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小説 月読の詩 第4話「夜の語り部」

 宴会も終わった。緊張を強いられてきたコルトマとアヴリエにとってはわずかばかりの休息だった。一日は終わり、各々が眠りについた。森も眠った。夜気が部屋の隅にまで這ってきた。

 アヴリエはアンナの部屋で寝ていた。あんたは、そこのソファで寝な。アンナはそう言った。魔女は小さくにやりと笑った。不敵な笑みを浮かべた。不敵だけれども、きっとその笑みに悪意は何もないのだろう。わずかな交流で彼女が信頼に値する人物であることをコルトマは悟った。

 コルトマは眠れなかった。体は疲れていた。しかし、心は高ぶっていた。その静かな興奮は、内側からやってくる不安と対峙するためには必須だった。体を落ち着かせてしまうと、かえって不安に取り込まれてしまうような気がした。

 コルトマは夜の中、自身の腕を見つめた。魔女でもこの魔物を払うことができない。無理やり払えば、宿主は命を落とす。俺は、死ぬかもしれない。突然の宣告を素直に受け入れることはできなった。もちろん、可能性がないわけではない。魔術医ならば、この魔物を除去できるかもしれない。俺は、その一抹の可能性にかけなければならない。

 魔女がやってきた。まだ寝ないのかい。アンナはコルトナに尋ねた。
 眠れないんだ。コルトマは答えた。アンナはコルトマの隣に座って、蝋燭に火をつけた。淡い炎が部屋を照らした。

 部屋が揺らめいて見えた。コルトマは蝋燭の火をじっと見ていた。炎の不規則な動きが自分の心持と似通っているような気がした。炎は形をもたない。大気の動きによって、どんな形にもなり得る。

 不安かい? アンナは言った。
 闇の中コルトマはうなずいた。この世界にもう自分の居場所はないように思えた。俺は謀反人として村から追われ、内側から自身の憎しみが育むだろう魔物によってその命を奪われるのだ。

 俺はどうすればいい。昨日より、何度も自分に問いかけてきた問だ。自身への問責を避けんとして、ひたすらに前進し、この森の中まで来た。アヴリエも長い旅程によく耐えた。しかし、いつまでもここにいるわけにはいかない。

 彼女をかくまうだけならば、ここにいるほうが安全かもしれない。だが、俺の命が、きっと尽きてしまう。俺が死んでしまうのはいい。俺が魔物の力で、暴走して人に危害を与えてしまうこと。これが何よりも恐ろしいことだ。

 これ以上の恐怖はない。だったら、ここから離れた方がいい。一人で旅に出なければいけない。そうだ、明日、誰にも言われないように旅に出てしまえばいい。そうすれば、誰にも迷惑が掛からない。

 妙なこと考えるんじゃないよ。とアンナは言った。互いに顔を合せなかった。アンナもまた揺れ動く炎だけを見ていた。

「私はね。月読の末路を悲観していた。見えぬ災厄の根源を鎮めるために、死者となる必要などどこにもない。月読が死者になれば、死者として月の住人たちと交渉し、ある程度の力を獲得できるかもしれない。しかし、若い女の子が、綺麗な体に傷を負ってまでやることか。
 人は、変わらないもんだよ。旧時代から百年も経つ。かつて世界が一つだったなんて、誰が信じるだろう。まるでおとぎ話さ。国境が人間の生き方を決めるなんてね」

 アンナは指で小さく縁を描いた。すると、蝋燭から炎が一匹踊り出て、机の上で踊った。右に行き、左に行き、そして、高く跳び上がると闇に消えた。

「流言が人の心を惑わせる。あるいは、伝統が人の自由を奪う。昔の魔女たちは自由のために戦おうとしていた。あらゆる権力と戦った。まだ世界に魔力十分に残っていた時代だ。
 だからこそ、多くの魔女が捕まった。魔女を襲われる為政者の手によってね。でも、魔女たちも、いや、魔道の家に生まれた人達は、みんなその力で何をしようとしたわけではない。ただ、みんな、自分の権利を獲得したかっただけ。異能の人間として山奥に閉じ込められた人たちの悲しみを知ってほしかっただけ」

 アンナはまだ酔いが残っているのか饒舌だった。魔女たちの悲運。アンナの言葉の端々から彼らが負った冷遇が痛いほど伝わった。

「だから、月読の巫女にだって、自分を選択する権利があるんだ。私はそう思う。彼女は、村の掟に殉じようとしていた。水が少なくなって、獲物も減れば、人は見えない力にすがりたくなる。見えないものを、見ようとしているんだね。そうやって、安心を獲得しようとするんだ」 

 アンナがアヴリエと仲が良い理由がわかったような気がした。月読という存在にかつての自分を重ねているのだ。だから、アヴリエに月読の末路についても教えた。逃げるように、自分の道を歩むように。

「アヴリエから手紙の返信はなかったから、彼女がすべてを受け入れたのだと思った。私は悲しかった。悲しいなんて感情を覚えたのはもう何十年ぶりだったろう。
 いや、寂しいかな。もう感情の種類も正確にはわからないよ。だから、あなたたちがこの森に向かっていることを知った時はとても嬉しかった。森がざわついていたから、不思議に思っていたんだけどね」

「アヴリエが、あなたなら頼りになるって。そう聞いたので、この森に向かいました」
「それは嬉しいわね。嬉しいっていう感情はずっと忘れていない。アヴリエとの手紙のやりとりは私に喜びを与えてくれるわ。あなたのこともよく手紙に書いてあったわ」
 それは初耳だった。コルトマはなんだか急に恥ずかしくなった。

「なんて書いてありました?」
「それは秘密よ。女同士の秘密」
 コルトマは黙りこんだ。秘密、か。同性の友達といった存在がいなかったアヴリエにとってアンナは貴重な友人だったのかもしれない。

「あなた、一人で行こうとしているでしょ。アヴリエを置いて」
 コルトマはアンナを見た。蝋燭のぼんやりした光の中でアンナは微笑みを浮かべていた。それは魔女としての笑みというよりは慈愛をもつ一人の人間の表情だった。

「ええ、そのつもりです。彼女を助けたことに後悔はないです。ただ、僕は結果として憎しみにとらわれた。あの時、相手を激しく憎みました。いや、あらゆるものへの憎しみが僕の中にあった」

 コルトマはあの夜の冷たい祭儀堂の中を思い出す。静けさの中で高まる高揚感。命の危機、殺意のぶつかりあい。光るナイフ。そして、相手を指した時の奇妙な感触。命のやり取りの中にあった不可思議な興奮。あらゆる瞬間が濃密なまでに記憶に溶け込んでいる。

「誰だって、あなたくらいの年齢なら、力に取り込まれそうになる。それはしょうがないことよ。あなたは大切な人を守った。そのことを忘れるべきではないと思うの」
「憎しみに汚れた人間が、彼女の側にいていいものか」 

 アヴリエは無垢だ、そして、無知だ。だからこそ、真実を知っているような気がした。彼女が俺の腕を誰よりも大切ように撫でてくれる。そこに不埒な意味合いは一つもない。
 アヴリエはただ相手の苦痛を緩和せんとして撫でる。手当とは、手を当てること。手とは、助けのことだ。彼女は深き慈愛を知り得る数少ない人間だ。 
「あなたは憎しみに汚れてなんかいないよ」
 アンナが言った。

「本当の憎しみを私は知っている。それはもっと、淀んでいて、それでいて、透明なものなんだよ。憎しみに後悔なんて生まれない。憎しみから生まれるのは大義名分だけだ。そうやらねばならなかった。そうするのがよかった。
 憎しみは後付けの正義を生むだけなんだよ。あなたは後悔ばかりしている。人を手にかけたことを。生きるために、誰かを守るために誰かを傷つけることが正しかったかどうか、悩んでいる。憎しみに汚れた人間はそんなことを決して思ったりしない。だからあなたは大丈夫」 

 コルトマは何も言えなかった。アンナの言葉を噛みしめた。アンナの言葉は慈愛をもって、じっとコルトマの奥深くに届いた。
「だから、彼女も連れていったおやり。それが、良いと思う。いや、きっと彼女もついていくっていうよ。だまって出ていくっていってもね。そういう子だよ。
 ここだって、完全に安全というわけではない。森も弱っている。いつかこの場所もばれるかわからない。きっと、村の衛兵に捕まれば、月読である彼女は今度こそ、生贄にされる。
 彼女は生きるべきだし、もっと広い世界を知るべきだと思う。大きな街を見るべきだし、錬金術も知るべき。そして、海も見るべき。たくさんの世界を見るべきだと思う」

 世界か。世界はどれだけ広いのだろう。コルトマは海を見たことはなかった。海のことは父に聞いた。どこまでいっても終わらない湖。それを海と言うと。アヴリエと世界を回る。それも悪くない。コルトマは、自身の腕に仕込まれた魔物の存在もしばし忘れて、想像に耽った。

「楽しいそうだろ。もちろん、彼女を守らないといけない。月読はただでさえ大きな力を持つ。それを悪用しようとしている人間は多い」
 コルトマは頷いた。その肯定は強い力を持っていた。

「はい、そうしたいと思います。広い世界を僕は見たい」
「そうだろう。それがいいと思う。誰だって、慣習のために死んでいくことはまっぴらだろうと思うからね。ふう、さて、目が冴えてしまったね。どうだい、温かいミルクでも飲むかい?」
「いいですね。飲みましょう」
 よしよし。アンナはそう言ってミルクを温めに行った。

 新しい旅が始まる。新しい、生活が。コルトマはしばらく想像の羽を開き、未知の世界を旅行していた。壮麗な景色、優美な食事。それはわずかばかりの贅沢だった。

 その時、左手が疼いた。何かが腕の中を蠢いている。コルトマは左手をじっと見つめた。しばらくして疼きは止まった。何事もなかったかのように左腕がそこにある。
 力強く拳を握った。何度も動きを確認した。……大丈夫だ。まだ、まだ、俺の体だ。コルトマは小さく呟いた。

「どうしたんだい?」
 アンナが温めたミルクを持って戻ってきた。
「……なんでもない」
 コルトマはミルクを飲んだ。温かいミルクが、心身ともに冷えたコルトマを温かく包み込んだ。


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