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ジョン・ケージ論(3)

易経から禅へ


(前)

 初期の作品から沈黙を素材として用いてきたケージだが、『4分33秒』に至って沈黙は作曲者による操作の対象ではなく、作曲者の意図を離れた音として扱われている。そして同時期のレクチャーを参照すると、ケージの関心がキリスト教神秘主義やヒンドゥー藝術理論における無や平穏から、禅仏教における無心と融通無礙へ移っていることが窺える。ケージが初めて禅について言及したのは、1951年の「何かについてのレクチャー」であった。

すべての物事は等しく仏陀の性質*1を持っているため成功や失敗を語ることができない。この事実を知らないことだけが悟りを得るための妨げとなる。悟りを得ることは気味の悪い非現実的な状態ではない。禅を学ぶ前人は人であり山は山である。禅を学んでいる間、物事は混乱する。禅を学んだ後人は人であり山は山である。執着がなくなったことを除けば違いはない。こうした思想について議論していると時としてこう言う人たちがいる。「たいへん結構です、でも役には立ちません。東洋のですから」。(現実にはもはや東洋と西洋の問題はなくなっている。すべてが速やかに消えていく。バッキー・フラーはよく好んでこう指摘した。東洋の風に乗った動きと西洋の風に向かう動きがアメリカで出会い空中に向けて一つの動きを生んだ――すなわち我々を支える空間、沈黙、無である。)

Cage, 'Lecture on something,' in "Silence," p. 143, 柿沼訳,「何かについてのレクチャー」, ibid., pp. 255-256.


 ケージがこのレクチャーを書いたのは、彼が鈴木大拙に禅を教わる前のことであるが、コロンビア大学で鈴木の講義を受けてからケージの禅仏教についての言及は増え、また鈴木を生涯尊敬しつづけた。

 唐代の禅僧である黃檗希運の『傳心法要』によれば、無心とは一切の心がないこと*2であり、主体や実体としての自我の存在を否定するものである。ただそのことに気づくことができれば、衆生と仏とに区別はなく、無心を得ればそれ以上さらに修すべきものはないという。すなわち「仏陀の性質〔仏性〕」は自らの中にあるのであって、それを外部に求めることは誤った修行のしかたである。

學道の人、若し直下に無心ならずむば、累劫修行すとも終に道を成ぜず、三乘の功行に拘繫せられて、解脫を得ず。然して此の心を證するに遲疾有り、法を聞いて一念に便ち無心を得る者有り、十信十住十行十廻向に至って無心を得る者有り、十地に至って無心を得る者有り、長にても短にても無心を得れば乃ち住む、更に修すべき證すべき無し。 […] 一念にして得ると十地にして得るとは功用恰齊して更に深淺無し。ただ是れ歷劫枉げて辛勤を受くるのみ。惡を造り善を造るはみな是れ著相なり。相に著して惡を造らば枉げて輪廻を受け、相に著して善を造らば枉げて勞苦を受く。總て言下に便ち自ら本法を認取せむに如かず。此の法卽ち心なり、心外に法無し。此の心卽ち法なり。法外に心無し。

黃檗、『傳心法要』、前掲宇井譯注、岩波文庫、p. 12.

學道の人、疑ふこと莫れ、四大*3を身と爲せば、四大我無く、我も亦た主無し。故に知んぬ、此の身我無く亦た主も無きことを。五陰*4を心と爲せば、五陰我無く亦た主無し。故に知んぬ、此の心我無く亦た主も無きことを、六根六塵六識*5の和合し消滅するも亦た復た是の如し。十八界旣に空ずれば、一切皆空ず、唯だ本心のみありて、蕩然として淸淨なり。

黃檗、前掲書、p. 18.


 このような主客二元論を離れる態度が、作曲者の操作の及ばない音、意図されない音としての沈黙を採用する根拠となる。

 こうした二元論からの脱却はまた、禅における融通無礙によるところが大きい。融通とは相互に浸透していることであり、無礙とは障碍がないことを意味している。禅における非二元論は、主客の区別がなくなりすべてが合一した状態のことではなく、個々の事物がそれぞれ中心にあり、かつ互いに浸透していることを指している。ケージは1958年に書いた文章で、鈴木大拙が行ったコロンビア大学での講義を回顧しつつ融通と無礙について記している。

現代音楽では、格づけみたいなことをする時間がない。できるのは、ふと耳を傾けることだけである。風邪をひいたときに、不意にくしゃみをすることしかできないのと同じように。残念なことにヨーロッパの思想は、ふと耳を傾けたり不意にくしゃみをしたりというように、実際に起こるできごとは、深遠なものとは見なさないという考え方をもたらした。去年の冬、コロンビア大学で行った講義のなかで鈴木大拙は、東洋の思想とヨーロッパの思想には相違があり、ヨーロッパの思想では物事は次々と何かを引き起こし結果をもたらすものと考えられているが、東洋の思想ではこの原因結果という見方は強調されず、かわりに人は今ここにあるものと一体化する、と述べた。鈴木はそれから二つの性質、すなわち無礙と融通について語った。さてこの無礙とは、全宇宙において、個々の物事や個々の人間が中心にあり、さらにこの中心にある個々の存在が、あらゆるもののなかでもっとも尊いものだ、ということをあらわしている。融通とは、これらのもっとも尊いものが、それぞれあらゆる方向に滲み出していき、いつどんな所でも、他のすべてのものと浸透しあることを意味している。したがって、原因も結果もないと言うとき、そのことが意味しているのは、原因結果は計算できないほど無限にあるということ、実際にはあらゆる時空間におけるあらゆるものが、それぞれ、あらゆる時空間における他のあらゆるものと関係しているということである。こういうわけで、成功と失敗、美と醜、善と悪という二元論的な見地から注意深く進む必要はなく、マイスター・エックハルトを引用するなら、「私は正しいのか、あるいは間違ったことをしているのかと自問することなく」*6、ただ歩き続ければいいのである。

Cage, 'Composition as Process; III. Communication,' in op. cit., pp. 46-47, 柿沼訳、「プロセスとしての作曲 3.コミュニケーション」, ibid., pp. 89-90.


 二元論的な見地から、個々の事物それぞれが中心にあり妨げられずに相互浸透しているという非二元論的な立場に移行したという点で、『4分33秒』は『易の音楽』から一歩発展したと言えるだろう。『易の音楽』においては、その厳密な作曲手法によって、作曲者と作品それぞれが中心にあるものとして扱われたが、作品は厳格な記譜法によって演奏者をコントロールしようとし、演奏者が中心にあることを許さなかった。その一方で『4分33秒』においては作品と演奏者、そして意図されない音現象がそれぞれ中心にあり、かつ相互に浸透するという事態がケージによって提供されている。

(続)

*1サンスクリットでいうbuddhatvaとは、仏としての性質、あるいは仏となりうる性質のこと。大般涅槃経における仏性、妙法蓮華経における仏種、勝鬘師子吼一乗大方便方広経における如来蔵に同じ。禅宗ではこれを仏そのものと見て、誰もがもっている仏性を本来のすがたであらわすことが修行であると考える。

*2 黃檗斷際禪師、『傳心法要』第一。宇井伯壽譯註、岩波文庫、1936、p. 10.

*3 地水火風の四つ。世界を構成する要素のこと。地は堅さを本質とし、ものを保存する作用をもつ。水は湿気を本質とし、ものを取り込む作用をもつ。火は熱を本質とし、ものを成熟させる作用をもつ。風は動きを本質とし、ものを成長させる作用をもつ。維摩経文殊師利問疾品第五に「四大の合する故に假に身と名くも、四大は主無く亦た我無し」とある。

*4 色受想行識のこと。五蘊とも。色は物質的要素、受は感受作用であり外界の印象を受け取る作用、想は表象作用であり外界の印象を像として結ぶ作用、行は意志作用、識は認識作用であり区別や認識を行う作用である。色が物質的要素であり、前註の四大に対応するのに対して、受想行識は精神的な要素である。これらの和合によって存在する個人は仮象であって、その外に実態として自我が存在するのではないとされる。

*5 六根は眼耳鼻舌身意。五つの感覚器官と、それらを統括する器官としての精神のこと。六塵は色声香味触法。六根に対応する感覚対象のこと。六識は眼識耳識鼻識舌識身識意識。六塵を対象とし、六根によって生じる知覚、認識作用のこと。これら六根六塵六識を総じて十八界という。

*6 エックハルト説教62.

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