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自殺NG、の文化が相談しにくくする。自殺遺族の見解

ルワンダで、100万人単位の大虐殺に触れた。

人口700万人ほどの国で
100万人もの国民が国民によって殺された事件だ。

・・・

話はそれるが、ここで
自分自身の死に関する体験を振り返ってみる。

最もインパクトの大きかった死に関する体験は
実の弟の自殺だ。

2013年5月。僕の、実の弟は自殺している。

さらに遡ると、2008年に僕が大学生の頃
飲み友達も自殺している。とても近しい友人だった。

この2つの近しい人間の経験が
僕が最もリアルに死に向き合ったものだ。

それで、僕の見解を言うと

「自殺してはいけない」という文化が
自殺願望の相談をしにくくしている。

そう考えている。

・・・

自殺する人間が出た場合、とても複雑なのは
加害者と被害者が同一人物だという事だ。

もし殺人によって、身内を殺されたなら
その矛先は真っ先に、犯人に向かう事になるだろう。
(一般的な感覚ならの話だ)

しかし、自殺が特殊なのは犯人も死んだ本人になる。

僕が、友人や弟が死んだ後にとても苦しんだのは
彼らの決断を許せなかった事だ。

許せないというと、言い過ぎかもしれないが
彼らの選択を容認できず、葛藤した時間が長かった。

「なぜ、死んでしまったんだ?」
「一言でも相談してくれれば...」

彼らがこの世を去った後に
このような思いが何度も込み上げてきた。

そして、心の片隅では死を選んだ彼らに対して
尊重や容認ができず「許せない思い」があったと感じている。

「なぜ?」「どうして?」と思うのは
彼らの選択を容認できないからこそ出てきていると言える。

「自殺=悪、NG」という現在の文化の下で
このような話をすると、多くの人は混乱するかもしれない。

だが一度「死に方は自分で選んでいい」という前提に
スイッチすると「自殺も1つの選択肢」と考えられる。
(極端だが、一旦リセットして考えてみてほしい)

かなり異常な話をしている自覚はある。

だが、彼らの自殺と向き合った結果
僕が思ったのは、、、

・死に様とは生き様の一部である
・死ぬのと生きるのはセット

という事だった。

ごくごく当たり前の話だが
生き方には自由が許されているが、死に方には
自由に選べない選択肢が存在している。

それがまさに「自殺」という選択だ。

「自殺してはいけない」
「自殺したら地獄に落ちる」

そのように、宗教的にやんわり考えられてるのが
日本の現状だと考えている。(しかしその理由は曖昧)

確かに、自殺してしまうと遺族や近しい人は
深く傷つく事になるだろう。

そういう意味で、自殺はしない方が良いのは納得できる。

ただ「自殺=悪」だとして、もし自分の身内が
自殺を選んでしまったら、どう思うだろう?

NG行為を犯した彼らを
殺人犯さながらに責めるだろうか?

この混乱した状態が、自殺した遺族に残る
複雑な感情だと思っている。

それで、日本は自殺者が先進国でも
トップクラスに多いという。

友人が自殺した時に、僕が思ったのは
「自殺のない世の中にしたい」だった。

まさに「自殺NG」という文化の下
その後、数年を過ごす事になるのだが
そんな事を思っている矢先に、弟が自殺した。

何かの喜劇か、とでも思うようなマヌケぶりだ。

「一言相談してくれれば」と思ったが
自分自身を省みて思ったのは

「自殺も視野に悩んでる人間が
 自殺を絶対許さない人間に相談するだろうか?」

という事だった。

仮に、相談されたとしても自殺絶対NGと思ってる限り
彼らの相談に対し

「それは絶対にダメだ」
「そんな事を考えてはいけない」

と傷ついているのは彼らなのに、さらに
彼らを責めるかのように説得するかもしれない。
(しかも論調は攻撃的に)

このように、世間的に自殺が絶対NGだから
自殺願望を抱えた人は「周りに相談できない」のかもしれない。

そういう仮説が、僕の中で浮上してきた。

生き方はこんなに自由なのに
なぜ、死に方では自殺だけNGなのか?

について、クリティカルな理由を述べる事は
誰にもできないのではないかと思っている。

例えば

・家族、友人が悲しむ、親不孝
・経済損失が大きい
・人道に反する(そもそも人道とは何か?)

いろいろ理由づけすれば出てくるが
絶対にNGな理由にはならない気がしている。

本人が心からそうしたいと思っているのに
他人が介入する理由はあるだろうか?

もしくは相談できない事によって
「自分は自殺したい」と思い込んでるケースもあるかもしれない。

もっとオープンに考える必要があるのではないか
僕が考えたのはそういう視点だ。

もしかしたら、自殺を容認した方がかえって
自殺者は減るのではないかという事だ。

人間は「ダメ」と言われた方が
逆にやりたくなる性質も持っていたりする。

いじめられた人の自殺のケースでは
世間的にNGの自殺する事で、対象者に大ダメージを与え
報復する目的もあるのかもしれない。

しかし、自殺する事が容認されていたら
大した報復にはならないかもしれない。

また、死に方の自由が容認された社会では
もっとライトに死に方について
語り合えるのではないかと考えている。

命の重みについて、もっと日常的に
感じられる機会も増えるかもしれない。

現代社会においては、人間の寿命が伸び
死について意識する時間があまりに少ない。

だから、生きている人のほとんどが
自分と死は無縁くらいに感じていると思う。

「明日死ぬかも」と思って生きてる人は
日本においてはほとんどいないだろうし
確かに、その確信は概ね合っている。

だが、毎日多くの人が亡くなっていて
たまたまそれが自分に起きてないだけでもある。

現代では、生と死が切り離されすぎているために
いざ、死について考えた時に
しっかり向き合う胆力がないのではないか。

この記事を読んでいて、死の話に
心理抵抗が生まれる人もいるかもしれない。

それくらい、向き合う事すらNG気味なのが
僕たちの身近な死ではないかと思う。

実際には、僕たちの体の細胞も毎日生まれて
毎日死んでいって、身近なものだと思う。

自殺を考える人は、自殺という選択肢の枠で
初めて死に向き合ったのかもしれない。
(死と向き合う初心者が、最初から自殺と向き合う)

だが、日常的に

「自分はどう死にたいか?」
「死に方の理想像は何か?」

を向き合ってる人間なら、自殺が脳裏をよぎった時
反応も変わってくるのではないかと思う。

今回「自殺を容認しよう」「死に方の多様性を認めよう」
という話が、多くの人に受け入れやすい話とは
僕ももちろん思っていない。

だが、、、

「自殺反対!」「自殺根絶!」と唱えるほどに
当事者である自殺願望者は、罪の意識を抱えながら
毎日を過ごしているかもしれない。

「自殺しようとしてる自分は罪人だ」
「自殺したいなんて、頭がおかしいんだ」
「僕がいけないんだ、、、」

もし、そんな風に自殺願望者を追い詰めてしまうなら
余計に相談などできないと思う。

多様性を認める社会であるからこそ
多くの事について、寛容に向き合うスタンスが
必要なのではないかと思う。

自分と異なる意見だからといって
最初から否定するようでは、それこそ
自殺という問題とは正面から向き合えないと思う。

自殺と聞いた瞬間「絶対ダメ」の思考停止な人に
相談する自殺願望者はいないと思っている。

日本は「一発レッド社会」などと言われるが
とにかく、世間とズレた人間の一度の過ちを
絶対に許さない傾向がある。

そして、世間と異なる意見も認めないのだが
それはつまり「自殺したい」という願望も
絶対に認めないスタンスを表明しているとも言える。

しかし、、、

日本が平和の国であり、平和な国民であるなら
許さない事より、許す事を重視する国民であってほしい。

僕は、自殺した友人も弟も
全てひっくるめて認めて許すと決めた。

「自殺なんて絶対ダメだ」

そのように考えていた時には、身内の自殺は
あまりにも辛い事でもあった。

今回の話は、僕の心を軽くするために
「自殺は選択肢として許していいんだ」と
思うしかなかったから生まれた発想かもしれない。

多くの人にとって異常性のある話で
だからこそ、シェアしてみる価値があると思った。

何か感じた事があれば、コメントを書いてみてほしい。

ただ、僕自身も自殺遺族であり人間なので
あまり激しい反発とかは、傷つく可能性もあるので
お手柔らかに寛大な心で見つめてもらいたい。

誰も「自殺しろ」とは言っていない。

一度「自殺もアリ」という視点に立たない限り
自殺願望者と向き合う事は
できないのかもしれないと思った話なのだ。

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