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もがくこと、あがくこと

量はやがて質に変化する。


  例えば、絵がうまくなりたいと思う人がいて、どうなればうまくなるのか考え、必死に理論書を読み漁っても、その人の画力は一向に上がることはないだろう。

  絵を描くのは視覚と筋肉運動との絶妙な組み合わせであり、認知そのものの仕組みも与して考えれば、とても理屈で処理できるものではないだろう。

 もちろん、コンピュータの上で、すべてを数値化して、絵を再現することはできるかもしれない。実際に、AIが有名絵画を極めて精巧に複製したという話を聞いたことがある。

 しかし、人間が同じような方法を取ることは難しいだろう。人間はAIのような驚異的なスピードで学習することはできないし、偏重された知識が、豊かな表現へと直結するかどうかも疑問ではある。

  いずれにしての表現のアウトプットたる「腕」は、客観的に数値化された数値そのもので働くことはないだろう。知識としてそれは有用であることには疑いはないが、筋肉はやはり感覚の上で働くはずである。

  ここの筋肉を2センチ動かし、20%の負荷をかける、などとはやらないはずである。完璧な理屈はきっと完璧だろう。それでも、そこに不完全な要素が入り込んでしまう。理屈と感覚の齟齬がそこにある。

 理屈と感覚の齟齬は面白くて、AIが書いた絵はどこか「違和感」があるという。キャンバスに絵の具を走らせる時の、その微妙な「感覚」をAIは捉えられない。

 もっといえば、完璧すぎるがゆえに、不完全だともいえる。完璧な理論を重ねたとしても、そこには「完璧すぎる」という欠点が生まれる。質とは部分で語られることはない。

 全体が統御された中での瑕疵が人間の質なのだろう。部分を圧倒的な物量で重ねていく中で、そのような瑕疵が生まれにくいのかもしれない。

 AIもまた量を学習する。そして、それを質に転化していくという点においては人間と同じである。むしろ、ある一点においてのみいえば、人間以上かもしれない。


 しかし、それゆえに、芸術としての「ゆらぎ」を生み出せないのだとしたら、それは皮肉だ。ここでいう揺らぎとは一種の「隙」のようなものだ。芸術の世界に人を誘い入れる隙間である。

 隙間があると、人はそれを埋めたくなる。空白は全体に対して、部分を作りだし、その部分は満足に対しての不満だとも言える。人は不満を消したい。自身のキャンバスを支配してこそ、作品の完成なのだ。

 考えることも大切だし、知識を増やしていくことも大切。しかし、それらを表現としての量として現出させなければ、やはり質に転化していかないのだろう。

  知識としての万全は、表現の上での不足でもある。もちろん、知識は表現を捕捉し、表現は知識を土台とする。しかし、筋肉は冷淡だ。そこにあるのは線をうごかしていく時間としての感覚と、色彩を集めていく色彩の感覚だけだ。

  未来を知るの筆の動きだけである。私たちが認知できるのは、筆のたどった足跡でだけだ。過去に何を見つける? そうだ、それが自身の投影だ。


 量から質へ。完璧なものさえ、完璧にならないのだとしたら、もはやそこに何が残っているのだろう。

  もしかしたら、人はそれを探るために、あがき、もがき苦しむのかもしれない。完璧なデータが創造した完璧と、不完全ゆえのあがきが、偶発的に生み出した結果。

  形としての結果が同等だったとしても、その背後にある質量としての、情熱はまるで違う形をしているはずである。そして、その形を、未来を予見している人は誰もいない。ならば、あがき続けるしかない。

  それらの無為に思えるあがきも、いずれ自分の筋肉の所作へと帰依するだろう。絵を描き続ければ程度はあれ、上達してしまうだろう。

  探し続けていた答えがふっと見つかることもあるかもしれない。それらの成功は常に偶発的なものだ。

  日々を重ねていくこと。あがくこと。もがくこと。きっと、評価は歴史が決めること。今は、今を語ることしかできない。

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