壊れた地平線

 インターネットはあらゆる地平を破壊して、仮想空間の上で世界をフラットにしたと言える。
 
 クリック一つであらゆる情報に即時的にアクセスできて、浮動性の低い事象ならばインターネットによる情報の収集は非常に効率的だともいえる。
 
 ここでいう浮動性とは、事実がどれだけ確たるものか、ということの指標である。例えば、電車の乗り換えなどはその一例だと思う。
 
  昔は、クラスに一人は必ず電車博士がいて、そいつに聞けば乗り換えの情報をすべて教えてくれた。あるいは、時刻表を見て調べたり、駅の掲示板で判断したり、駅員に質問したりしてそれらの情報を集めた。しかし、昨今ほとんどの人は時刻表を使わないだろう。

 時刻表はある種一つの趣味の領域に入っているといっても過言ではあるまい。もちろん、本という一元的なソースから、思いもよらぬ発見をすることはあるかもしれない。

 それは本という媒体のとても有益なポイントであると思う。ネットという多元的なソースは、架空のフィールドにいくつもの情報が紐づき、それらが検索エンジンの妙によってある程度作為的に表示されている。

 検索する人間の恣意的な選択と、検索エンジンが見せる半自動的な結果の提示。これらの二つの奇妙な合致によって、ネットの情報収集活動は成立する。浮動性の低い、あるいは少ない情報は、情報としての輪郭のぶれが少ない。

 電車の乗り換えは、鉄道会社から提示される情報が間違いがなければ、ほぼ自分の検索意図にたがわない情報が手に入るし、それを偽物だと考える人もいない。それらの固形物としての情報は、浮動性を持たず、一つの知識として確たる地位を持つ。

 一方で、浮動性のあるものとは、すなわち「解釈」によって多面的な見方を可能にするものである。あらゆるものが確たる輪郭を有しているわけではなく、覗きこむ角度によって様々な表情を見せる。

 解釈とはそういうものなのだ。その解釈は「感想」と言い換えてもいい。もちろん、同義ではないけれども、目下、散見される事象を見れば、それらは同じような意味で運用されていると考えられる。

 ネットは自由だし、無限だ。あらゆる言説を無限の放り込むスペースがある。一つ一つの言葉は膨大な言葉の波に飲まれ、その本来の意味を失っていく。残るはのは言葉の背後にある「念」ともいうべき「余韻」である。ハッシュタグの中にある「余韻」が、人の体を潮流のごとく押し流す。

 あらゆる言説は自由だ。しかし、その自由と思われる言説は、浮動性を持ち、あらゆる解釈を可能にさせられる。また、その言説すら、余韻が生み出した「見えない言語」のレールに乗せられて生み出されたものかもしれない。

 あらゆる事象が論理で解決できるものではない。あるいは、論理的な帰結こそが必要とされるものかもしれないが、それらの帰結を思い描くのは想像力の問題であり、その想像力を養うのは、十二分に培われた解釈の力なのではあるまいか。

 不用意に膨張した情感の中で、曖昧な解釈を標榜してはいけないのだろう。あらゆる地平が解放され、世界が無限ともいえるスペースを持ったからこそ、浮動性のある「知性」として、自身の言葉での発信を続けていかないといけないのだと思う。

 それらの自己批評の中で、解釈は育つはず。だからこそ、僕は色々な形で表現しようとしているわけであります。

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