奥さまのご体調が気になり、休むに休めなかった。
旦那さまが帰っていらしてくれればいいのに、と思ったが、わたしには知るすべもなかった。
まあ、お手伝いさんも一緒に住んでおられるので、わたしの心配も無用か。

翌日軽トラを走らせて邸宅に着くと、わたしはそわそわと窓の中に目を走らせながら仕事をした。
窓の中に人影はない。
といってもリビングとダイニングが庭に面しているのはわかるが、他の寝室などはどこにあるのかわからない。
当然、奥さまのお部屋もどこなのかわからない。
わかることといえば、西南に窓のある二階の広い角部屋がお嬢さまのものであること。よく窓から顔をお出しになり、わたしの仕事ぶりも眺めていることがあるからだ。
そして、ピアノのあるお部屋はそのとなり。
気候の良いときは、美しい旋律が開け放したカーテンをくぐり流れてくる。細くて頼りなげな指で音を奏でるのだ。
中学生に上がられたら、お嬢さまもなにか部活動を始めるものだと勝手に思っていたのだが、毎日三時半には雇われている運転手の車でお帰りになるので、とくに部活動はされていないようだ。
週に一度、歩いてピアノ教室まで通われる。
ピアノを弾かれないときは、庭を歩き回り、わたしにも親しく話しかけてくださる。
こんな中年男とのお喋りのなにが面白いのか、お嬢さまはよくお笑いになる。
奥さまによく似て、お美しい。

午後一時になると食料品がバンで届く。
だいたい週に二回届くだろうか。旦那さまがお帰りになられると週に三回になる。
玄関に紙袋二つの食料を、エプロンをした男性が運び込む。
紙袋の中には生鮮品の他に、お菓子もある。おそらく三時に出してくださるお菓子も入っているのだろうが、お嬢さまのおやつも一緒に届く。
ときにお嬢さまお気に入りのチョコレートが入っていると、嬉しさが余り、わたしにまで渡してくださる。

「あのね、このチョコレートはリンドールっていって、とっても特別なチョコレートなのよ。美味しいから野辺も食べて」

「わたしにまで。恐れ入ります。いただきます」
わたしはポケットにしまう。

するとお嬢さまはこうおっしゃるのだ。
「どうして食べてくれないの」

「いえ、お家に帰ってゆっくりといただこうかと」

「いますぐ食べて。溶けちゃうでしょ。とっても柔らかいチョコレートなのよ。ねえ、食べて」

「はい、かしこまりました」
わたしは手袋をとり、指をタオルで拭うと、少し大きめの真ん丸のチョコレートを紙から外し、口に放り込んだ。
「ほんとうですねえ。とても柔らかい。中に入っているクリームはなんでしょうか」

「なんだか当ててみて」お嬢さまはくすくすとお笑いになる。お嬢さまが破顔されると頬にえくぼができて可愛らしい。

「難しいですねえ。わたしの知っている食べ物でしょうか」

「たぶんね。野辺は甘いものが好きだから、おそらく食べたことはあるはずよ」

わたしはチョコレートを舌の上で溶かし、鼻で呼吸をしてみた。そうすると味がよくわかるのだ。
ぷん、とチーズの香りが鼻をついた。
「わかりました。チーズですね」

お嬢さまは手を叩いた。
「すごい! 当たりよ! チーズケーキなの。野辺、すごいわ!」

「チーズケーキ味ですか。またお珍しいチョコレートですね」

「美味しかった?」

「はい、とっても」

「じゃあ、また明日もあげるわね」

「それではお嬢さまの分がなくなってしまいます」

「いいの、たくさんあるし、一緒に分かち合ってくれる人がいる方が嬉しいもの」

「ありがとうございます」
お嬢さまはお優しい。眩しく思うと同時に、一人っ子の孤独を知った。わたしは目一杯の笑顔をお嬢さまに向けた。

話を戻すと、三時の紅茶はお手伝いさんが持ってあらわれた。

「奥さまのご体調はいかがですか」

「ええ、それがまだベッドから出られないのです」
お手伝いさんはまたも前掛けで手を揉んでいた。

「やはり病院へ行かれた方が」

「はい、何度申し上げても行きたくないの一点張りでして」

「お食事は?」

「あまり召し上がりません」

「旦那さまはいつお戻りになられますか」

「おそらく明後日には」

「そうですか。それまでには良くなられているといいのですが」

「そうですねえ」
お手伝いさんも困り顔だ。

その日は庭に消毒薬を撒いて仕事を切り上げた。
奥さまのことが心配だったが、わたしがでしゃばることではなかった。

翌日、邸宅に赴くと、お手伝いさんが待ってましたとばかりに庭へ出てきた。
「野辺さん、奥さまが」顔が青ざめている。

「奥さまが、いかがされたのですか」緊張が走る。

「朝食をお戻しになって、ぐったりとなさっていて」

「いまは?」

「ソファで横になられております」

「上がってもよろしいでしょうか」

「はい、お願いします」
男手がないからお手伝いさんも不安なのだろう。

わたしは玄関で靴を脱ぎ、お手伝いさんが差し出してくれたスリッパを履いてリビングへ通じるドアを開けた。
ソファでタオルケットを胸まで掛けている奥さまが蒼白な顔をして横になっておられた。

「奥さま、差し出がましいでしょうが、どうか病院へ行かれてください」

奥さまは返事をする代わりにお辛そうな唸り声をあげた。

「奥さま野辺さんのおっしゃる通りです。どうか病院へ」お手伝いさんも加勢した。

「車は呼べばどれくらいで来られそうですか」わたしはお手伝いさんに訊いた。
「十五分くらいで」

「すぐに呼んでください」

「はい」
お手伝いさんはポケットから携帯電話を取り出し、電話をかけた。短い言葉で要件を伝え、通話を切った。
「奥さま、いま運転手がお迎えにまいります。病院へ行かれてください」

「いいの、だいじょうぶよ」

「よろしくはありません。お食事をお戻しになられたそうですね。目眩とも関係があるかもしれません。車も呼びました。病院にまいりましょう」
行きたくないのをそうですか、で終わらせるわけにはいかない。

「もう、みんな心配性ね。わかったわ、保険証をとってくるわ」

「わたくしが持ってまいりますので、どこにあるのかを教えていただけますか」お手伝いさんがいう。

「寝室のチェストの一番上の引き出しの中よ。赤いファスナーのポーチに入っているからポーチごとお願い。あ、それとヴィトンのバッグも。お財布がいるでしょ」

「わかりました。すぐにお持ちします」

お手伝いさんが二階へ上がると、わたしはキッチンへ行き、ハンドソープで手をごしごしと洗った。
それからリビングへ戻ると、そこに奥さまの姿はなかった。
どこかからえずく声が漏れている。おそらくトイレで吐いているのだ。
しばらく待っていると、奥さまがふらふらとした足取りでリビングに入ってこられた。

「またお吐きになったのですか」

「もうなにも出てはこないの」

「すぐにお車がまいりますので、それまで横になられててください」

「ありがとう、野辺」

「いえ」奥さまのお言葉で、わたしは生活に入り込んでしまった気恥ずかしさを覚えた。

お手伝いさんが戻ってくると、バッグとポーチを手渡した。
「これでよろしいでしょうか」

「ええ、ありがとう」

また吐かれたことをお手伝いさんに報告すべきか考えているところで、インターホンが鳴り、車が到着したことを告げた。

「では、奥さま、まいりましょう」

「よろしくお願いいたします」お手伝いさんの顔も病人のように青白かった。

「奥さま、ゆっくりお立ちになられてください」

奥さまはお立ちになり、足を踏み出そうとされたところでよろめいた。
すかさずわたしが身体を受け止めた。シャンプーか香水か、とてもいい匂いが漂ってきた。それに引き換えわたしは汗臭い。すこし気後れをした。

「ごめんなさいね」奥さまのお顔が近い。さらに恥ずかしくなる。

「靴は踵が低い方がよろしいですね」玄関に行くと、すこしヒールの高い靴が一足出ていた。お手伝いさんに頼んで底がフラットな靴を出してもらった。
玄関から出ると、門には運転手付きの黒い車が横付けされていた。

「奥さま、歩けますか」

「日差しが眩しいわ」奥さまは顔をしかめられた。

「お車までですので」
日傘を持ってきた方がよかったのだろうか。しかし、わたしは気持ちが急いていた。一刻も早く奥さまを病院にお連れしないとならない。その使命感だけがわたしを奮い立たせていた。

奥さまを抱えるようにして車まで運んだ。
運転手は後部座席のドアを開け、奥さまの身体をわたしから引き取った。

「あとはよろしくお願いいたします」わたしが運転手に声をかけると、運転手は緊張気味に「はい」と短く答えた。

そのとき、「野辺」という奥さまの細い声が聞こえてきた。

わたしは車に首を突っ込み「なんでしょうか」と訊いた。

「一緒に来てくださる?」

思いがけない言葉だった。しかし、わたしは咄嗟に「わかりました、まいります」と、奥さまのとなりに乗り込んだ。
なぜわたしなどをとなりに従えさせたのだろうか。運転手で事足りるだろう。考えるが、あまり深い意味などないのだろうと思い至った。

「ご気分はいかがですか」車に揺られながらわたしが問う。

背もたれに深く腰掛けた奥さまが顔を歪める。
「気持ちが悪いわ。吐きそう」

「ビニール袋かなにかありますか」わたしは運転手に話し掛けた。
運転手は「これでよろしければ」といってコンビニのレジ袋を後ろへ差し出した。
運転手は真っ白い手袋をはめていた。まるで洗いたてのような。それがわたしの心を不安にさせた。ハンドソープでごしごし洗ったとはいえ、とてもじゃないがわたしの手は奇麗じゃない。泥が染み込んでいる茶色い手だ。やはり車に同乗したのは間違いだったか。わたしは後悔した。

運転手から受け取ったレジ袋を広げ、奥さまに手渡した。
「ありがとう」といったが、奥さまはレジ袋を手に握りしめているだけだ。吐くのではなかったか。我々のことを気にされているのか。

「奥さま、わたしどものことならお気になさらず、どうぞ」
そういうと、運転手がルームミラー越しに「背中を擦られては」と機転を利かせた。
そうか、とわたしは「失礼します」と奥さまの背中に手を当てた。

「大丈夫よ。吐かないわ」と奥さまは青白いお顔をわたしにお向けになった。

身をよじったので、わたしは奥さまが触られることを嫌がったのではないかと懸念した。
だから「申し訳ありません」と謝った。

「頭が痛いわ」そうおっしゃったきり、奥さまはぽうっとした顔で窓の外を見ていらした。
やはりわたしなど付いてきてよかったのかと心配になった。

いつもなにかあれば通っているという大学病院の車寄せに到着すると、わたしは奥さまを抱え車を降りた。ああ、汗臭くて余計に気分がお悪くならないといいが。

お手伝いさんから連絡が入っていたのか、玄関で看護師が車椅子を手にし、奥さまの名を呼んだ。
「お乗りください。先生もお待ちになっております」
奥さまが車椅子に座ると、看護師はわたしを胡散臭そうに見て、「付き添いの方ですか」と尋ねた。

「そうよ」奥さまが小さくお答えになった。

「失礼しました。こちらへどうぞ」看護師は車椅子をくるりと回し、奥さまを中に運んだ。

病院は近代的で広く、長いエスカレーターが中央に設置されてあった。病院の事務員や患者で混雑しており、一階は騒がしかった。看護師はそれらの人の間を縫うように進み、エレベーター乗り場まで奥さまを連れていった。
車椅子優先のエレベーターの前で扉が開くまで待つ。
そのとき、杖をついた老婆がわたしに声をかけてきた。
「コンビニはどこですか?」
わたしをここの掃除夫かなにかと間違えたのだろう。
「わたしはここの人間ではないので」
そういおうとした。すると、奥さまの車椅子を押していた看護師が「この通路をまっすぐ進んで採血室を左に曲がった行き当たりにATMがあります。その右奥です」と早口でいった。
「ええっと、まっすぐ進んで······」
「採血室があります。そこを左に」
エレベーターが開いた。看護師は延長のボタンを押した。
「左に曲がって······」
わたしが場所を知ってさえいたらさっさと案内してあげられたのに。わたしは焦っていた。
「行き当たりに、ATMがあります。その右奥です」
老婆は「どうもありがとう」と頭を下げてゆっくりと歩いていった。
どうやらこの病院は巨大で複雑なようだ。
やっとエレベーターに乗り込む。ここのエレベーターは広い。

わたしの母が亡くなったときのことを思い出す。ここまで大きな病院ではなく、小さな総合病院だったが、ストレッチャーで運ばれエレベーターに乗り込むところがわたしが見た母の生きていた最期の姿だった。
母は家の前で、かなりスピードを出していた自転車に撥ねられ、たまたまわたしが帰っていたので救急車を呼んだ。自転車の少年はヘルメットも被っておらず、片手に携帯電話を持っていた。茫然と立つ少年に、わたしは「警察を呼んだから、正直に話しなさい」といった。やがてパトカーが赤色灯をちかちかと光らせやってきた。わたしは少年の身柄を警察官に託した。
救急車には一緒に乗り込んだが、病院の前で降りたら途端に邪険にされた。
背も低く細い母は数メートル撥ね飛ばされ、固い地面に全身を強く打った。頭や鼻からは血を流していた。
エレベーターは狭く、がたいの大きいわたしは乗りきれなかったので、もう一基のエレベーターを待った。とても長い時間に感じた。実際一階に降りてくるまで、何階にも止まり、じれったかった。
そしてようやくエレベーターに乗ることができて二階の手術室の前に辿り着いたときには、母はもう旅立っていた。ちょうど二十年前。わたしが高校三年生の夏休みのことだ。
父親のいない家に育ったわたしは、孤独になった。父親はわたしが幼い頃に亡くなっていた。母の話では、賭け事に大負けし、やけになり電車に飛び込んで死んだらしい。本当のところはどうだか怪しいが。いや、母親の話を信じていないわけではない。ただ、母はときどき妄想を逞しくさせる癖がある。母は、泣かなかったことを後々まで語っていた。「ばかなのよ」よくそういっていたのを覚えている。
そんなばかの背中を追い、父親と同じ造園業の仕事に就いたわたしは、とにかく真面目に働くことを心掛けた。いつかは結婚もするだろうと思っていたが、結局いまのいままで嫁を娶ることはしなかった。交際した女性がいなかったわけではないが、縁に恵まれなかったのだろう。それでも、あんな立派な邸宅で仕事ができることは幸せだと思っていた。

エレベーターを降りると「ここでお待ちください」と看護師は壁際のベンチを手で示した。
『脳神経外科』の看板が受付けに掛かっている。
奥さまの乗られた車椅子を看護師が押し、診察室の中へ入っていった。
わたしはベンチに座った。ベンチに座っているのはわたしだけではなかった。患者であろう比較的高齢の男女が何人か物静かに座って順番を待っていた。

それからどれだけ時間が経っただろうか。十分にも思えたし、三十分にも思えた。わたしは出てきた看護師に呼ばれた。
「中へどうぞ」
「はい」わたしは緊張で怖い顔になっていたかもしれない。看護師はわたしの頭から爪先までを舐めるように見た。

診察室に入ると、診察台に奥さまが横になられていた。
医師がわたしをやはり値踏みするように見ていた。
「あなたはこの方の······」

「はい、庭師です。旦那さまが出張でおられないので、男手がなく、わたしが付き添いを奥さまに頼まれました」

「ご家族は他には?」

「はい、中学生のお嬢さまと、住み込みのお手伝いさんがおります」

「そうですか。では、良く聞いてご家族とお手伝いさんに伝えてください。検査のために数日入院してもらいます。目眩や吐き気は脳の異常からくることがあります。それを突き止めるための検査です。なにもなければ三日程で退院できるでしょう。ですので、着替えなどの用意はとりあえず下着だけお願いします。あと、洗面用具など身の回りのものを用意していただけますか」

医師が早口で捲し立てるようにいうので、わたしは「はあ」とため息のような返事をした。それが頼りなげに見えたのだろう。
「しっかりとお伝えくださいね」と念を押された。

わたしは駐車場に待たせていた運転手の乗る黒い車を探した。
大きな車なのですぐに見つかった。
わたしがしょげかえっているのを見て、運転手は心配そうにいった。
「奥さま、悪いのですか?」

「いえ、悪いものがあるのかないのかの検査のための入院をすることになりました」

「入院? それはお嬢さまが心配なさるでしょうね」

「そこなんですよ。わたしが考えているのは。お嬢さまになんてお伝えしようかと」

「そうですねえ」
運転手は精算機で駐車代を支払い、病院から車をだした。
帰り道、運転手とわたしははお嬢さまにどう伝えるのかに心を砕いていた。

「あくまでも検査入院ですからねえ、深刻にならないようにお話ししないと」すこし興奮気味に運転手がいう。

「はい。ですが、すぐにお戻りになると説明した後に奥さまになにか良からぬものが見つかりでもしたら······」

「とにかく、お嬢さまを学校からお連れして、落ち着いて話さないといけませんねえ」

「お一人では心細いので、旦那さまにもお早く帰っていただきましょう」

わたしたちが邸宅へ到着すると、お手伝いさんが遅いとばかりに玄関へでてきた。
事情を説明すると、「ああ、奥さま」とよろめいた。

「まあ、まだご病気とわかったわけではないので」すかさずわたしはそういった。

「そうね。そうですよね」とこめかみに垂れたほつれ毛を手で撫でつけた。

わたしは庭の仕事に戻り、運転手はお嬢さまを学校に迎えに行くために車の中で時間を潰していた。

庭の薔薇はいまが満開で、それぞれが主張をするように咲き誇っていた。
終わった花がらを摘む。蕾が次から次へと出てくる。むせ返るような薔薇の香りが庭中に充満している。
「奥さま······」わたしは無意識に呟いていた。
花の中央で小振りな蜜蜂が蜜を吸っている。わたしはそれをぼうっと見つめていた。

「野辺さん、三時のお茶をどうぞ」振り返るとお手伝いさんが紅茶のセットをトレイに乗せて庭にでていた。
もうそんな時間か。とわたしはほとんど仕事をしていないことに気づいた。

「旦那さまに連絡がつきました。予定どおり、明日お帰りになるそうです」

「そうですか。お嬢さまの傍にいてほしいのですが」
紅茶を飲み終わる頃にお嬢さまは学校からお帰りになる。そして屈託なくわたしに話しかけるのだ。わたしは頭を抱え込んだ。もう運転手からあらかた聞いているだろうか。ショックを受けてはいらっしゃらないだろうか。

お手伝いさんがお茶のセットを下げにきたところで、お嬢さまを乗せた車は門に着いた。
降りてきたお嬢さまは門を開けるなりわたしに飛びついてきた。

「野辺、お母さまは病気になってしまったの?」
涙ぐんでいる。運転手はなにをどう伝えたのだろうか。

「いえ、ご体調がすぐれないので、どこかお悪いところはないか調べられるとのことです。ご病気と決まったわけではございません」

「でも、入院って······」

「検査入院でございます。早ければ三日でお戻りになります」

「野辺、お母さまが死んじゃったらどうしよう」
そういってお嬢さまは両手で目を覆われた。

わたしは手袋をとり、腰のタオルで両手を拭い、その手をお嬢さまの華奢な肩に乗せた。

「そんなことになるはずはございません。きっと、過労からくるものでしょう。ご心配ありません」

「ほんとに?」涙を目に溜めたお嬢さまはわたしを見上げる。

「はい。おそらくは」

「そうなのね。野辺がそういうなら信じるわ」

そんなに気安く答えてしまって、もしも奥さまになにかよくないものが見つかったときには、わたしはお嬢さまにどんな顔を向けたらいいのだろうか。しかし、いまはお嬢さまを怯えさせるような言動は慎むべきだ。そのことはお手伝いさんと運転手とも共有すべきだと思った。
とにかく明日には旦那さまがお帰りになる。
ご指示を仰ごう。

その日、わたしはお手伝いさんから預かった下着と奥さまの洗面用具を入れた紙袋を持ち、軽トラックでもう一度病院へと向かった。
病院に着くと、受付に奥さまの名前を告げ、どこに入院されたのかを聞いた。教わったとおり四階の脳神経外科のナースステーションに声をかけた。奥さまの名前を告げ、頼まれたものを持参した旨を伝えると、「お預かりします。ご苦労様でした」といわれ、急かすように帰らされた。

家に帰ったわたしは、いまごろ一人きりで食事をされているお嬢さまのことを考えた。
わたしは一人は慣れているので、もうなんとも思わないが、お嬢さまはお一人での食事などこれまで経験されたことがないだろう。どれだけ不安な思いを小さな胸に宿しているか、考えただけでも心が苦しくなった。

翌日、十時に邸宅へ向かった。着くと、わたしはいまが盛りと咲き誇っている薔薇たちに水を撒いた。鼻孔を通り脳にまでその香りが纏わりつく。
木立性の薔薇の枯れた花がらを摘み伸びた枝を切り返す。庭中の薔薇を手入れするのでそれだけで一日が終わる。アーチのつる性の薔薇は枝を麻紐で誘引し固定しているので、咲き終わった花は散るに任せる。
以前、奥さまがアーチで咲かせている「アミ ロマンティカ」という品種の薔薇をお好きだとおっしゃっていた。だから、わたしはこの花を余計に手をかけて育てている。浅いカップ咲きで花弁は外側の淡いピンクから中央にかけて濃いピンクになっている。この花はやや小振りになるが秋も楽しめるので、奥さまもにこやかにアーチをお通りになる。

お手伝いさんが三時の紅茶を持ってきてくれたとき、旦那さまがもうすぐお帰りになるといった。
付き添って医師の説明を聞いたわたしにも話があるというので、きょうは予定を変更して居残ることにした。

お嬢さまが透き通るような真っ白な肌に真っ白のワンピース姿で庭にあらわれた。まるで妖精のようだ。
「野辺、もうお父さまが帰ってくるんですって」

「そのようでございますね」

「野辺も家族会議に参加するの?」

「はい。なんのお力にもなれないとは思いますが」

「お母さま、なんともないわよね」真剣な眼差しをわたしに向けられた。

「そう願いましょう」嘘はつけない。だからそういった。
「また、薔薇をお部屋に飾られますか」

「ううん、いまはいいわ」
お嬢さまは伏し目になり、呟いた。

五時になり、旦那さまがご帰還した。
ひどく憔悴されたご様子だった。
着て帰られたスーツもそのままに、リビングのソファに座っていた。
わたしと運転手、お手伝いさんが集められた。
そこにお嬢さまはいらっしゃらなかった。部屋にいることを命じられたのだろう。きっと不安にちがいない。

旦那さまはお手伝いさんに、まず最近の様子を訊いていた。
お手伝いさんは「一、二度食事を戻されました。頭が痛いとおっしゃっていました」と答えた。

「他には?」

「いえ、他にはとくにこれということもなく、天気のいい日は庭を散策されておりました」

「野辺、君が病院に付き添ったそうだな。医師の見解を聞かせてくれ」

「はい、わたしはあくまでも付き添い人なので、細かいことは聞きだせませんでしたが、めまいも頭痛も脳からくる可能性もあるので、三日ほど検査入院が必要だと伺い、着替えなどの身の回りのものを持っていきました」

「そうか。ご苦労」
それから旦那さまは運転手に向き直った。
「娘にはいつも通りに接してくれ」と声のトーンを落とした。

「かしこまりました」運転手は固い声でいった。

「しばらく出張は控えるが、娘の日常を壊さないためにも、いつもと変わらぬ態度で過ごしてくれ。わたしも明日病院へ行く。今後の指示を待っていてくれたまえ」

「はい」わたしたちは声を揃えた。

土日に入り、わたしは身体を休ませた。アパートは狭いが、色々あったことで、馴染んだ景色に安堵する自分がいた。
また、逆にお嬢さまのことを考えると気が気ではなかった。
飛んでいって慰めてあげたいが、わたしごときが出る幕でもないことは重々承知していた。
旦那さまと久しぶりに会われて、すこしはお気持ちが晴れたと思いたい。

週が明け、月曜日に邸宅へ向かった。わたしの心は急いていた。
奥さまの検査結果がわかる日だ。
軽トラックを門の横につけ、剪定鋏などが入った腰ベルトを装着し、邸内に足を踏み入れた。
薔薇たちの勢いは未だ衰えず、次から次へと新しい蕾が膨らんでいた。
このシーズンはやることは毎日同じだ。水を撒き、花がら摘みに枝の切り戻し。ここのところ日差しが強いから花弁が焼け、枯れるのも早い。
しかし、いくら世話をしても愛でてくれる奥さまはいまはここにはいない。
わたしは自然とのらりくらりとした作業をしていた。
正午になりテーブルセットで手弁当を食べる。食欲がない。早く奥さまの検査結果を知りたい。そればかりが頭をよぎる。わたしはおにぎりをひとつ残した。
いけない、わたしがこんな調子だったらお嬢さまが心細くなってしまう。
わたしは自分を奮い立たせ、軽トラックの荷台から脚立を持ってきた。
奥さまがいつお戻りになってもいいように、薔薇だけは咲かせていなくてはならない。

午後二時頃旦那さまは病院からお帰りになった。とても神妙な面持ちだ。運転手とわたしも家へ上がるように命じられた。
わたしは腰ベルトを外し、手袋も取り、庭の水道の蛇口で手をごしごしと洗った。

リビングに集められたわたしたちは、ソファに腰掛けた。
お手伝いさんが「いまお茶を淹れますので」というと、旦那さまはそれを手で制した。

「お茶を飲んでいる暇はない。娘が帰ってくる前に話し終えなければならない。それはなにかというとだ······」

場に緊張が走った。
お手伝いさんが前掛けで手を揉んでいる。運転手は真っ白な手袋の指を組んでいて、指を落ち着きなく動かしている。わたしの心臓は破れんばかりに脈打っている。
旦那さまが続けられた。

「妻は、脳腫瘍とのことだ。とても難しい場所に大きな腫瘍があるので、手術ではとれないらしい。抗がん剤治療を受けることは受けるが、医師の見立てでは、持って余命一年だそうだ」

余命が、一年。
その場の全員が凍りついたように静まった。

「いいか、娘には悟られないように充分に気を使うこと。いや、気を使うとかえって怪しまれる。自然体で、接してくれ」

「はい」我々はうなずいた。

「では、娘を迎えに行ってくれ」旦那さまは運転手に声をかけた。

「かしこまりました。でも、奥さまのことを訊かれたらなんとお答えすればいいのでしょうか」

旦那さまはこめかみを掻き、しばらく悩まれた。
それからこういった。
「入院は体を強くするためだ。それにはしばらくかかる、とでもいってくれ」
奥さまはもともとお体が強くない。すぐに調子を悪くされ寝込んでしまう。そういうのも納得がいくのだろう。
「あとは各自よろしくたのむ」
といって旦那さまはリビングを後にされた。

我々は各々立ち上がり、仕事場に戻った。

門扉に手をかけ、運転手はわたしに向かい「なんだか自信がありません」と吐露して車に乗り込んだ。

それにしても、余命が一年とは。信じがたいことだった。
まだお若い(わたしよりは年上だろうが)奥さまの残された時間がたったそれだけなんて。
来年の春の薔薇の盛りを奥さまはその目で見られるのだろうか。
考えるとぞっとした。

三時にお手伝いさんが紅茶を持って庭へでてきた。
「わたしはまだ信じられません。お嬢さまを遺して、そんなこと。あってはなりません」
彼女はそういって首をしきりに横に振った。

「まあ、医師のいうことも外れるときがあるでしょうから、一年などというのもあてにはなりません。もっと長生きされるかもしれませんし、とにかく希望を持ちましょう」

「そうですね。野辺さんのいわれる通りだわ。希望を持ちましょう」

学校から帰られたお嬢さまは、門扉を開けるなりわたしに飛びかかってきた。
「野辺、お母さま、死んじゃうの?」
目に涙を溜めておられる。まったく、前回同様運転手はなにをどう話をしたのか。

「いえ、すこし養生されるだけですよ。奥さまはお元気です」

「ほんとう?」お嬢さまはわたしを見上げ、小首を傾げる。

「はい。本当です」

「そう。それならいいんだけど······」

「さあ、お着替えをなさっておやつを召し上がってください」

「うん······」お嬢さまは地面をローファーの先でこんこんと蹴っている。

「そうだ!」わたしは声のトーンを上げた。「奥さまのお好きなベートーベンのあの曲を練習されてはいかがでしょう。奥さまが退院なさるまでに弾けるようになっておくのも楽しみではないですか?」

お嬢さまの顔がぱあっと明るくなった。
「月光ね!」

「はい、それでございます」

「うん、そうする! 野辺、練習するから聴いてて」

「はい、かしこまりました」

いつだったか、お嬢さまがその曲を練習なさっているときに、庭にでていた奥さまが「あら、ベートーベンの月光の第一楽章だわ。あの子、やっとソナチネを終えてソナタまでこれたのね」とおっしゃっていた。それからお嬢さまがその曲をお弾きになると、奥さまは庭の中央に立ち、じっと耳を傾けていたのだ。
お嬢さまはまだ練習しはじめだからか、何度もつまずき、同じ箇所をお弾きになるので、奥さまはもどかしげに「ああ、そうじゃないわ。もっと右手の旋律を浮き上がらせないと」とこぼしていらっしゃった。それで、奥さまにもピアノの心得がおありになるのだと悟った。でも、自らはお教えにならない。あくまでも聴衆に徹する。わたしは奥さま流の子育ての仕方を垣間見た気がした。放任ではなく、見守る、のだ。だからお嬢さまはいつも誰にも臆することなく自由に振る舞われるのだ。

庭に散った薔薇の花弁をほうきで掃いていると、ピアノの音が聴こえてきた。わたしにもよく聴こえるように窓を開け放してくださっている。
ベートーベンの「月光」第一楽章。
わたしもすっかりメロディを覚えてしまった。
しかし、まだ発展途中。よくつかえる。同じところから弾き直す。わたしは心の中でエールを送った。

一時間ほど経っただろうか。わたしも帰る支度をしていると、お嬢さまが庭にでてこられた。
「野辺、聴いてた? 月光」

「はい。ずいぶんと上達されましたねえ」

「またぁ、うそよ。ぜんぜん弾けていないわ」

「いえ、すこしずつ完成に近づかれておりますよ」

「あのね、芸術には完成なんてないの」

「ははあ。まいりました。お嬢さまにはかないません」

「ほんとよ。お母さまがいつかいってたわ」

「そうでございましたか。さすが奥さまですね」
わたしがそういうと、お嬢さまはすこし俯かれた。

「ねえ野辺、お母さま、だいじょうぶよね。すぐによくなるわよね」

「はい。わたしたちはそう願うしかございません。信じましょう」

「うん」お嬢さまは小さくうなずかれた。

「土曜日にね、お父さまが病院に、お母さまのところに連れていってくれるの」

「そうでしたか」

「それでね、薔薇をお母さまに持っていってあげたいの。見繕ってくれる?」

「はい、もちろんです。奥さまのお気に入りの薔薇の花束を作りましょう」

「じゃあ、気をつけて帰ってね。また明日、月光練習するわ」

「ありがとうございます。では、失礼いたします」

お嬢さまは門をでて、わたしが軽トラックを出発させるまで手を振って見送ってくださった。



五月の終わりは主のいない庭を空にするように花を散らしていく。風は容赦なく、薔薇の花弁を落とすのを止めようともしない。
庭のアーチの下に立たれ、降りしきる花びらを浴びて、お嬢さまは涙を流された。

「儚いのね」

わたしは返す言葉もなく、ただお嬢さまの小さなお背中を見守った。

まだまだ二番花を楽しめる時期ではあるので、わたしも手入れに余念がなかった。

花冠も減り、緑が目立つ六月。すこしずつ雨の日が多くなってきた。
わたしは雨合羽を着て、庭の手入れをする。
湿気を好まないグランドピアノが置かれた部屋は窓も閉じ、お嬢さまの弾かれるピアノの音も漏れ聴こえてくる程度になっていた。
お嬢さまは毎日欠かさずピアノの練習をされるので、月光の第一楽章もすっかり上達していた。まだつかえないで通して弾けるわけではないが、旋律を細やかに浮き上がらせて、弾けるようになっていた。
これでもすこしは勉強したのだ。ネットでベートーベンのピアノソナタのCDを買い、コンポで聴いた。とくに月光の第一楽章を。それはもちろんプロの演奏なので、音も太く、途中で弾き直しをすることもなく旋律もしっかり前にでた完成されたものだ。おっと、芸術に完成はないのだった。お嬢さまのお言葉がよみがえる。
奥さまにもお聴かせしたい。お嬢さまの上達ぶりを。頬をゆるめ柔らかい微笑を浮かべられるにちがいない。

奥さまの状態は我々雇われの者たちには伝わってこない。三時になるとパラソルの開いたテーブルセットに紅茶とお菓子を運んでくれるお手伝いさんに尋ねても、なにも知らされていない、と短く答えるだけだ。

毎年四月と十月にホームパーティを開くので、庭にもベンチを幾つも置き、客人たちも薔薇を楽しむ。
それももう催されることはないのか。としんみりとする。
いけないいけない。奥さまのご回復を信じなくては。お嬢さまのためにも。
だから、わたしは余計なことは考えず、薔薇の世話だけをする。追肥をしたり、黒星病やうどんこ病、バラゾウムシなどから守る対策として薬剤を散布する。また、鉢に新しい用土で苗木を植える。根腐れを起こすので水やりは雨に任せている。代わりに根腐れ防止剤を土に混ぜる。
ぽつぽつと三番花が咲いている。小振りな花冠だ。すっかり元気を失くされているお嬢さまのお部屋に飾って差し上げようと、お手伝いさんに花瓶を持ってくるように頼んだ。
お手伝いさんは、切り花を生けた花瓶をお嬢さまのお部屋に飾ってくれた。お嬢さまが帰ってこられたらなんていうだろうか。自然と口角が上がる。
わたしが出された紅茶を飲み終える頃、お嬢さまはお帰りになる。

「お帰りなさいませ」わたしは声をかけた。

「ただいま、野辺」傘を差し、お嬢さまは小さく答えた。

アーチのところで剪定をしていると、お嬢さまが飛び出してこられた。まだ制服のままだ。

「野辺、薔薇を飾ってくれてありがとう!」

「いえ、もう薔薇の季節も終わりますので、記念にと」

「そうなのね。終わっちゃうのね。お母さま、見られなくて残念ね」

「また秋に薔薇は咲きます。春ほどではないですが、庭いっぱいに咲くでしょう。奥さまにまた花束をプレゼントいたしましょう」

「うん! ねえ野辺」

「はい、なんでしょう」

「お父さまが珍しいお菓子を買ってきてくれたの。持ってくるから待ってて」

「はい」わたしは込み上げる笑みを堪えられなかった。お嬢さまは兄弟姉妹がいらっしゃらない。わたしが寂しさの捌け口になっているのなら、それも構わなかった。お嬢さまのためになんでもして差し上げたいと思った。
やがてお嬢さまはシンプルなワンピースにお着替えになって庭へあらわれた。ピンク色の傘を差して。

「はい、これあげるわ」

わたしは手袋をとり、手を腰にぶら下げたタオルでごしごしと拭く。お嬢さまの小さな手から受け取ったのは二つの四角い飴のようなものだった。

「これ、なんだかわかる?」

「飴、ですか?」

ふふん、とお嬢さまはお笑いになる。
「食べてみて」

銀紙を剥くと、四角く白いキャラメルがでてきた。
「キャラメルですね?」

「ただのキャラメルじゃないのよ。いいから食べて」

「はい、では失礼して。いただきます」
キャラメルを口の中に放り込んだ。するとどうだろう。口の中でぐにゃぐにゃに溶け、すぐに消えてなくなった。
「これはなんでございますか?」

「生キャラメルよ。ミルク味の」

「はい、ミルクの風味がとても濃く広がります」

「ねえ、今度の日曜日のお見舞いに持っていこうかどうしようか悩んでるの」

「これなら柔らかいし奥さまも食べやすいと存じます。きっとお喜びになられるでしょう」

「でもね、吐いてばかりいるの。お薬のせいなんだって。お母さま、痩せてきて、苦しそうなの」

「そうでしたか。それはお辛そうですね」

「あとね、お庭の薔薇はどうなったかしょっちゅうわたしに訊くの。もうお花もなくなってきちゃったなんて、いえないわ」

「まだ三番花は咲いておりますよ」

「でも、それが終わっちゃったら?」

「そうですねえ。枝しか残りませんねえ」

「秋には退院できるかしら」

「できますといいのですが。希望を持ちましょう。この雨空のように鬱々としていても仕方ありません。奥さまにキャラメルとお花を持っていって差し上げましょう」

「うん、そうね。ありがとう、野辺」
いまのいままで気づかなかったが、お嬢さまは涙を目に溜めていらした。堪えるのに必死だったようだ。その健気さがわたしの胸をぎゅっと痛く掴んだ。

七月になり、梅雨は明けたが、途端に日差しが強くなった。湿度も高い。古い枝は力を衰えさせ、新しいシュートが伸びてくる。半つる性の薔薇はトレリスやフェンスにシュートを誘引して麻紐で固定する。アーチでも同じことをしなければならないから、この時期わたしは首を痛める。
月に一度病原菌から守る薬剤を散布。大丈夫。予防さえ怠らなければ病気にはならない。ひととおり終えると、その日の作業から上がって帰る支度をする。
お嬢さまはピアノソナタ「月光」の第一楽章を充分に弾きこなせるようになると、次の楽章に移った。第二楽章はとても軽やかな曲だ。また、音取りから始まってゆっくりとしたテンポで全体を弾く。お嬢さまのピアノの上達はわたしの楽しみでもあった。

お嬢さまは附属の幼稚園から小学校、中学、高校、短大までエスカレーター式にあがっていく学校に通われていて、街のあちらこちらから通ってくる生徒が多く、近所にも友達がいらっしゃらないので、学校から帰られると誰かの家に遊びに行くことも、友達が遊びに来ることも滅多にない。
従って、誰かと話したいときは、その誰かはわたしということになる。
奥さまがご病気になられてからというもの、庭以外の場所にでていかれないので、夏休みになっても、浮かれることなく日々を過ごされていた。
ただ、奥さまへのお見舞いの回数が増えたことは喜ぶべきことだった。

「きのう、叔母さまがお見舞いにいらしたの」

「叔母さま、ですか」

「そう、お母さまの妹」

「それはようございました。奥さまも喜んでおいででしたでしょう」

「それがね、二人姉妹なのにあまり仲良くなくて。ぎくしゃくしてたわ」

「そうでしたか」

「わたしの従弟も来たんだけど、まだ五歳でね、わたしのこと砂掛けばばあに似てるっていうのよ。失礼しちゃうわ」

わたしは笑った。
「どうしてそう思われたんでしょうか」

「白くてそばかすがあるからなんじゃないの」

「小さなお子さんは想像力豊かですね」

「もう二度と会いたくないわ」

「まだお小さいからですよ」

「もういいの。気にしてたらこっちが損だわ。あのね、お母さまったらもう秋の薔薇を楽しみにしているのよ」

「そうですか。では気合いを入れて育てないと」
わたしが力こぶを作って見せると、お嬢さまは破顔なさった。

それからわたしが枝の誘引作業をしていると、お嬢さまは庭の隅でしゃがんでなにやらしておられた。なにをしていらっしゃるのだろうか。

三十分ほどそうしていただろうか。わたしはお嬢さまが熱中症にならないかを心配していた。
やがてお嬢さまが「あったー!」と叫んだ。
なにを見つけたのだろうか。
お嬢さまがわたしの元に駆けてくる。満面の笑顔だ。
「ねえ見て! 四つ葉のクローバーがあったのよ!」

「ほう、これは珍しい。よく見つけられましたね」

「絶対にある、って祈りながら探したの」

「お嬢さまの根気勝ちですね」わたしも笑った。

「ねえ、これを栞にしてお母さまにプレゼントしようかと思うんだけど、どうかしら」

「それは素晴らしい。奥さまもお喜びになりますよ」

「そうよね。急いで栞を作らなくちゃ。枯れちゃうわ。またね、野辺」
お嬢さまは跳ぶようにして家の中へお入りになった。

中学生になってもまだまだ無邪気だ。わたしはその天真爛漫さを守ってあげたいと思った。奥さまに万が一のことがあって、その明るさを失われてしまうのが怖かった。自分にできることはなんだろう、と考えた。兄弟姉妹のような存在でありたい。美味しいものや時間を分かち合い、喜びや悲しみを共に抱き合う。そんなことができればいいのに、と思った。

夏休みに入ってから、現にお嬢さまはわたしの座るテーブルセットの向かい側の席にお座りになり、わたしと共に紅茶を飲むことがある。
宿題の進み具合によってはお部屋に籠っていらっしゃるので、お茶の時間に庭にはでてこられない。
しかし、終わると庭にでてこられ、アーチの下で伸びをする。
そして、「あんなに宿題だしておいて、なにが夏休みよ。ちっとも休めないじゃない」とおこぼしになる。

「プールへは行かれないのですか?」

「だって泳げないんだもん。浮かないの。五メートルくらい水をかいてるんだけど、足から沈んじゃうの。ぜんぜん楽しくないわ」

そういうお嬢さまはたしかに肉付きが悪く、骨張っていて水に浮きそうもない。
食が細いのは奥さま譲りか。
いつだったか、お手伝いさんがなにを料理してだしても奥さまは半分も召し上がらないで残してしまう、とこぼしていた。
病院食ならなおのことお口に合わないのではないだろうか。
もうお目にかかれなくなって二ヶ月になる。
奥さまは、大丈夫なのだろうか。

八月。入道雲がもりもりと盛り上がり、陽射しの強さも容赦なかった。
まだ花を咲かせる品種もあるが、かなり小さく香りも少なく華やかさに欠ける。
庭でささやかに楽しむにはいいが。
だが、基本的には休ませている株が多く、葉が傷まないように気をつけて水やりをする。
薔薇は水切れさえしなければ暑さには強い植物なのだ。肥料も足すが、たまに強い陽射しで葉が焼けることがあり、その場合はラティスなどで日陰を作る。だが暑さに耐えて次なるシーズンに備えるのが本来の薔薇の持つ力だ。
夕方、水をたっぷり与え、仕事を切り上げる。
お嬢さまがピアノを弾いておられる。
わたしは部屋の窓を見上げて、「おやすみなさいませ」とつぶやく。

もうお嬢さまの夏休みも終わりを迎える。
ポスターを描く宿題がでており、庭の薔薇を写生する。ほんの数輪咲かせている四季咲きの薔薇だが、一輪だけ描くなら充分だ。
お嬢さまは真剣な目で薔薇を見つめる。
「ねえ野辺、どうしてこの薔薇は花びらが何重にもくしゃくしゃと重なっているの? もっとシンプルな花はないの?」

「申し訳ありません。いま、夏の最後の花を咲かせているのはそのベーダーロゼガーだけでして」

「まあ、いいわ。省略してイメージで描くから」

「それは素晴らしい才能でございますね」

「さぼる才能なら任せて」

お嬢さまがころころとお笑いになるので、わたしまでつられて笑ってしまった。

お嬢さまが絵をお描きになったのを見届けて、わたしは一斉に枝の剪定をした。
秋に向けての準備だ。
この夏剪定を的確な時期に行わないと十月の薔薇は楽しめない。
縦にすらりと伸び、高いところで花を咲かせるスレンダータイプと、扇状に横に枝を広げる横広がりタイプとのイメージを膨らませて枝を切り戻す。
奥さまが一番お好きな薔薇、半つる性のカミーユを剪定する。この花は印象派の巨匠、クロード・モネの絵画のモデルになったカミーユ婦人から名をとったそうだ。波状弁咲きで淡い紫色がとても上品な花だ。剪定をし、シュートをフェンスに誘引し固定する。決まり決まった作業だが、ひとつひとつ丁寧に扱う。
再来月の薔薇のシーズンが楽しみだ。
だが、奥さまの目に触れることはないかもしれない。わたしの胸はずきんと痛んだ。

九月に入り、お嬢さまも再び登下校する毎日に戻られた。お庭でお過ごしになることが多かったせいか、透き通るような白い肌もやや日に焼け、とても健康的に見えた。

旦那さまは毎日お帰りになり、お嬢さまが寂しくないようにと気を使っていらっしゃるように見受けられた。
しかし、お嬢さまは、ある日こんなことをいってらっしゃった。
「お父さまとふたりで食事してもちっとも会話が弾まないの。学校はどうか、友達とは上手くいっているのか、って同じことしかいわないし。わたしも同じことばかり話すのも飽きちゃって。あーあ、お母さまがはやく退院してくれたらなあ」

「そうですか。旦那さまもずっと地方や海外でお仕事をなさっておられましたからねえ。すこしお姉さんになられたお嬢さまとどう接していいのやらお困りなのではないですか」

「お姉さん? わたしが?」

「はい」

「本当に?」

「ええ、本当ですとも」

お嬢さまは頬を紅くされた。そのご様子はもう子供のものではなかった。はっきりといえる。母親の闘病を支え、強くなられたのだろう。
現にこうもいってらした。

「お母さまが抜けていく髪を気にしていて、わたし、お帽子を見繕ってプレゼントしたの。とても気に入ってくれて、毎日被ってるんですって」

そう、女性の命でもある髪が抜けるなどというショッキングな出来事にも、前向きに捉え行動する強さを身につけられたのだ。
わたしも懐いていてくださるからといって、いつまでも子供扱いはしていられない。そう肝に命じた瞬間だった。


九月は台風が多い。薔薇がゆさゆさと揺れて自分の棘で自らを傷つけないように、つる薔薇は麻紐で固定し、強風から守る。多少の傷みは仕方がない。台風が去れば黒星病予防のために消毒をする。

九月も半ば、すべてではないが、返り咲きの薔薇が花開く。春よりは小振りだが、色が濃く充分に楽しめる。
咲きにくいアーチなどのつる性の薔薇も、もちろん小さいながらも花を開かせる。

そんな頃、とても嬉しい知らせをもらった。
奥さまが一時退院されるというのだ。
お嬢さまが教えてくださった。
お嬢さまは軽トラックから脚立を下ろす準備をしているときに、わたしに飛びついてきた。 

「野辺、いい知らせがあるの」

「ほう、なんでございましょうか」

「なんだと思う?」
お嬢さまは白い歯を見せてわたしにいう。

「さて、なんでしょうか。見当もつきません」

「あのね、お母さまが退院なさるの」

「本当ですか?」わたしも笑顔になる。

「一時的な退院だから、そう長くはいられないけどね」

「それはようございました。体調が落ち着かれたのですね」

「うん、そうみたい」

「秋の薔薇もあちこちで咲いております。奥さまのお帰りを待つように」

「そうね、この庭を歩いたら病気なんかふっとんじゃうわよね」
そこまで明るくしゃべっていたお嬢さまが急に顔を曇らせた。

「いかがされましたか?」

「でもね、あまり歩けないから車椅子に乗ってるの。髪もなくて、痩せちゃって。野辺、びっくりすると思うわ」

「大丈夫ですよ。髪もまた生えますし、食欲も戻られれば、元の体型にお戻りになりますよ。一時退院したら、美味しいものをたくさん召し上がっていただきましょう」

「あのね」お嬢さまは声をひそめた。「わたしね、髪を伸ばすの」

「髪ですか?」

「ヘアドネーションって知ってる?」

「いえ、存じ上げません」

「伸びた髪を切って寄付するの。かつらを作るために。それでお母さまのかつらを作ってあげたいの」

「そうでございますか。それは素敵な案ですね」

「お母さまには内緒よ」

「わかりました」

「あとね、お母さまはお刺身が好きなの。海鮮丼でも作ってもらいましょ。わたし、伝えてくる」そういって、お嬢さまは玄関に消えた。

よかった。本当によかった。奥さまがまた薔薇のアーチをお潜りになる。今回は車椅子で、ということだが、庭は一部煉瓦敷きだが、ほとんどは芝生敷きなのでつっかえるところはない。でも芝生をもっと短く刈らないと。アーチの下も木の板を敷き詰めているが、ここも大丈夫だろう。木の板の角をガタガタしないように削っておこう。

それから数日間、玄関では工事が進んでいた。門と玄関にスロープをつけるようだ。きっと家の中にもつけているにちがいない。
それが終わると、お手伝いさんが忙しそうに出たり入ったりしていた。
「どうされましたか」わたしは尋ねた。
「明日、奥さまが一時退院されるので、準備がいろいろありまして」
「そうですか。いよいよ明日、一時退院なさるんですね。お嬢さまもお喜びでしょう」
「はい、それはもう。あ、すみません。ばたばたしていて」
「ああ、申し訳ない」
お手伝いさんはバンの運転手と一緒にたくさんの荷物を運び入れていた。

わたしも俄然、やる気がでてきた。薔薇を一番良い状態で見ていただきたい。庭全体に活性剤を撒いた。
明日はすこし早めに仕事に入ろう。午前中に水を撒いて、花弁に水滴がつき、輝いている様が見られるように。

三時半になり、お嬢さまが帰ってこられた。車から降りられる優雅なご様子に、こないだまでのランドセル姿からセーラー服姿がすっかり板についたようで、本当にお姉さんになられたのだなあと気づかされた。

ところが、お嬢さまは門の扉を開けて入ってくると、わたしの服を引っ張った。
「野辺、ねえ野辺、いよいよ明日よ」

「はい、お聞きいたしました。薔薇の状態も万全でごさいます」

「ほんとう、奇麗ね。お母さまの車椅子を押して庭を散策するの」

「楽しみですねえ」

「野辺も付き添ってね」

「わたしがですか?」

「そうよ。薔薇の説明をしてあげて」

「かしこまりました」

「あと、三人で紅茶を飲みましょ」

「わたしもですか?」

「だって庭のボスはあなたじゃない」

「庭のボス、ですか」わたしは笑いを噛み殺した。
「わかりました。散策をしてお茶を楽しみましょう」

「うわあ、どきどきする。今夜はきっと眠れないわ」
くるくると踊るように玄関へ消えていった。
やがて、半袖のニットセーターとスカートに着替えたお嬢さまは、スニーカーの先を地面にとんとんとさせながら玄関からでてきた。
「ピアノのお稽古に行ってくるわね。野辺、明日よ、明日」鼻歌交じりに門扉を開けた。

「はい。行ってらっしゃいませ」

お嬢さまはお一人の夜にはおそらく泣いて過ごされたはずだろう。
奥さまがいらっしゃらない日々を足の裏に力を込めて地を踏み、堪えていらしたのだろう。
そんなお嬢さまのためにも、ぜひとも奥さまにはよくなっていただきたいと強く願った。

翌日、九時にわたしは邸宅に入った。新品のポロシャツを着て。わたしなりに喜びをあらわす衣装だ。誰も気づきはしないだろうが。
やることは変わらないが、枯れた薔薇を一輪でも見逃すわけにはいかなかった。完璧な状態にしておかないと。

今日は良い天気だ。奥さまにとっても気分よくお家に戻られることだろう。

十二時前、大きなワンボックスの車が門の前に停まった。
夏ほどではないが太陽も高いところにいて、祝福を与えているようだ。そよそよと吹く秋風も気持ちが良い。

ワンボックスのハッチバックが開いた。電動なのかゆっくりと台に乗った車椅子が外に降りてくる。付き添いの若い女性がいて、運転手の横についていた。運転手は車椅子を降ろすと、若い女性に「それではよろしくお願いいたします」といって運転席に戻った。
若い女性は、車椅子をくるりと回し、門のスロープを上がった。そして門扉に手を掛け、開いた。
庭から玄関に向く途中、「止めて」という細い声がして、車椅子に乗る人物が顎を上げた。庭を見回している。

「奥さま······」わたしは思わず口にしていた。

奥さまはこちらに気づき、そのお顔を向けられた。
頬はこけ、目は落ち窪み、首には皺がより、カーディガンからでている手は骨と皮だ。髪がすべて抜け落ちたのか帽子の襟からは地肌が見えている。
わたしはショックを受けた。こんなにも奥さまが変わられたなんて。思いもしなかった。それは壮絶な闘病だったのだろう。お嬢さまがお選びになったのだろう帽子だけが華やかで浮いていた。

「野辺、ご苦労様。今年の秋も薔薇が楽しめるわね」

「奥さま、お帰りなさいませ。薔薇も秋咲きではいまが一番いい時でございます」

「あとでゆっくり娘とお庭を見たいから案内してね」

「はい、かしこまりました」

その三十分後、お嬢さまは運転手つきの車でお帰りになった。お顔が輝いていらっしゃる。

「ただいま、野辺。早退してきちゃった。お母さまは?」

「お帰りなさいませ。奥さまはもうお着きですよ」

「わあ!」お嬢さまは瞳を輝かせた。それから「野辺も素敵よ。そのポロシャツ」そう悪戯めいた笑顔でおっしゃって、玄関に消えていった。
お嬢さまに新品のポロシャツを着ていることを悟られ、気恥ずかしい思いになったが、気づいてくださったことは素直に嬉しかった。

わたしはそれから、いつ奥さまとお嬢さまがお庭にでておいでになってもいいように、そわそわと庭をほうきで掃いたりしながらうろついていた。
今日、やれることはもうすべてやった。あとは目一杯楽しんでいただくだけだ。

ところが、三時になるとお嬢さまが紅茶の載ったトレイを運んできてこういったのだ。
「野辺、ごめんなさい。きょうお母さまはとても疲れていてお庭の散策はできなくなったの。本当にごめんなさい」

「お嬢さまがお謝りになることではございませんよ。きょう退院されて、すぐに散策はご無理なことはよくわかります。まだしばらくご自宅で静養なさるなら、機会はいつでもございます。どうかそうがっかりなさらずに」

「ごめんなさい」
お嬢さまの瞳が潤んでいた。
そうだろう。一時退院というのは、すこし元気におなりになった証拠みたいなものだろう。お嬢さまにとられては、以前の日常が戻られたと思うのは致し方ない。

それでも、わたしもいつ奥さまがお庭の散策をなさりたいとおっしゃられるかわからないので、翌日も朝の九時に邸宅に入った。

朝晩がすこし涼しくなっていた。
あまり朝早くとなるとお風邪をお召しになる可能性があるので、庭の散策をされるのならばやはり午後一であろうと考えていた。
お嬢さまは学校でお勉強をなさっているが、帰られたあととしたら、夕方になってしまう。それでは肌寒いので、奥さまも避けられるだろう。
わたしはいつ声がかかってもいいように準備をしていた。

午後二時ごろ、お手伝いさんが庭へでてきた。これから奥さまがお庭の散策をなさりたいとのことだ。
お嬢さまはいらっしゃらないが、それも仕方あるまい、とわたしは玄関へ向かった。
奥さまは車椅子に乗って玄関口に待機していた。付き添いの女性が「わたしが車椅子を押しますので、案内をよろしくお願いいたします。奥さまがお疲れにならない程度に」と義務的な調子でいった。

「はい、かしこまりました」わたしは奥さまがお掛けになっている虹色に光るサングラスを気にしていた。これでは奥さまの表情が読み取れない。

「ごめんなさいね。日の光が眩しくてこれを掛けないと薔薇がよく見えないの」

「そうでしたか。では、ご案内いたします」

「あら、素敵なポロシャツね」奥さまはサングラスを指でずらし、わたしの上半身をしげしげと見ていた。その目はお優しいいつもの笑みだった。

「あ、いえ」わたしは赤面していた。冷や汗がでて、なんとも居心地が悪かった。やはり、女性というのは敏感なのだな、と悟った。

「見事ですね」
まず口火を切ったのは付き添いの女性だった。あとで知ったのだが、旦那さまに雇われた、トイレやお風呂などのサポートをする介護士だということだった。三十代前半だろうか。
彼女は首をぐるりと三百六十度回し、広大な庭を見渡した。

「はい、春はもっとゴージャスになります」わたしはつい嬉しくてそういったが、次の瞬間しまった、と思った。
奥さまに残された時間がそこまであるのか、という危惧の念を抱いたからだ。
しかし、それも奥さまのお言葉に救われた。

「秋でもこんなに奇麗に咲くけれど、春はもっと華やかですものね。野辺は本当に薔薇を育てるのが上手なのよ」

「そうですか」介護士が頷く。

「では、どうぞ、こちらへ」
わたしはまず、出窓沿いに咲く木立ち性の薔薇のもとへ寄った。
車椅子は芝生には合わないのか、介護士が方向を変えるのに四苦八苦していた。
きっと草が柔らかすぎて車輪が沈んでしまうのだろう。
力を必要とするならば、と「わたしが押しましょうか」と申しでた。
介護士は申し訳なさそうに「すみません」と車椅子の背後を譲った。

わたしがゆっくりと車椅子を押すと、「あらまあ」と奥さまは声をあげられた。
「この黄色い薔薇、とても可愛らしいのね。なんていう薔薇なのかしら」

「リュシオールという名前でございます」
わたしは花の前でしゃがんだ。俯き加減で咲いている花がよく見えるように手で持ち上げた。

「前からあったかしら」

「いえ、この春にわたしが鉢で育て、庭に植え付けたものでございます」

「娘の部屋に飾りたいわね」

「そうでございますね」

「でも、やっぱり花は切ってしまうと命が短くなってしまうから、そこに咲かせておきましょう」

そのときの奥さまの表情は、サングラスのせいでよくわからなかった。

次にくるりと車椅子を反転させ、フェンスに寄った。
奥さまがお気に入りの半つる性の薔薇たちがある。お気づきになるだろうか。

「あ、それカミーユね」

「はい」藤色で、まるで奥さまのように可憐で儚げな花だ。

「こんなに素敵に咲かせてくれてありがとう」
きっと薔薇にも負けないお美しい笑みを湛えていることだろう。

すこしゴトゴトとしたが、アーチも潜ることができた。
奥さまも顎を上げ、ぐるりと見回していた。
「アミ ロマンティカ、素敵ね」

「はい、腕によりをかけて育てております」

「どうしていつもこんなに完璧に育っているの? 枯れた花なんか一輪もないわ」

「はい、奥さま。枯れた花は切り落とします。そうでないと次の花がでてこないのです」

「ちょっと枯れただけでも?」

「はい」

「そう。枯れかかった花は用済みなのね」
奥さまは声を落とされた。

わたしは慌てていった。
「そうした花はわたしが部屋に持ち帰り、カップに生けたり風呂に入れたりして活用しております」

奥さまが小さくお笑いになった。
「野辺が薔薇のお風呂に?」

「まあ、はい。勿体ないので」

「ふふふ」奥さまはなおもお笑いになる。

「奥さま、お疲れではないですか?」介護士が話しかける。

「そうねえ、すこし疲れたかしら。でも、まだ庭にいたいわ」

「では、お茶を持ってまいりますね」介護士は玄関へ走った。

「野辺」奥さまの声がやや固い。

「はい、なんでございましょうか」
わたしは奥さまの車椅子をテーブルセットに寄せ、自分はとなりの椅子に腰かけた。

「あの子、寂しがっていたでしょう」

「そうですね。しかし、ご自分なりにピアノの練習に打ち込まれたり、お勉強をされたり、しっかりとされておりました。わたしなどには本音は見せたくないのでしょうが、弱音ひとつお吐きになりませんでした」

「そう。あの子はあなたに懐いているから、なんでも話していると思っていたわ」

「お強いお子さまです。いや、もうお子さまとお呼びしては叱られますね」

「あなたの前では笑顔でいたいのね。よくわかるわ」

「はあ······」
返事に困った。そこに介護士が大きな銀のトレイで紅茶のセットを運んできた。

「お待たせしました」

「ありがとう。じゃあみんなでお茶にしましょう」

たいして盛り上がる話題などなかったが、奥さまは気持ちよさそうに外気を肺に送り込んでいた。
「薔薇のいい香りがするわ」

「はい。わたしはいつも囲まれているので意識はしないのですが、あらためて思い切り吸い込むと薔薇の匂いが鼻孔をつきますね」

「生の薔薇って香水以上に芳しいんですね」介護士もにこにこしていう。

そこへ、黒い車が門の前に停まった。お嬢さまが後部座席からお降りになる。門扉を開けると我々を見つけ、眉尻を上げた。

「やだあ! わたしを差し置いてずるいわ!」

「ごめんなさいね、疲れちゃって。早く着替えて手を洗ってらっしゃい」
奥さまがそうおっしゃると、お嬢さまは頬を膨らませ、飛ぶように玄関へ向かった。

やがて長袖のブラウスとキュロット姿に変身したお嬢さまが庭にあらわれ、奥さまのおとなりにお座りになった。
介護士が新しいカップに紅茶を注ぐ。
それを待たずにお嬢さまはお皿いっぱいに盛られたクッキーを手にとり頬張った。

「もう、お腹ぺこぺこ」

「いっぱい食べなさい」
母親に見守られ、お嬢さまは紅茶をすすった。

「ねえ、もうお庭は見て回ったの?」

「ええ、だから疲れて休憩してたのよ」

「そんなあ、わたしと野辺で秋の薔薇を案内しようって約束したのに」

「お嬢さまには無理ですよ。車椅子は思うより重たいんです」と介護士。

「そんなことないわ。わたしにだってできるわよ。見てて」
お嬢さまは奥さまの背後に回り、ハンドルを握った。
「ん、ん、うんしょ」
引くがまったく動かない。芝生に車輪が沈んでいるせいでもあるし、奥さまの体重をお嬢さまではお運びになるのは無理なのだろう。

「おほほは」奥さまはさも可笑しげに笑った。「野辺じゃないと無理よ」

「そっかあ······なあんだ」お嬢さまはひどくがっかりされたようだった。「明日はわたしが学校から帰るまでお庭の散策は待ってて」

「夕方になりますとお体が冷えてしまいます」介護士がぴしゃりという。

「それなら、わたしはどうなるのよ。仲間に入れないじゃない」お嬢さまはむくれる。

「明後日の土曜日までは待てませんか」介護士も意外に気が強い。

「土日は野辺が休みだからだめなのよ」お嬢さまも口から泡を飛ばす勢いだ。

「それでしたら、今回の土曜日に限ってはわたしもまいりましょうか」

「ほんと? いいの、野辺? せっかくのお休みなのに」

「いえ、構いません。秋の薔薇も咲いていられる期間が短いですので」

「そお? じゃあ、明後日。かならず来てね」

「はい、お約束します」

ところが、秋の天候はころころと変わる。前日の金曜日までは晴天だったのに、土曜日はいささか強く降る雨天、という結果だった。
いちおう邸宅には来たが、今日はやめましょう、と大人たちで決めた。

それがお嬢さまの逆鱗に触れたらしい。
「なんでもかんでも、大人って勝手に決めちゃうのよね。ひどいわ。わたしはいつも仲間外れなのね。もういいわ、知らない」ぷいとそっぽをむく。

「雨はどうなさるんですか」介護士が冷静に訊く。

「じきに上がるわ。天気予報でいってたもの。夕方には止むって」

わたしはお嬢さまの目線に合わせ、膝をついた。
「お嬢さま、雨はしばらく降りつづきます。」

「そんな意地悪いわないで」
お嬢さまが泣きだした。涙を大きな目からぽろぽろと溢して。

「このリビングではだめ? 野辺に薔薇を切ってきてもらいましょう。それを眺めながらお茶をするのはどうかしら」
奥さまが優しく諭すようにいわれた。すると、お嬢さまはすこしぽかんとした顔をなさって、それから相好を崩した。
「うん! 野辺、満開の薔薇を取ってきてちょうだい」

「はい、かしこまりました」わたしは笑いを噛み殺す。

傘を肩に掛け、庭にでた。軽トラックから剪定鋏を持ってきて、切る薔薇を選ぶ。
お嬢さまのように繊細で可愛らしいピンクのクロッシェを切る。
あとは奥さまが褒められた黄色いリュシオールも。
それから、一房にいくつも小さな花を咲かせているフロキシーベビーも切ろう。
これだけあればお部屋も華やかになる。
わたしは片手で傘を閉じ、家に上がってお嬢さまから花瓶を受け取った。
キッチンで水切りをして花瓶に生ける。ふわりと薔薇の香りに包まれる。
リビングに持っていくと、みなが「わあ!」と感嘆の声を漏らした。

お手伝いさんも見とれているので、奥さまが笑いながら「紅茶を淹れてくださる?」と声をかけた。

「ああ、そうですね。はい、ただいま」

「ここまで香りが漂ってくるわ」
車椅子からソファにお移りになられた奥さまが瞳を輝かせ、おっしゃった。薔薇を愛でる奥さまの瞳は、本当に少女のように煌めいている。
お嬢さまはそんな奥さまのご様子を嬉しそうに見ていらっしゃる。
残された時間のことを考えまいとしても頭をよぎる。
お嬢さまだけが奥さまには時間が限られていることをご存知ではない。
あるいは賢いお嬢さまのことだ。もう勘づいておられるのかもしれない。
あえて無邪気に振る舞われて。
わたしの胸はずきんと痛んだ。お嬢さまをお守りしたいと思った。わたしなどにできることはないが。それでも、やはり喜びや悲しみを分かち合いたいと強く思った。
そんなことくらいしか、わたしにはできない。己の無力さを痛感した。

紅茶はキャラメルのフレーバーで、砂糖を入れずとも甘く感じた。
一緒にだされたフィナンシェともよく合った。
お嬢さまはわたしのポロシャツについて持論を述べてられていた。

「野辺のポロシャツ姿はとても紳士的に見えるわ。本当の野辺はきっとレディを穏やかにリードする紳士なんだわ。だってゴルフの時のお父さまより、ポロシャツが似合ってるんだもの」
周りの大人たちの笑いを誘う。
わたしはどう答えればよいのかわからず、これは参ったと頭を掻いていた。

ひとしきりお茶を飲むと、なんとなく呆けた空気が我々を覆った。
奥さまは眠たそうにされているし、介護士も空のカップを手で弄んでいた
お嬢さまの元気のよいお喋りも勢いを失っていた。
そのとき、奥さまが口火を切られた。
「ねえ、ピアノを聴かせて」
おとなりに座るお嬢さまの膝に手を当てて奥さまはそうおっしゃった。
お嬢さまはぱあっと顔を明るくなさって席を立たれた。
「わかった。弾いてくるから聴いててね」
そしてドアを開けたまま意気揚々と二階へ駆け上がった。

やがて、吹き抜けの玄関ホールにピアノの音が響いた。
この日のために練習に練習を重ねたベートーベンのピアノソナタ「月光」だ。
第一楽章の重々しい旋律が聴くものの心をさらう。
奥さまは目を閉じて上半身を揺らし、すっかり聴き入っていらっしゃる。
わたしもテーブルの上の宙を見つめたまま黙って聴いていた。
もうすっかりご自分のものにされたな、というのが第一印象だった。
ピアノのことはよく知らないが、最初のころの楽譜に翻弄されていた時期からすると、もう舞台での演奏でも劣らないと思えた。
「たくさん練習されたんですよ」といいたくて顔を上げると、奥さまが静かに涙を流されているのを知った。
お嬢さまが上達された嬉しさだろうか。それともこの第一楽章の持つ切なさを感じとられたからだろうか。
奥さまが囁くようにおっしゃった。

「まだ、生きていたい」

介護士もわたしもはっとなり、目を見合わせた。このような場合、どんなお言葉を掛けて差し上げればいいのだろうか。わたしは逡巡した。しかし、介護士が奥さまにハンカチを渡して、こういった。

「奥さまはまだまだ生きられます。そのために苦しい治療も受けたのです。生きようという意思が大切です。ですから、悲観なさらないでください」

さすが、プロの介護士だと思った。わたしにはそんな言葉は思いつかない。

「ええ、そうね。まだまだわたしにも時間がたっぷり残っているわよね」

「はい、そうです。奥さま、生きましょう」

わたしはその場で口を開くことはできなかった。
来年の春の薔薇を楽しみにされててください。そんな陳腐な言葉が奥さまの慰めになるとは思えなかった。だから、黙っていた。

ピアノソナタは第二楽章に入っていた。出だしが明るく、我々の中にもほっとした空気が流れた。

「たくさん練習したのね」
奥さまは唇の端をあげていらっしゃる。笑みともとれる。涙はもう止んでいた。

「はい、毎日毎日、一心不乱に練習なさっておりました」
わたしはようやくそのことを伝えることができた。

「そうなのね。逞しくなったのね」

「はい、お強くて優しいお嬢さまです」

「あの子のためにも生きなきゃ」

「そうですよ、奥さま。お嬢さまに笑顔になっていただきましょう」介護士が力強く言葉をかける。

「そうね」

ピアノの音が止んでいたことに、ふと気づいた。
玄関とリビングを隔てるドアが開け放たれていて、そこにお嬢さまがぽつりと立たれていた。
わたしははっとした。
どこから我々の話を聞いていたのだろうか。
ところが、お嬢さまは笑みを浮かべられ、奥さまの横に腰かけた。

「聴いてた?」

「ええ、とても上手になったのね。素晴らしい演奏会だったわ」
奥さまがお嬢さまの髪を撫でながらそうおっしゃると、お嬢さまは頬にえくぼを作られた。
「そういえば髪が伸びたわね。美容院へは行っていないの?」

「伸ばしたいの」

「あら、どうして?」

「うーんと、内緒」
お嬢さまはそうおっしゃってわたしにウインクをして見せた。

                          
奥さまの一時退院も終わり、また病院へ戻られることとなった。
食事もしっかり摂られていたようで、血色もよくなられていた。

門の前にはまた大きなワンボックスカーが停められていた。

「野辺、娘をよろしくね」

「はい、承知いたしております」

門扉を開け、車椅子を逆向きにして車椅子を引き、介護士はスロープを下りた。
旦那さまが付き添われ、ワンボックスカーに乗り込んだ。

「それでは、あとのことは頼む」
旦那さまは厳しい口調でおっしゃった。

「かしこまりました」お手伝いさんが返す。

ワンボックスカーが発車すると、わたしもお手伝いさんも持ち場に戻った。

奥さまがまた入院生活に戻られた。
お嬢さまは学校からお帰りになると、わたしにひとことふたこと話しかけ、部屋へ籠ってしまうようになった。
ピアノの音も聴こえてこない。
週末にお見舞いに行かれているので、月曜日に出勤すると、報告してくださる。

「お母さま、病院のご飯があまり食べられないから、お菓子の差し入れは喜んでくれるの。でも、お菓子だけ食べてても健康によくないから、どうにかしてあげたいの。ねえ野辺、いい案はないかしら」

「そうですねえ、わたしはおにぎりが好きなので、おにぎりさえあれば満足ですが、奥さまにも手軽にぽいっと口に放り込めるものをお作りして差し上げたらいかがでしょうか」

「手軽にぽいっとねえ······」
お嬢さまはしばらく考え込んでいたが、やがてはっとしたように顔を上げ、こうおっしゃった。
「そうだ、手鞠寿司なんてどう? 茹で海老や薄焼き玉子とか巻いたお寿司。どう?」

「それは妙案ですねえ」

「でしょ? 今週末に持っていってあげよう。ありがとう野辺! やっぱり野辺は頼りになるわね!」

「いえいえ、わたしはなにも」

家の中からお嬢さまの笑い声が聞こえる。きっとお手伝いさんにお話しになっているのだろう。

翌週の月曜日、学校からお帰りになったお嬢さまはアーチで誘引作業をしているわたしのところに真っ直ぐに走っていらした。

「野辺、手鞠寿司作戦、大成功だったわ!」

「そうでしたか。それはよかったですね」

「お母さま、四つも食べてくださったのよ」

「ほう」

「また食べたいって」

わたしは何度もうなずいた。そして安堵した。奥さまにまだ食欲があることに。

                      ☆
十二月に入ると、薔薇も休眠するのでやることがなくなってくる。水やりも不要だ。
これまでならこの季節は週に一度様子を見に来る程度だったが、今年はお嬢さまのお話しのお相手をしなければならないので、午後からだが毎日出勤した。
枝の剪定や誘引はあらかたやってしまったので、枝が死にかけている株を抜いたり、鉢で育てた薔薇を植えつけたり、なんかかんか庭をいじっていた。
三時になると、寒いから、とお手伝いさんがリビングに上げてくれ、紅茶をだしてくれる。
リビングには背の高いクリスマスツリーが飾られ、青い電球がちかちかと光っている。
ゆっくりとお茶を飲んでいると、お嬢さまが帰ってこられる。
それからお嬢さまとおしゃべりをする。
クラスメートとどんな事をして遊んだとか、仲良しグループで回している秘密のノートの存在や、気に入らない教師の話しなど。聞いていて飽きない。
車で送迎されている生徒もぽつぽつといるが、たいていは皆、電車で通学しているということだった。
女子校なので、若い男性教師の前でも生徒は遠慮がない様子だそうだ。
お嬢さまは頭の回転がよろしいので、面白おかしく話されるのには感心させられる。
しかし、紅茶のカップを手で包んで、遠い目をなさるときは、わたしも喉がきゅっと締まる感覚に襲われた。
ひとしきりお茶を楽しむと、五時前には暇をする。
ショールを肩に巻いて、わたしが軽トラックで去っていくのをお嬢さまはいつまでも手を振って見送ってくださった。

クリスマス前の月曜日。
お嬢さまは奥さまにテレビ台に置ける小さなクリスマスツリーを贈られたとおっしゃった。

「それがね、あまり嬉しそうじゃなかったの」

「どうされたのでしょうか」

「クリスマスに一時退院をしたいって先生にいったら、それは無理だっていわれたらしいの。体力が落ちているからって」

「そうでしたか。クリスマスはお家で過ごされたいでしょうね」

「それでね、野辺に相談なんだけど、わたしと野辺でお母さまにプレゼント持って病院に行かない? ささやかなクリスマスパーティーを開くの」

「なるほど、それはいいアイデアですね」

「クリスマス、誰かと約束ある?」

「いいえ、フリーでございます」

わあ! お嬢さまは手をお叩きになった。
「じゃあ決まりね。野辺もプレゼント用意してね」

「奥さまにですか?」

「そうよ」

「うーん、なにが喜ばれるでしょうか」

「それは自分で考えてね」

とても困難な宿題をだされてしまった。
クリスマスまでにはもう時間がない。
ボロアパートで一人暮らし。なにも使うことがないので貯金はそこそこあるが、高価なものが喜ばれるとは限らない。心さえ込められていればいい。
そう考えるが、なかなかな難題だった。

わたしは街にでた。
女性が喜びそうなアクセサリーショップを巡り、「彼女さんにですか?」と店員に問われ、いいえ、ちがいます、と場違いな思いで慌てて店を飛びでた。まったく、冷や汗がでた。
次に子供に受けそうなファンシーショップを見て回った。
奥さまはもういいお歳だし、うさぎやくまの絵柄のものを喜ぶはずがない、と店をあとにした。
さて、どうしよう。わたしは高島屋百貨店で考えあぐねていた。
ファンシーショップの横に文房具売り場があった。万年筆がガラスケースの中に並べられている。
わたしは店員に声をかけ、ひとつをとってもらった。
店員の話では手に馴染むまでは少々かかるが、馴染んでしまうと、もう離せないそうだ。
へえ、そういうものか、と思う。
ちょうどお手頃な万年筆がある。ペリカンというメーカーの明るいオレンジ色のものがわたしを捉えた。
それを使うならノートだろうと、天使が表紙に描かれたファンシーなノートも合わせて買うことにした。子供っぽいノートで万年筆と少々不釣り合いだが、まあ、書くことが毎日の習慣になればそれでいいので、よしとした。
かくして、わたしは万年筆とインクとノートをプレゼント包装してもらい、それを奥さまへのクリスマスプレゼントとすることにした。

お約束のクリスマス、二十五日の金曜日。
わたしは邸宅に十二時頃に着いていた。
それでも、お嬢さまは「遅いわよ、野辺」とすこしご機嫌が斜めだった。

わたしはニットセーターの上にグレーのジャケットを羽織っていた。

「まあ、服装はオーケーね」

そしてわたしとお嬢さまは黒い車に乗り込み病院へと向かった。
こうして運転手のいる車の後部座席に乗ると、とても気分が高揚した。自分までいい身分になった気がするのだ。
お嬢さまはクリーム色のワンピースに真っ白なコートを着ていらっしゃる。本当にクリスマスパーティーにでも出席されるかのように可憐だった。

「お母さまのプレゼント、用意できた?」

「はい。喜ばれるかはわかりませんが、わたしなりに考え抜いて選んだものです」

「そう。わたしもとても素敵なものを見つけたの。お母さまもきっと喜んでくださるわ」

「わくわくいたしますね」

「わたしもわくわくするわ」
お嬢さまは頬を蒸気したように赤く染められた。

病院に着くと、わたしとお嬢さまはエントランスで車を降りて、病室に向かった。
きょう、お嬢さまとわたしが訪れることを知ってか知らずか、奥さまはお化粧を施され、頬にチークを入れられていた。
だからかとても健康そうに見受けられた。
「お母さま、メリークリスマス!」
お嬢さまが奥さまにハグをした。
ベッドの上で、奥さまは嬉しそうに笑顔を浮かべていらっしゃった。
「あら、野辺も来てくれたの?」

「はい、厚かましいですが、お嬢さまにお誘いを受けたので」

「お庭はいま、どう?」

「花はもうありませんが、新しい苗を育て、植えつけております」

「そう、春が楽しみね」

わたしはその言葉に喉が詰まった。しかし、なにも返さないのも不自然なので、「はい」とだけ答えた。

「ねえ、お母さま。わたしたちお母さまにクリスマスプレゼントを持ってきたのよ」

「わたしたちって、野辺もなの?」
奥さまは驚いたように目を剥かれた。

「はい、ささやかではございますが」

「ごめんなさいね。この子がいいだしたことでしょう?」

「なんで? うれしくないの?」

「野辺に無理強いしたんじゃないの?」

「そんなことないわよ、ねえ? 野辺?」

「あ、はい。選ぶのはとても楽しゅうございました。喜んでいただけるかは自信がありませんが」

「ねえ、せいのでお母さまに渡しましょ」
お嬢さまがそうおっしゃると奥さまはくすくすとお笑いになる。前回お会いしたときよりさらにお痩せになったような気がするのが心に引っかかった。

「いい、野辺。いくわよ。せいの!」

わたしとお嬢さまは奥さまのお膝にプレゼントを置いた。

「なにかしら」
奥さまは瞳を輝かせていらっしゃる。

「開けてみて」
お嬢さまも奥さまの膝に手を添える。

奥さまが包みを開ける。まずはわたしのプレゼントからだ。
「まあ、奇麗な色の万年筆。使うの勿体ないわ」
次にお嬢さまからのプレゼントの封を開ける。
果たしてそれは、布の表紙に薔薇の花の模様が描かれている分厚い魔法の書のようなノートだった。フリクションボールペンもついている。
「あらあら、片方は万年筆に、片方はノート。素敵な組み合わせになったわね」

「やだ。ほんとう。ねえ、野辺とわたしって奇跡を起こせるんじゃない?」
そういってお嬢さまはころころとお笑いになった。

「そうだわ。あなたのノートに野辺の万年筆。これで日記を書こうかしら」

「それ、とってもいい案だわ! 書いて、日記!」

「なにから書こうかしら」
奥さまは顎に手を当てる。

「ケーキも買ってきたのよ。ロウソクは立てられないけど、きよしこの夜を歌って食べましょ」

「それはいいですね」

「でも、お茶がだせないわ」
奥さまはお困りになった顔をされた。

「そんなこといいのよ。食べましょ」

奥さまとお嬢さまとわたしは、お嬢さまが買ってこられた苺のショートケーキを手に、きよしこの夜を歌った。
肺活量が減った奥さまは途切れ途切れだったが、なんとか歌いきることができた。

「メリークリスマス!」
もう一度お嬢さまが叫んだ。

「メリークリスマス!」
奥さまもわたしたちに笑顔を向けられた。

「まず、今日のことを書くのよ。忘れないようにね」
お嬢さまはそうおっしゃった。

その言葉が痛く胸に刺さった。忘れないように。お嬢さまにとっては、今日この日は特別な日になったのだろう。奥さまにずっと覚えていて欲しい一日に。そして、自らも忘れられない日に。
この日が確かにあったことをわたしがいつでも語れるようにしなければ、と思った。

ケーキを食べ終えると、ちょうど看護師が血圧と体温を測りに病室へやってきた。
お嬢さまはケーキを食べた証拠を隠滅されようと慌てて銀紙や箱を隠すが、看護師はくすくすと笑った。
「いいものを召し上がったようですね。これですこしは食が太くなるといいんですけど」

「ご飯、食べられないの?」
お嬢さまが尋ねる。

「すぐにお腹いっぱいになっちゃうの」
奥さまは看護師を前に、美味しくないとはいえないようだ。

「また、差し入れ持ってくるわ。いいでしょ? 看護師さん」
お嬢さまはすがるような目をして看護師を見上げた。

「はい。食が進むようでしたら、なんでも召し上がってください」
看護師もお嬢さまに爽やかな笑みを投げた。



年越しは、わたしも実家などないので、特別なことはせず、NHKの紅白歌合戦を観ながらどん兵衛の鴨そばを食べた。なんだかんだいって、これが一番美味い。
毎年そんな年越しを送っている。
すこし寝酒を飲んで、床についた。
一夜明けると、雀のさえずりが新しい年の朝を知らせてくれる。
わたしはアパートの二階から階段を下り、ポストを開けた。高校時代の友達からの年賀状が数枚届いている。それだけだ。だが、子供の写真などが載っていると、その成長に微笑ましくなるものだ。

薄曇りで、どうしていつも正月はこんな空をしているのだろうかと思う。とくに寒くもなく、だからといって晴々しい青い空が広がっているわけではない。
毎年変わらない光景。正月はわたしにとってそう楽しいものでもないのだ。
部屋へ戻ると携帯電話が電話着信を告げていた。画面を見ると、お手伝いさんのものからだった。わたしの背中に緊張が走る。まさか······。
「はい」わたしは電話にでた。

「野辺? 明けましておめでとう」
その声は呑気な調子のお嬢さまのものだった。

「あ、明けましておめでとうございます、お嬢さま。いかがなさいましたか」

「あのね、お母さまに新年の挨拶をしに行きたいの。一緒に行ってくれない?」

「いまからですか?」

「無理? なにか用事があるの? 初詣デートとか?」

「いえ、そんな約束はございません。ですが、病院もさすがに元旦は見舞い客はご遠慮願っているのではないですか」

「それがね、お父さまに電話して訊いてもらったの。お見舞いも大丈夫だって」

「しかし、運転手もお里に帰られているのでは」

「だから、そこで野辺の出番なんじゃない。ねえ、いつもの軽トラックに乗せていって」

「はあ」
元旦からいささか億劫だが、お嬢さまの思いも考えれば承諾するしかなかった。
「かしこまりました。午後一にそちらへお迎えにまいります」

「ありがとう、野辺」

わたしはシャワーを浴び、セーターを着てその上からダウンジャケットを羽織った。
邸宅へ着くと、インターホンを鳴らす前にお嬢さまが外へ飛び出してきた。
その姿にわたしは固まった。
お嬢さまはお着物を着てらっしゃった。ピンクの桜の花びらを散らしたような柄に淡い緑の帯。
髪は結いあげられ、細い首が伸びていた。
あまりの美しさにわたしは口をつく言葉を失っていた。呆然と佇み、そのお姿を眺めていた。

「どうしたの? 野辺。あがって」

「ああ、はい」
わたしは情けなくお嬢さまの後ろをついて歩くように中へ入った。

邸宅の中へ入ると、入り口左手の和室に誘われた。漆塗りのテーブルにはご馳走が並び、和装の旦那さまが上手の中央に座っていらした。

「明けましておめでとうございます」

「やあ、野辺。おめでとう。娘のわがままに付き合ってくれるなんて申し訳ないな」

「いえ」

「おせち料理、君も摘まんでくれ」

「ありがとうございます。ですがお嬢さまとのお約束がございますので」

「屠蘇ぐらい飲めないかね」

「運転がありますので、申し訳ありません」

「そうか。娘が着物姿を家内に見せたいといい張ってな」

「お嬢さまのお美しい着物姿を見られたら、奥さまも元気を注入されることでしょう」

「うん、わたしもそう思ってな。せっかくの休みのところ悪いが、娘の願いを叶えてくれないか」

「はい、そういうことでしたら喜んで」

「これ、少ないが」
そういって旦那さまが懐から持ちだしたのは、ポチ袋だった。いやにぶっくりと膨らんでいる。

「いえ、お給料はきちんといただいてるので、そのようなものは······」

「娘のために、だめか?」
旦那さまは不器用な方なのだ。そういう誠意しか示せないのだろう。

「わかりました。ではいただいておきます。ありがとうございます」
このときは中を確かめなかったが、あとで家に帰り開けたら、十万円も入っていた。まったく娘のためとはいえ、金持ちのすることはわからない。

お嬢さまの準備が整われたようなので、わたしは軽トラックのエンジンを掛けた。
お嬢さまの帯が潰れないか心配でたまらなかった。
「なんかすみません。せっかくの晴れ着なのにこんなおんぼろ車で」

「ねえ、野辺はそんなこといわなくていいの。もっといつもみたいにどっしりとしていて」

お嬢さまのお言葉の意味はわからなくもないが、わたしとしては「はい」とただ大人しく聞いておくしかないようだ。

お嬢さまの膝の上に風呂敷に包まれた箱のようなものかあった。

「それはなんですか?」
わたしは訊いた。

「わたしの手作りのおせち料理よ」

「へえ。お嬢さまがお作りに?」

「そう。でも簡単なものよ。玉子焼きに紅白の蒲鉾に、手鞠寿司に黒豆。みな柔らかくて食べやすいものばかり」

「それは美味しそうですねえ」

「全部食べてくれなくてもいいの。開けて喜んでくれるだけでいいの」
その、お嬢さまの切羽詰まったお言葉に、胃がずしんと沈んだような気持ちになった。

病室へ着くと、エントランスにお嬢さまを降ろし、軽トラックを駐車場に停めてきた。

「野辺、正面からは入れないのよ。おっちょこちょいね」

「あ、裏口からですね。お寒い中お待たせして申し訳ありません」

裏口へ回ると、係の者が「元旦は本当は見舞いも受け付けないんですけどね」と不承不承といったかんじで我々を通してくれた。

中へ入り、進んでいくと、いつもの活気はなく、がらんどうといった病院内が静まり返っていた。
エレベーターで四階へ上がる。病室の前で立ち止まると、お嬢さまは神妙なお顔をなされた。

「いかがされましたか」

「ううん、お母さま、起きてらっしゃるかな、と思って」

「もし、眠っていらっしゃったらどうなさるおつもりですか?」

「うーん、帰るしかないわよねえ」

「ナースステーションに行って聞いてまいりましょうか」

「いいわ、寝てらしたらお母さまのお顔だけ見て帰りましょ」

「そうですね」
わたしはそういうが、お嬢さまはご不安そうなお顔をなさっておられる。

お嬢さまがドアをノックなさる。返事はない。
「開けるわよ」
お嬢さまがそっと引き戸をスライドさせる。
黄色いカーテンが閉じている。
お嬢さまがそれを引くと、ベッドの背中を上げ、寄りかかっている奥さまがいらした。窓の外に目を向け、こちらには気づいていない。

「お母さま」お嬢さまが声を掛ける。

「えっ?」と振り返った奥さまの耳にはイヤホンがはめられている。スマートフォンで音楽を聴いていらしたようだ。
奥さまはイヤホンを耳から外し、笑顔を向けられた。
「可愛いわね。あなたのお着物姿。一年ぶりに見たわ」

「お母さま、明けましておめでとう」
お嬢さまは奥さまの首に腕を回す。
奥さまは着物の手触りを確かめるように晴れ着を撫でる。

「ああ、そういえばきょうは元旦ね」

「ええ? 忘れていたの?」

「入院してると、日にちや曜日の感覚がわからなくなるの。いまが何月かもわからなくなってしまうのよ。あら、野辺も一緒なのね。本当にあなたたちは仲良しね」そしてふふっとお笑いになった。さらに頬がこけたように感じられる。

「奥さま、明けましておめでとうございます」

「明けましておめでとう、二人とも。その包みはなあに?」
奥さまはお嬢さまが手に握る風呂敷包みに目を向けられた。

「あ、そう。これね、おせち料理。わたしが作ったの」

「あらあら、それは嬉しいわ。開けてみていい?」

「いいわよ」
お嬢さまがつんと上向きになった鼻先をさらに上げる。
奥さまは青い血管が浮き上がり骨張った細い指で包みを開ける。右手側には点滴が繋がれている。
包みを開くと小さなお弁当箱がでてきた。蓋を持ち上げる。

「まあ、素敵。色とりどりで奇麗ね。食べてしまうのが勿体ないわ」

「そんなこといわないで、食べて。もしかしていま、お腹いっぱい?」

「お昼ごはん、あまり食べられなかったの」

「病院のご飯って美味しくないんでしょ?」

「そうね。あなたの手作りのおせち料理みたいにカラフルでもないしね」

「ほら、食べてよ、お母さま。全部は無理だとしてもすこしは食べられるでしょ?」

「ええ、いただくわ。寿のお箸もついているのね」
奥さまは笑みをたたえられた。箸をとり、玉子焼きをひとくち大に切る。それを小さく開けた口に持っていく。咀嚼される。

「どお? 玉子焼き」

「ええ、わたしの好きな甘めの味で美味しいわ」

「もっと食べて」

「はいはい。あ、黒豆も入っているのね。わたし、黒豆好きなの」

「知ってるわ、もちろん。だから入れてきたのよ」
お嬢さまは得意顔だ。

「美味しい。本当にありがとう。あなたはこんなに優しい娘に育ってくれたのね。神様に感謝しなくちゃ」
奥さまはわたしの目を見て、「野辺、くれぐれもこの子をよろしく頼むわね」とおっしゃった。

「はい、承知いたしております」
お嬢さまにはどのように聞こえたか推し測ることはできないが、まるでご遺言のようなそのお言葉を、わたしは正面から受け止めた。必ずや、お守りいたします、と。

半分残されたお弁当箱の包みを膝に乗せ、お嬢さまは助手席で俯いておられた。

「いかがされましたか」

「うん? うん······。なんだかお母さまの生気が弱まっているように思えて」

「そうですか? おせち料理、半分も召し上がったじゃありませんか。美味しい、美味しいって。奥さま、本当に嬉しそうでいらっしゃいましたよ。お嬢さまの晴れ着も眩しそうに見ていらっしゃいましたし」

「でも、これ以上痩せたらどうなるの、ってくらい痩せられてたし」
お嬢さまの俯く頬を涙が一筋流れて膝に落ちた。

「そうだ! お嬢さま、初詣に行かれませんか」

「いまから?」手の甲で涙を拭う。

「はい、松陰神社が比較的お近くにございます。吉田松陰が祀られている神社です。学問の神様ですが、構わないでしょう。そう大きくなく駐車場もありますので、初詣にはちょうどよいかと。いかがでしょう」

「うん! 行く! お母さまがよくなりますようにってお祈りしてくる!」
お嬢さまのお顔に笑みが戻られた。

「では、お参りしましょう」

松陰神社に着くと、駐車場には車の列が成していた。時間がかかるかもしれない、とお嬢さまにお伝えしたが、お嬢さまはまったく構わない、とお答えになった。
帯がきついのか、みぞおちばかりを気にされていた。

「苦しいですか?」

「ううん、だいじょうぶ。せっかく着たんだもの。なるべく長く着ていたいわ」

お嬢さまは我慢強い。わたしには経験することがないが、帯で胴を昆布巻きみたいにぐるぐる巻きにされるのだ。その苦しさは想像に容易い。

駐車できるまで三十分ほど待ち、やっと車を停めると、お嬢さまを軽トラックから降ろした。手を差し出すと、ジャンプするように降りる。
駐車場から前に回り、鳥居の前で一礼し、潜った。お嬢さまもわたしに倣い、一礼してから鳥居を潜った。

「中央は神様が通られるので、端を歩くのです」

「へえ、野辺って物知りなのね」

「ここまで生きているといろいろ経験します」

手水舎で手を洗う。お嬢さまもわたしに倣う。

拝殿も混んでいて、かなり並んだ。
寒風吹きすさぶ中、お嬢さまも我慢強く並ぶ。
ようやく順番が回ってくると、わたしはポケットから小銭を適当につかんで賽銭箱に投げ入れた。
ところが、横のお嬢さまを見やると、胸元から取りだしたポチ袋の中身、一万円札を賽銭箱にぽいと放り込んでしまったのだ。

「お嬢さま、そんな大金、大丈夫でございますか?」
わたしは焦った。お嬢さまのお顔はわたしの心配をよそにすっきりとされている。

「いいの。お母さまが長生きしてくださるなら、安いものよ。それに、わたしお財布持ってきて
いないし」
お嬢さまのいさぎのよさと、度量の大きさをはじめて知った。いいや、奥さまの命と天秤にかければ一万円札など、紙切れ同然なのだ。そもそも天秤にかけるものでもないが。

お嬢さまはわたしと共に鈴緒を引き、本坪鈴を鳴らし、二礼二拍手した。
二人で正面で祈った。わたしは一分くらい祈ったが、お嬢さまはいつまでも手を合わせ目を閉じておられた。三分ほど経っただろうか、後ろに並んでいる参拝者が怪訝そうにお嬢さまを見ていた。

やっと拝殿をあとにして、社務所に寄った。絵馬を欲しそうにしていらっしゃったので、わたしが買って差し上げた。

「ありがとう、野辺」
お嬢さまはさっそく長テーブルのところに行き、なにやらマジックペンで書いておられた。書き終わると、絵馬掛所の真ん中に絵馬を飾っていた。

「ねえ、おみくじ引かない?」

「はい、引きましょう」

わたしが二百円だし、それぞれ手を突っ込んで箱からおみくじを引いた。
わたしはすぐに開けて読んだ。
小吉で、書いてあることもさして驚くような文言もなく、当たり障りのないことだらけだった。

お嬢さまはおみくじをくるくる開いていくと、ぱあっとお顔を明るくなされた。
「大吉よ! お母さま、これで元気になられるわね」

「そうですねえ。必ずやお元気になられるでしょう」
そう答えてはいたが、腹の中では、現実にぶち当たったとき、このとき抱いていた希望を恨みやしないかと心配になった。

邸宅に車を着けると、お嬢さまはご自分でドアを開け、ぴょんと飛び降りた。

「上がっていくでしょ?」

「いえ、きょうはこれで失礼いたします」

「そう。野辺、きょうは付き合ってくれて本当にありがとう。それから······」
お嬢さまは言葉を濁らせた。

「では、ここで」
わたしはいいかけた。そのとき、吐き出すようにお嬢さまがおっしゃった。

「いつも傍にいてくれてありがとう」
頬を赤められている。

「いえ、なんでもないことでございます」
わたしも少々照れ臭かった。

「運転、気をつけて帰ってね」

「はい、ありがとうございます」



薔薇の休眠期は、たまの水やりと鉢植えの育成だけ気をつければいいので、あまりやることがない。
正月も七日間休みをもらい、自宅でのんびりとしていた。
つまらないテレビを観ながらビールを飲む。
わたしは旦那さまにいただいた十万円をどうするか考えていた。
すこし早い話だが、お嬢さまのお誕生日が二月にある。早生まれなので、今年で十三歳におなりになる。
なにかプレゼントでも差しあげようか。しかし、物欲のないお嬢さまのことだ。欲しいものなどないだろう。
中年男の選ぶものなど気に入らないにちがいないし。
わたしは座布団を二つに折り頭を預けた。よい案が浮かばない。
それとなく欲しいものを伺ってみよう。

冬休みも明け、出勤すると、なにやらお手伝いさんがばたばたと出入りしていた。
「では、行ってまいりますので。すぐに戻ります」

「どうされたのですか?」

お手伝いさんは、はっとわたしを見上げ、にこりとした。

「お嬢さまが初潮をお迎えになって、生理用ナプキンを買いに行くところなんです」

初潮? お嬢さまもいよいよ大人の仲間入りされたのか。ランドセルの頃から見ているので、感慨深い。

「お嬢さまはどうされているのですか?」

「はい、朝起きたらベッドのシーツが汚れていたので、かなりショックを受けられていて、学校を休まれ、いまはお部屋で横になっております。生理用ショーツと、あと下腹が痛むというので、専用の鎮痛剤も買ってこなければなりません。すみません、急ぎますのでこれで」

「ああ、はい。お気をつけて」

わたしは二階の南西の窓を見上げた。
こういうときは、女性はどのような心境なのだろうか。デリケートな問題なので、どのようにお声をお掛けしたらよろしいのだろうか。
もしかしたら、放っておいて欲しいのかもしれない。
ああ、奥さまさえいらっしゃれば。
お嬢さまもご不安にちがいない。

わたしは土に肥料をやりながら、そわそわとしていた。
下腹に痛みがあるというのでは、庭に降りてくることもあるまい。
恥ずかしがって、しばらく顔を合わせることもないかもしれない。
こんな中年男に祝福されても嬉しくないだろう。

午後一時に、食料品を乗せたバンが来て、大きな発泡スチロールの箱を持ち込んでいた。鮮魚だろうか。

三時の紅茶タイムに、お手伝いさんは「きょうは鯛の尾頭付きにお赤飯でお祝いするんです。野辺さんもご一緒にいかがですか」といった。

「しかし、お嬢さまはわたしなどに祝われても嬉しくないのではないですか」

「そんなことありませんよ。お嬢さまもきっと喜ばれるはずです」

「では、お嬢さまに、わたしも参加してよいのかどうか訊いてくださいますか?」

「わかりました。野辺さんも案外純情なのですね」
そういってお手伝いさんは小さく笑った。

わたしは庭にいても、きょうのところはもうやることがなく、軽トラックの運転席でスマートフォンをいじっていた。
ヒートテックを着込んでいるので、凍えるほどではなかったが、早く帰って暖かい部屋で熱燗でも飲みたかった。
お嬢さまのことは喜ばしいことだとは思うが、やはり家族でもない一介の庭師が祝いの席に同席するべきではないと考えた。
年頃の女の子は、そう単純ではないことだけは分かる。嬉しいとか、恥ずかしいとか、それだけで済む心情ではないだろう。
こんこん、窓がノックされた。お手伝いさんだ。
わたしは窓ガラスを下ろした。
「すみません。お嬢さまはナーバスになられていて、宴の席どころか、なんで野辺さんに初潮のことを教えたのかと非常にご立腹で」
お手伝いさんは困り顔だ。

「そうでしょう。わたしもそうだと思います。お嬢さまは繊細なお心の持ち主なので、なおのことそうでしょう。きょうはご家族だけでお祝いされてください。わたしはこれで失礼します」

「申し訳ありません」

「いえ、あなたのせいではないですよ」

「はい」お手伝いさんはわたしに向かって一礼した。

自宅に戻ると、狭いバスタブに湯を張り、熱い風呂に入った。
なぜだろう。きょうは自分の手がより汚く見え、ごしごしと何度も洗った。爪の間まで。
それでもまだ、自分は汚れていると鬱々たる気持ちになった。

お嬢さまは初潮を迎えられたことがよほどショックだったのか、翌日も学校を休まれた。
わたしはお嬢さまのお話相手の役割を当てられたことで、今年の冬は毎日こうして通っているが、その肝心のお嬢さまが外にお出にならないのだとしたら、わたしの役目も果たしようがない。
一月は元の週一に戻してもいいだろうと考えていた。
しかし、お嬢さまはきっと孤独を抱えていらっしゃるにちがいない。
わたしは自分の置かれた立場をもどかしく思った。
やはり、邸宅へはこれまでどおり、土日を挟んで毎日通うことにした。

翌日、お嬢さまは、無事に学校へ行かれたらしかった。
お手伝いさんがほっとしたように話していた。わたしも当然、ほっとした。生理がつづく間、病気でもないのにずっと休んでいるわけにはいかないと思い至ったのだろう。
お嬢さまの試練を思うと、直接励まして差し上げたくなるが、いまはわたしには向き合ってくださらない気がした。

きょうは旦那さまも仕事がお休みなのか家にいらした。

三時のお茶の時間になると、中へ上がるように旦那さまから命じられた。
わたしは作業用のジャンパーを脱ぎ、ホースで水をだし、手を丁寧に洗った。

リビングに通され、ソファへ座るように促された。
お手伝いさんが紅茶を持ってくる。

「娘が君にはひどく懐いているようだが、娘に振り回されて負担ではないかね」

「いいえ、とんでもありません。お嬢さまのお相手をするのはとても楽しいことです。とても純粋でいらっしゃるので、こちらまで心が洗われます」

「そうか。それならいいのだが。いや、家内にもしものことがあったら、支えてやってほしい」

「はい、充分に心得ております。奥さまにもそのように頼まれました」

「そうか、家内も同じ思いか」旦那さまは紅茶をひとくち啜る。「娘は友達が少ないようで、心開ける人間が限られている。仲の良い友達は数人いるらしいが、あまり人との交流を好まない」

「はい」話の先が見えず、わたしはただ頷いた。

「君は結婚する予定はないのかね」

突然プライベートなことに踏み込まれ、驚いた。
「いいえ、いまはとくに」

「付き合っている女性はいるのかね」

「いいえ」
なぜそのようなことを訊くのだろう。わたしは戸惑った。

「娘は初潮を迎えて、子供から大人になった。そういう変化にも特別扱いせず、これまでと変わらず接してほしい。君に我儘をぶつけることもあるかもしれんが、受け止めてやってほしい」

そういうことか。府に落ちた。
「わかりました」

「娘はわたしにはあまり甘えないのだよ。出張ばかりして家にいないのがよくないのはわかっているが。君のことは、もしかしたら身近な兄のように思っているのかもしれないな。だから、頼むよ」

「はい、心得ました」
おっしゃる意味はわかるが、どこか他力本願な気がした。
旦那さまはなぜ、お嬢さまに真正面からぶつかっていかないのだろう。ご自分の一人娘なのに。奥さまのことも一緒に乗り越えようとは思わないのだろうか。旦那さまの心理がよく理解できなかった。これではお嬢さまも甘えられないのは仕方ない。 

三時半になり、お嬢さまが学校からお戻りになった。リビングにいる旦那さまとわたしを捉えると、「ただいま」と固い笑みを向けた。

「おかえり。きょうはこれから出掛けるぞ」
旦那さまがお嬢さまに話しかけられた。

「え? どこへ?」

「そろそろ携帯電話が必要だろう。買いに行こう」

「ほんとう?」
お嬢さまのお顔が花でも咲いたように明るくなった。

「着替えておいで」

「わーい! すぐ着替えてくるわ!」
お嬢さまは階段をとんとんと駆けあがった。

やがて、グレーのジャンバースカートに黒いコートをお召しになってあらわれた。
「早く行きましょ」

「はいはい」旦那さまはダウンジャケットを羽織った。「では行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」
わたしとお手伝いさんは声を揃えた。

わたしは作業道具を軽トラックの荷台に積み、邸宅をあとにした。
携帯電話を持つようになれば、人との繋がりも広がっていくだろう。
友達との電話やライン、時間があっという間に過ぎていく。
もうわたしの出番などないだろう。そう思えた。

ところが、自宅に帰ると、わたしの携帯電話に知らない番号からの着信があり、でると耳にお嬢さまの甲高いお声が響いた。

「もしもし、野辺?」

「はい、そうですが」

「携帯電話、買ってもらったの。お父さまから野辺の番号を聞いて、一番に登録したのよ。開通記念に電話してみたの」

「そうでしたか。おめでとうございます。携帯電話デビューですね」

「えへへ。明日でいいからラインのアカウントの交換もしてね。ライン友達になってね」

「はい、了解しました」

「また電話してもいい?」

「はい。いつでもどうぞ」

「まだお店だから、じゃあね」
お嬢さまは声を張り上げ、そういって通話を切った。

正直、嬉しかった。
もちろん、お嬢さまの新しい携帯電話に一番に登録されたことがだ。
わたしの役目などもう終わりかと考えていたのがまったくの杞憂だった。
そう、奥さまからも旦那さまからも、お嬢さまのことはくれぐれも頼むといわれているのだ。
お守りせねば。
わたしは、丸めていた背中をしゃんと伸ばした。

毎晩ではないが、ときおり夜ご飯が終わった頃に、お嬢さまから電話が掛かってきた。
話すことはどうってことのない内容だったが。
夜ご飯はなにを食べたのか。いつも何時に寝るのか。テレビは面白いか。休日はなにをして過ごすのか。などなど。
わたしのプライベートはすっかり丸裸にされてしまった。

「野辺、夜ご飯カップ麺やコンビニのお弁当ばかり食べていて栄養が偏らない?」

「お昼の弁当はおかずも作っておりますので、大丈夫だと」

「わたしがお弁当作ってあげるわ」

「そんな、めっぽうもない。お嬢さまのご負担になります」

「ならないわよ。だってわたしのお弁当、お手伝いさんが作ってくれてるんだもの。それをちょっと拝借して作るから手はかからないわ」

「しかし······」わたしが言葉を濁していると、お嬢さまはおつづけになった。

「野辺の大好きなおにぎりも作るわ。いい? 明日からはお弁当持ってこなくてもいいからね。わかった?」

「は、はい。わかりました」

「じゃあお休みなさい」

「おやすみなさいませ」

翌日、正午になると、お手伝いさんが風呂敷に包まれたお弁当を持ってきてくれた。
「お嬢さまがお作りになったのですよ」ふふっと笑いを添える。
開けてみると、ミニトマトに玉子焼き。ピーマンの和え物。カラフルで可愛らしかった。大きなおにぎりも忘れていない。
 三時半に帰ってこられたお嬢さまは、門から入ってくるなりわたしに話しかけた。

「野辺、お弁当食べてくれた?」

「はい、ありがとうございます。大変美味しゅうございました」

「よかった。これから毎日作るからね」

「お嬢さまのご負担になりはしないでしょうか」

「ううん、誰かのためになにかをしたいの。そういうのを''徳を積む''っていうんですって。神様のご加護が得られるのよ。そうすればお母さまが早く元気になってほしいってお願いが通じるかもしれないでしょ」

どこまで純粋で健気なのだろう。わたしは感動さえ覚えた。
そういうことなら、とわたしもお嬢さまのご親切を感謝して承ることにした。
そして、お嬢さまの思いが神様に通じることを願った。

そんなお嬢さまの願いが通じたのか、奥さまが退院されることが決まった。
ところが、旦那さまの話では、もうあとの幾ばくもない余命を自宅で過ごすのが良い、と医師が判断したということらしかった。

お嬢さまはご自分のお誕生日を前に奥さまが家に戻られることをとても喜んでおられた。
そんなお嬢さまの前で沈んだ顔もしていられない。

「薔薇も来るべき春に備えて花を咲かせる準備をしてますよ。奥さまのご帰宅を待ち望んでいたかのように」

「庭が溢れちゃうくらいに薔薇を咲かせてね」

「かしこまりました」
わたしも自分に何回も言い聞かせて肝が座ってきたのか、お嬢さまの満面の笑みを真正面から受けとめた。
「新しく庭に植えつける薔薇もありますので、またいつもとちがった庭になります」

「そうなの? ねえ、それ、わたしにやらせてもらえない?」

「いや、お嬢さまのお手を汚させるわけにはまいりません」

「お母さまに、わたしが植えたのよ、っていいたいの」
お顔が蒸気されている。

「そういうことでしたら、お嬢さまにも植えていただきましょう」
予備の手袋をとってきますので、とわたしは軽トラックへ向かった。
わたしは我慢できずに流れる涙を拭いて、ゴムの手袋を掴んだ。

「お嬢さま、ご存知でしょうが薔薇は棘がございますので、くれぐれも扱いにはお気をつけてください」

「わかってるわ」
上向きの鼻先をさらにつんとさせる。

わたしは鉢で育てたフランシス・バーネットの苗の植えつけをお嬢さまにお任せした。
この花は小説「秘密の花園」の作者の名を冠したもので、淡いピンクの花弁は上品だ。
咲けば花弁が散りにくく、力強さを感じることができるだろう。

そのことをお教えすると、お嬢さまはおっしゃった。
「まさにお母さまへの贈り物にぴったりだわ」

庭のどこに植えつけるのか決め、土を掘った。
鋳物のテーブルセットからそう離れていない窓の手前だ。
そこならお茶を楽しむときによく見えるだろう。

鉢から苗を抜き、根をほぐした。根を広げて穴に苗をそっと置き、あまり強く押さえつけずに土と肥料と殺虫剤を撒いた。
お嬢さまは真剣なお顔だ。
不要な枝の剪定はもう済んでいるので、あとはたっぷりと水を与える。
これからどんどん新芽がでて、枝が伸びる。どの枝がシュートで、どの枝が切り戻す枝なのか、これからお教えしないとならない。花が咲くのがとても楽しみだ。
とりあえず、庭への植えつけは終えたので、きょうのところは、お部屋に上がっていただいた。

奥さまがいよいよ退院なされた。
いつかのワンボックスカーで車椅子ごと乗って帰られた。
午前中に帰られたので、冬の頼りなげな日差しの中、すっかり葉が落ちている薔薇たちの姿に、どこか寂しそうにされていた。

「お帰りなさいませ、奥さま」
わたしは玄関周りにパンジーやヴィオラ、マーガレットなどをささやかに植え、奥さまのお出迎えをした。

それにお気づきになった奥さまは、「まあ、可愛らしいわね」とずいぶん痩せこけた頬を緩められた。
「ああ、帰ってきたのね。自分の家なのになんだかすごく懐かしい気がするわ」

「ほっとされますでしょう?」前回の一時退院のときと同じ介護士が車椅子を押す。

あとから来られた旦那さまが紙袋をふたつぶら下げておられる。奥さまの着替えや日用品だろう。
「さあ、寒いから早く中へ入ろう」

わたしは枯れ落ちた葉を箒で掃いていた。そんなわたしに旦那さまが声をかけてくださった。

「野辺、君も上がってくれ」

「はい」
すこし胃が重たくなった。また、今後のためのミーティングだろう。

リビングへ上がると、奥さまはお部屋で休まれているらしく、お手伝いさんとわたしが旦那さまの向かいのソファに座った。
じりじりとした音が耳鳴りのように鳴っていた。
旦那さまが重苦しく話し出した。
「家内は、この冬を乗り越えられるかどうか、というのが医師の見立てだ。娘には当然秘密にしてほしい」

「しかし、賢いお嬢さまのことですから、勘づいていらっしゃるかもしれません」
わたしは感じたことを口にした。

「そうかもしれんな」

「でしたら、打ち明けてお嬢さまが奥さまと残りの時間を濃密に過ごせるようにしてさしあげては」

「それはならん。娘は我儘もいわずに気丈に振る舞っている。それもこれも母親のためだということを忘れてはならん。ここで打ち明けては張っていた気が一気に崩れると思うのだ」

なるほど、そうかもしれない。わたしは同意を示すように黙って頷いた。

「では、ごく自然に振る舞ってくれたまえ」

「はい」
わたしとお手伝いさんは席を立った。

午後の二時頃、奥さまは介護士の押す車椅子に乗って庭へでてこられた。
わたしは新株の植えつけを行っていた。

「野辺、なにをしているの?」
奥さまが背後から声をかけてこられた。

「はい、新しい薔薇を庭に植えつけをしておりました」

「新しい薔薇?」

「はい、これでさらに賑やかになります」

「そう。あのね、訊きたいことがあるの」

「はい、なんでございますか?」
わたしは屈んでいた姿勢から立ち上がり奥さまの方へ向き直った。

「もうすぐあの子のお誕生日でしょ」

「はい、そうでございますね」

「それでね、あの子は何が欲しいのか、仲良しのあなたならわかるかしらと思って」

「ええっと、そうですねえ。物や金銭などには執着がございませんので、ご家族のみなさまでパーティーでも催して差し上げたらよろしいのではないでしょうか」

「パーティー! いいわね! ごちそうに大きなケーキ。野辺も参加してくれるでしょ?」

「いや、わたくしなどが」
わたしがいい淀んでいると、奥さまはきっぱりとおっしゃられた。

「野辺はあの子の一番のお友達だから、ぜひ参加して」

お友達、か。そうおっしゃられると悪い気はしない。
「わかりました。では参加させていただきます。ただし、条件がございます」

「なあに?」

「奥さまのご体調もございますので、奥さまは短時間で切り上げてくださいませ」

「わかったわ。わたしもあまり体力に自信がないからそうするわ」

「では、お寒いのでもうお部屋に上がってください」

ふふふ、と奥さまがお笑いになった。

「いかがされましたか?」
わたしは尋ねる。

「いえ、あの子があなたを慕う理由がすこしわかる気がするわ」

そうおっしゃって、奥さまはにこやかにお部屋に上がっていかれた。
わたしは、奥さまが言い残した言葉について考えてみた。
でも、さっぱりわからなかった。


それから数日雪が降り、わたしは仕事にならないので休まざるを得なかった。
暑さ寒さにも耐えてこその本当の強い薔薇だ。

そんな世界が白い朝、奥さまから電話を頂戴した。
「あのね、クリスマスローズってお花、手に入らないかしら。娘のお誕生日プレゼントにしたいの」

「はい、わかりました。探してみます」

「花言葉がね、わたしを忘れないで、っていうらしいの」

わたしは言葉に詰まった。
「奥さま」

「大丈夫。わたしはまだ生きるわ」
その言葉は、吐く息に任せてだしたようなものだった。お体が弱っているのか。

数日後、雪が止んだので、出勤した。
軽トラックから降り、門扉を開けると、顔に何かが当たった。
冷たい。雪だ。
「どこの悪い子の仕業ですか?」
わたしは顔についた雪をジャンパーの袖で拭ってにらみを利かせた。
雪玉が飛んでくる。わたしはそれらを払いのけ、いたずらっ子を捉えた。
お嬢さまはダウンコートに耳当てと手袋をつけ、寒さ対策は万全だ。
それならば、とわたしも足元の雪をすくい、丸めて投げた。
お嬢さまはきゃらきゃらと笑っておられる。

「学校は行かなくてよろしいのですか?」雪玉をよける。

「受験休みよ」

「ああ、きょうから二月でしたね」
受験休みとは、小中学から入学を希望する一般の幼稚園児、小学校六年生のための受験だ。二月から数日間かけて行われる。その間、生徒は休みになる。
わたしも雪玉を投げる。

お嬢さまの口から吐く息が白い。
突然、お嬢さまの動きが止まった。

「いかがされましたか?」

お嬢さまは神妙なお顔をされている。
「お母さまの具合が良くないの」

「奥さまの?」

「昨日の夜から、ご飯も食べられないし、頭が痛いって辛そうで、ベッドからでられないの」

「そうでしたか」

「わたしのお誕生日、パーティー開いてくれるって約束したのに。お母さまに何かあったらどうしよう」
お嬢さまは泣きだした。

わたしはお嬢さまの元に寄り、肩に手を置いた。
「大丈夫です。きっとこの寒さのせいです。温かくなれば良くなります。信じましょう」

お嬢さまがわたしの腰に腕を回した。わたしはその小さな背中をさすった。

あらためて見回すと、庭は一面、白い絨毯で覆われていた。
わたしの住む町よりずっと降ったようだ。
きょうはよく晴れていて、雪の表面に陽光が降り注ぎ、きらきらと光を散らしていた。

「大丈夫です。お嬢さま。信じましょう」



わたしは生協の生花コーナーでクリスマスローズを探していた。
花弁も結構さまざまな色があり、アンティークな雰囲気の紫、可愛らしいピンク、清楚な白、珍しい緑色まで。
わたしはピンクと白色の苗を選んだ。
あとは鉢を選ぶだけだ。
花の色を邪魔しない焼き物の鉢を買った。
アパートに帰り、床に新聞紙を広げると、そこで作業をした。この花は毒性があるのでゴム手袋をはめる。鉢底に大粒のパーライトを敷き、その上に培養土を入れ、苗の土をほぐし、根を広げ、ピンクの花を内側に、白の花を外側にくるように植えた。そして土に活力剤を撒いた。
しばらくお部屋で観賞されたら、庭に植えつけてもよいな、と思った。その方が長持ちする。お嬢さまが花の毒に触らないとは限らないし。まあそれもお嬢さまとのご相談にもよるが。
お嬢さまのお誕生日まで、あと五日。
奥さまのご体調が気にかかる。

翌日、出勤すると、お嬢さまが玄関からでてこられた。その口元には笑みが湛えられている。

「おはよう、野辺」

「おはようございます、お嬢さま。奥さまのお加減はいかがですか」

「うん、すこし楽になったみたい」

「そうでございますか。それはよかったですね」

「でもね、お父さまがパーティーは無理だろうって。中止もやむを得ないって」

「それはお寂しいことですね。まだ四日ありますのに」

「仕方ないわ。お母さまに無理をさせるわけにはいかないもの」

わたしの中に、ひとつの案が湧いた。そのためには旦那さまにオーケーをもらう必要があるが。

三時に紅茶を運んでくれたお手伝いさんに、わたしは訊いてみた。
「旦那さまは?」

「はい、書斎でお仕事をなさっておいでですが、なにか」

「ひとつ、ご相談がありまして。お仕事が片付いたらでよろしいので、お話を聞いていただけないかと。お伝え願いますでしょうか」

「ええ、わかりました。お伝えします」

「よろしくお願いいたします」

しばらく紅茶を啜っていると、まだ受験休みのお嬢さまがひょっこりと顔をだした。わたしの向かいに座り、頬杖をつく。

「野辺」

「はい」

「きょうのマドレーヌ、わたしが作ったのよ」

「本当でございますか? いまいただきましたが、大変美味しゅうございました。てっきり買われたものかと」

「ほんと?」

「はい」

「お父さまになんのお話があるの?」
話を聞かれていたようだ。

「それは、まだ秘密です」

「なによぉ、けち」頬を膨らませている。

「お嬢さま、宿題などはお済みですか」

「もう終わったわ。わたし、成績いいのよ」

「はい、もちろん存じております」

「誰に聞いたの?」

「奥さまでございます。お嬢さまはがりがりとお勉強をなさるわけではないのに、成績がとてもよいのだ、とさもご自分のことのように嬉しそうにおっしゃっていました」

「テスト勉強なんてするのは普段授業を聞いていない証拠だわ」

「それは耳が痛い。わたしはいまでも徹夜でテスト勉強をしても0点をもらう悪夢にうなされております」

「0点なんかとってたの?」

「いえ、現実にはないのですが、なぜか夢に見るのです」

「野辺って劣等感を持ってるのね」

「劣等感の塊です」

「うそよ。野辺は学級委員タイプよ」

「わたしがですか?」

「そう、みんなを引っ張る学級委員」

お嬢さまの目にはわたしはいったいどう映っているのだろうか。でも、悪い気はしない。

そのとき、お手伝いさんが扉を開けて顔を覗かせた。
「野辺さん、旦那さまがお呼びです」

「はい、いままいります」

「わたしもいく!」お嬢さまはすがるような目をされている。奥さまについての話でもするのかと思われているのだろうか。

「お嬢さまはピアノの練習でもされててください」わたしは努めて優しくいった。

「どうしてわたしを邪魔にするの?」

「あとで、きっと良い報告ができると思いますよ。期待してお待ちください」

わたしは玄関から上がり、リビングへ入った。
旦那さまは一人掛けのソファに座り、向かいのソファに座るように手で示した。
わたしがソファに座ると、お手伝いさんがコーヒーを持ってきてくれた。香りが芳しい。

コーヒーカップを持ち上げ、ひとくち啜り、旦那さまは口を開いた。
「話とはなんだね」

「お嬢さまのお誕生日パーティーは中止になさるおつもりですか」

「やむを得ん。家内が起き上がれないのだから」

「奥さまからお嬢さまへのプレゼントをお預かりしています。それにケーキにロウソク立てて息を吹きかける儀式もお嬢さまにとりましては楽しみにされていたことと存じます」

「まあ、そうだろうな」

二階から気怠いピアノの音が聴こえてくる。
「そこでなのですが、お誕生日当日、お嬢さまを二、三時間お借りしたいのです」

「どういうことかね?」

「わたしの狭いアパートなんかで恐縮ですが、お誕生日パーティーを開いて差し上げたいのです」

旦那さまは眉間に皺を寄せ、顎に手を当てた。
「しかし······君は信用しとるよ。娘も懐いていることだし。しかし、男のアパートに娘ひとりで行かせるのもなあ」

「それなら運転手も一緒ではだめでしょうか。ケーキも用意し、奥さまからのプレゼントを手渡す。二、三時間で事足りると存じます。もちろん送迎は運転手にお願いして。だめでしょうか」

「その家内からのプレゼントというのは何だ?」

「はい、季節の花です。奥さまに以来を受けまして、わたしが買い求め、鉢に植えました。花言葉が、''わたしを忘れないで''、というものらしいのです」

「それを家内が······」

「これに限っては、絶対にお渡ししないとなりません。奥さまのお嬢さまへの想いでございますので」

「そうだな。何から何まで、本当にすまない」

「いえ、では承諾していただけるのですね」

「ああ、娘を楽しませてやってくれ」

「ご理解いただき、ありがとうございます」

わたしはコーヒーを飲み干し、旦那さまにお礼をいって庭へ戻った。

話が終わったことを察してお嬢さまはわたしの元にやってきた。

「良い報告、できそう?」

「はい、もちろんです」

「なあに?」

「お嬢さまのお誕生日に······」

そのとき、お手伝いさんが庭のお嬢さまを呼んだ。声のトーンが尋常ではない。
まさか、奥さまに······。
「奥さまが、奥さまが。お嬢さまいらしてください」

「えっ?」お嬢さまは振り向いて走っていかれた。

わたしは庭で立ち尽くしていた。わたしも駆けつけたい思いだったが、奥さまが呼ばれたのはお嬢さまなので、それもかなわなかった。
とりあえず庭を回り、雪を被る薔薇たちを見て歩いた。雪を払うと、充分に勢いを保った枝たちが姿を見せる。
もうすこしで春だ。春になったら一斉に咲き誇ってくれ。わたしは祈った。それまで、奥さまも······。

それから十五分ほど経ったころだろうか。門に車が一台停まり、白衣を着た初老の男がでてきて屋敷内に入っていった。
わたしは覚悟した。
なにもできないのがもどかしかった。
お嬢さまは奥さまの最期のときに立ち会い、なにを思っていらっしゃるだろうか。
傍にいて差し上げたい。
しかし、それもかなわない。
これから、お嬢さまは母親のいない生活を送っていかなければならない。
それには強さが必要だろう。
お嬢さまは充分にお強い。
しかし、同性の親でないと話せないこともあるだろう。
そんなとき、お嬢さまは誰を頼ればいいのだろうか。
ああ、お可哀想なお嬢さま。
わたしがお守りして差し上げたい。
女心など知らないわたしではなんの頼りにもならないだろうが。

どれほど経っただろうか。三十分だろうか。一時間だろうか。陽が落ちかけていた。西の空にピンクやバープルのグラデーションができていて、奇麗だった。
お手伝いさんが玄関の扉を開けてでてきた。
その顔は悲壮なものだった。
そして、わたしを見て、黙って首を振った。

とうとうそのときが来てしまったのだ。
奥さまはお辛い闘病から解放されたのだ。
唯一のお心残りはお嬢さまのことにちがいない。
さぞ、無念であったことだろう。

ここからはご家族の時間だ。
わたしは屋敷に向かって手を合わせ、軽トラックのエンジンをかけ、家路に着いた。

晩ご飯などろくに喉を通らなかったが、コップ一杯の日本酒を空に向かって献杯し、飲んだ。
そのまま酔いが回ってこたつでうとうとしていると、携帯の電話着信の音で目が覚めた。表示を見るとお嬢さまからのようだ。

「はい」
電話にでるなり、お嬢さまは喋りたてた。

「野辺、どうして黙って帰っちゃったの? わたし、庭中探したんだからね。野辺に傍にいてほしくて、一人で寂しくて」
お嬢さまは嗚咽された。
「お母さま、白いお着物着て、棺に入ってしまったの。だから、お母さまが、寂しくないように、って傍にいるの」

「そうですか」
それ以上の言葉がでてこない。

「ねえ、明日のお通夜は来てくれるんでしょ?」

「もちろんです。昼頃からお手伝いに上がります」

「よかった。野辺がいてくれるなら心強いわ」

「では、明日」

「かならず来てよ」

奥さまからお願いされていたお嬢さまへのお誕生日プレゼント。いつ渡したらよいのだろうか。
すくなくとも告別式が終わってお骨になったあとの方がいいだろう。
ばたばたした中で鉢植えをもらってもどうしようもない。
タイミングを計らねば。

それからわたしは洋服タンスを開けて、黒いスーツをだし、白いワイシャツと黒いネクタイと数珠を探した。
白いワイシャツは最後に着たのはいつだったか、クリーニングの袋に入れっぱなしになっていた。
黒いネクタイは皺が寄っていたのでアイロン掛けが必要だった。
数珠は引き出しに入っていた。
これで準備は整ったので、風呂に入って眠ることにした。
布団を敷き、目覚まし時計を八時に掛ける。
枕に頭をつけたところで、携帯に電話着信があった。誰だかは想像がついた。表示された名前もその通りだ。
「はい」

「あのね、ずっとお母さまとお話ししてるの」

「はい」

「わたしね、お母さまから愛してるっていわれたことがないの」

「そうなんですか?」

「でもね、わたしはお母さまからいっぱい愛情をもらったの」

「はい」

「赤ちゃんのころからのアルバムには、お母さまのひとことが必ず添えてあるの。きょうはつかまり立ちができるようになったね、とか、まあまっていってくれたね、とか」

「そうですか」

「あとね、ピアノの発表会があると、必ず新しいワンピースを作ってくれたの。リボンが付いたものや、フリルが付いたもの。全部お母さまがデザインしたんだって」

「可愛らしいワンピース姿、わたしも覚えておりますよ。奥さまと手をお繋ぎになって、晴々しく出掛けられるお姿、忘れません」

「あのね、わたしね、まだ信じられないの。お母さま、お化粧して、奇麗で、いまにも目を覚ましそうで、わたしの名前を呼んでくれそうで······」
最後の方は嗚咽で聞き取れなかった。嗚咽はやがて叫びになった。
「お母さま、死んじゃった! ねえ、起こしても起きてくれないの! なんで死んじゃったの? どうしてお母さまなの? わたし、まだ髪の毛伸びてないの! 間に合わなかった! わたしが植えたバラも······」
そのあとは、わんわんとした泣き声がつづき、しばらく止むことはなかった。わたしはお嬢さまが泣き止むまで待つつもりだった。ところが、ピピピと音が鳴り、唐突に通話が切れた。お嬢さまの携帯のバッテリーが無くなったのだろう。
わたしは邸宅まで駆けつけようか、それともお嬢さまと奥さまのお話を邪魔しないようにそっとしておこうか、迷った。
迷った末に、駆けつけたい衝動を押し留めた。
お嬢さまには、充分に母親の死を悼んでほしかった。
いい残したことなんて、あとで思い返せばいくらでもでてくるだろう。でも、そのときに辛い思いをしないように、いまは悔いの残らぬよう思い切り悲しみ、語り合ってほしい。それができる時間がいまなのだから。

翌日、邸宅には電車とタクシーで向かった。車で訪れる弔問客もいるだろうからだ。軽トラックが門の前に停まっていたら邪魔だろう。
邸宅に着くと、もうすでに黒と白の幕が張られ花輪がいくつか届いていた。
トラックから弔問客への返礼品の小さな紙袋が運び込まれている。こういうときの葬儀社の動きは素早いものだ。どうやらわたしの出番など無さそうだ。車庫へ回ると、黒い車が停まっていて、中で運転手が携帯電話を手に暇を潰していた。
窓をノックすると、するすると窓が開き、運転手が顔をだした。
「なにか手伝えることはないかとやってきたんですが、なにも無さそうですね」

「わたしは電車で来られる弔問客の送迎を任されているんですが、通夜は夜の六時からですし、早く来すぎたなと後悔してます」

「まあ、なにかできることを探してみます」

「ご苦労様です」

邸宅に上がると、まず旦那さまを探した。旦那さまはダイニングにいらした。声をお掛けすると振り向かれた。

「あ、野辺くん、来てくれたんだね」

「はい、なにかお手伝い致しましょうか」

「いや、台所関係は身内がしてくれるし、あとの準備は葬儀社がぜんぶやってくれるんだよ」

「そうですか」

「あ、そうそう。娘がずっと棺に張り付いて食事も睡眠もまともにとっていないんだ。娘のことは君が扱い方を知っているだろう。任せるよ」

「かしこまりました」
わたしはお手伝いさんを探した。台所には黒い服に白いエプロンをした親戚らしき女性が数人で働いている。その中にお手伝いさんはいない。仕方がないので、その方たちに声を掛けた。

「すみません。お忙しいところ申し訳ないのですが、お嬢さまが召し上がれるようなものを用意していただけますか」

「テーブルにおにぎりが乗ったお皿があるはずです。朝も食べなかったものですから、どうぞ持っていってあげてください」一人の年配の女性がいった。

「ありがとうございます」
わたしはおにぎりのお皿を手に、和室に向かった。線香の匂いが立ち込めている。和室には、棺が横たわり、お嬢さまが黒いワンピース姿で棺に被さるように座っていた。
和室に入る前に膝をついて一礼した。それから畳に上がり、正座をして棺に向かい手を合わせた。
おにぎりのお皿をお嬢さまの脇に置き、声を掛けた。
「お嬢さま、お食べください」

お嬢さまは眠られていたようで、目をしばたたかせながら顔を上げられた。
そしてわたしを見るなり、抱きついてきた。
「野辺! 野辺! どうしてもっと早く来てくれなかったの?」

「遅くなり、申し訳こざいません。お嬢さま、なにも召し上がっていらっしゃらないようですが、奥さまがご心配されますよ」

「お母さまが?」
そういうお嬢さまの目は、ずいぶん泣いたのか浮腫んでいる。

「そうです。奥さまが困っていらっしゃいます。ご自分のせいで食事をとらなくなった、と」

「だって、食べたくない」

「おにぎりがお嫌でしたら、わたしがカツ丼でもお作りしましょうか」

「カツ丼なんて、もっと無理よ」
お嬢さまが小さく微笑まれた。

「では、プリンなどでしたら召し上がれますか」

「うん、たぶん」

「では、少々お待ちを」
わたしが席を立つと、お嬢さまは慌てられた。

「どこ行くの?」

「ちゃちゃっとプリンを拵えてまいります」

「すぐに戻ってきてね」

わたしは外にでて、車庫に回り、運転手に事情を話し、コンビニでプリンを買ってきてもらえるよう頼んだ。

「わかりました」

運転手が車庫から車をだすのを見届けて、また和室へ戻った。

「早かったのね。プリンできたの?」

「いや、いま蒸して冷蔵庫で冷やしてございます」

お嬢さまは棺に手をかけ、
「ねえ、お母さまのお顔、奇麗でしょ?」

「はい」
覗き込むと、お嬢さまがプレゼントされた帽子を被り、白い着物を着せられ顔には化粧を施された奥さまが横たわっていた。鼻筋が通り、形のよい唇には淡いピンクのルージュが引かれ、たしかにお美しい。

「頬に触ってみて」

「え? わたしがですか?」

「そうよ。触ってあげて」

わたしは身を乗りだし、棺の中へ手を入れた。保冷剤が効いているから中はひんやりとした。
奥さまの頬に手を触れてみると、冷たい石を求肥で包んだような感触があった。この感覚は覚えがある。高校生のときに母親が死んだ際に、やはり頬を撫で、同じ感覚を味わった。
ああ、わたしの母が生きていたらいまごろ何歳になっているだろう。わたしはとくに泣くこともなくこれまでを生きてきたが、急に母親が恋しいと思った。

「冷たいでしょ」

「そうでございますね」

「わたし、人が死ぬとこんなに固く冷たくなるなんて想像もしなかった。お母さまはいつまでも温かくて柔らかい人なんだって思ってたわ。これが死なのね」

「奥さまとの語らいはもうよろしいのですか」

「うん。野辺が作ってくれるプリン食べたらまた、お母さまとお話しするわ。それまで野辺とお喋りする」

「はい」

「ねえ、これ」
お嬢さまは脇に置いておいたものをわたしの方へ差し出した。
それは、薔薇の表紙の分厚いノートにオレンジ色の万年筆だった。

「これは······」

「そう、二人でクリスマスにプレゼントした奇跡の日記セット」

「中身はご覧になられたんですか」

「ちょこっとね。まだ辛いからきちんとは読めないけど。最後のページにね、ほら見て」

お嬢さまが日記をめくると、いつか庭で見つけた四つ葉のクローバーを栞にしたものが挟まれてあった。そのページは白紙だった。

「大切に使ってくださっていたんですね」

「ねえ、これ、棺に入れた方がいいかしら。それともわたしが持っていていいかしら」

どちらでも、と答えそうになり、この問題は二人で考えないといけないような気がしてやめた。

「お嬢さまの良い思い出になりそうなら棺へ、形見として遺していたいのならお持ちになってもよいかと思います。お嬢さまはどうされたいですか?」

「お母さまにあげたものだから、天国でも日記を書きつづけてもらおうかしら。どう思う?」

「わたしもそれがよろしいかと思います」

「よかった。相談して」
お嬢さまは薄い笑みを浮かべられた。

「野辺さあん」
玄関ホールで運転手の声が響いた。わたしは慌てて駆け寄った。口に人差し指を当てて。運転手も咄嗟に声量を落とした。
「買ってきましたよ」

「ありがとう。ん? これはプッチンプリンではないか」

「え、不味かったですか」

「まあ、いい。ありがとう」

わたしはプッチンプリンを台所へ持っていき、器を探した。ガラスの平皿があった。そこにプッチンプリンを落とし、スプーンを添えた。

トレイに乗せて持っていくと、「さあ、召し上がれ」とお嬢さまにトレイごと手渡した。

お嬢さまはそれを見るなり、口角を上げた。
「野辺が蒸して冷やして作ったプリンね。いただきます」

プリンを残さず腹に入れ、お嬢さまはまた棺に覆い被さった。
「野辺が作ってくれたプリンを食べたのよ。プッチンプリンそっくりだったけど、気にしないわ」

わたしは無言を貫き通した。

「お母さま、わたしね、まだ泣き足りないけど、お葬式が終わったら、もう泣かないからね。お母さまが最期まで笑っていたように、わたしも笑うから。だから、いまは泣かせて」
そして突っ伏して静かに泣いた。

                     

奥さまがお骨になり、仏壇にご遺影と共に飾られた。
旦那さまとお嬢さまも日常を取り戻しつつあった。
そろそろ奥さまからのお嬢さまへのプレゼントを渡す日が来たな、と思いわたしは大事に世話をしてきたクリスマスローズの鉢植えを持ってきた。

わたしは庭で新しい苗の植えつけ作業をしていた。
お嬢さまが植えたフランシス・バーネットの手入れも欠かせない。奥さまには見てもらえなかったのは残念だが。
お手伝いさんが紅茶を運んでくる。
もう三時か。もうすぐお嬢さまがお帰りになる時間だ。
「お嬢さま、まだ悲しいでしょうに、気丈に明るく振る舞っていらっしゃって。見ているこちらが涙を誘われます」

「そこがお嬢さまの強みでもありウイークポイントでもあるのです。いくらしっかりされていても、まだ十三歳。もろい部分も大きいかと思われます」

「お気持ちの吐き出し口があればいいんですけど」
お手伝いさんはそういい残して部屋へ戻った。

きょうの紅茶のフレーバーは味わう余裕がなかった。
お嬢さまになんといってプレゼントをお渡しすればよいのか、考えあぐねていた。
あまり言葉を飾るのは野暮な演出だと思った。
それにわたしにそんなテクニックは持ち合わせていない。
奥さまに伝えられたお気持ちのままにいこう。

門の外に車が寄せられた。お嬢さまが降りてくる。
「野辺、ただいま」お嬢さまが微笑む。

「おかえりなさいませ、お嬢さま」わたしは努めて明るく返す。

「お母さまに手を合わせて着替えたら下りてくるわね」

「はい、お待ちしております」

お嬢さまのことだ、奥さまに朝からたどって一日を振り返り報告しておられるにちがいない。ずいぶん時間がかかった。

セーターとジーンズ、ダウンコート姿で庭に下りてこられたお嬢さまは、手に湯気の立ったココアのカップを持っている。
しばらくそれを啜っているのを待った。

「野辺、なんか隠し事があるでしょ」
お嬢さまがにらみを利かせた。さすが鋭い。わたしの心の揺れなど全部お見通しなのだ。

「実はこれを」
わたしは足元に置いていた鉢植えをテーブルに置いた。

「うわあ、可愛らしい花ね。なあに、これ」

「はい、この花はクリスマスローズといいまして、奥さまがお嬢さまへのお誕生日プレゼントにと用意されていたものです」

「お母さまが?」
お嬢さまのお顔が曇った。

「このクリスマスローズにはとある花言葉がございます」
わたしはすこし間を置いた。
「わたしを忘れないで、というものです」

お嬢さまの目にはみるみるうちに涙が溜まった。それが一筋二筋頬に流れ落ちた。
「お母さま、わたしが、お母さまのこと、忘れることなんか、あるはずないのに」
しゃくりあげながら、お嬢さまはやっと口にされる。

「お嬢さまには、お元気だった頃の奥さまのお姿を覚えていてほしいのだと思います」

「もちろんよ。わたし、お母さまの優しい笑顔しか、思い浮かばないわ」

「わたしもです」

「野辺」

「はい」

「膝を貸してくれる?」

「はい」

「泣いていい?」

「涙は我慢すると心が壊れてしまいます。思い切りお泣きください」

お嬢さまはわたしの膝に顔を埋め、堰を切ったように激しく泣いた。
紅茶を下げにでてきたお手伝いさんがぎょっとしたように我々を見ていたが、わたしはいまは近寄らないように手で制した。



もうすぐ春の薔薇が蕾を膨らませる頃だ。
庭が賑やかになったら、奥さまも天国から降りて来られるだろうか。

四十九日の法要も終わり、春休みも明け、お嬢さまもいよいよ中学二年生におなりになった。
すこし背がお伸びになった気がする。胸もやや膨らみを帯び、ご自分でも気にされているのか、そうそうわたしに抱きついてくることもなくなっていた。
寂しくないといえば嘘になる。
しかし、お嬢さまの日に日に明るくなっていく笑顔を見ることができるだけでわたしは満足だ。
お笑いになると、頬にえくぼができる。相変わらずのそばかすも。つんと上向きの鼻先も。これからどんどん大人びてこられるのだろう。

いつか、陽射しを浴びた薔薇のように華やかな女性になられることだろう。
奥さまともお約束した。わたしはそのときまでそっと後ろからお守りしたいと思っている。
影のように。




                  完


参考文献 :
「新しいバラ」木村卓功著 NHK出版
「はじめてのバラ」松尾祐樹著 NHK出版










































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