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劇団ヅッカ#1『祭典:RAKUDA』に寄せる断片

 この熱量、気迫、煩悶する若者の空気感はなんだろう。

 世界は鮮やかで、重層的で、示唆に富んでいる。我々は知らないうちに、偶然と必然の網目の中を生かされている。彼らもまた、そのことに気づいている。そして我々は、その「運命」から逃げることはできない。

 劇団ズッカによる#1『祭典:RAKUDA』は、観客たる私の心に大きな印象を植えつけた。まさに非常事態としての「ハレ」だった。誰の心にも忘れられない日付、3月11日が終わった深夜1時にこの文章を書いている。

 死は誰のそばにもいる。しかしそれがいつ到来するかは分からない。そのような緊張状態の中で、我々を生と結びつけているものがリズムであり、メグの叩く「コナックル」であり、「ハロー・ミスター・モンキー」であり、カノンである。

 主人公・ラクダは親友のモグラと入れ替わり、立ち替わり、3Dメガネのような赤と青の二つの世界線を生きている。彼らは縄跳びのリズムで繋がっており、その独特なリズム、言葉遣いに引き寄せられるように、ユウカが彼らを「運命」へと導く。

 彼らの「運命」の成就は、卒業式に映画を完成させることだ。映画の主人公はユウカ、彼女のドキュメンタリー、生き様を記録することが彼らの使命である。しかしその試みは赤の世界線、青の世界線でも成就されることはない。ラクダのリズムが狂ってしまうからだ。

「完全に死んでない」

 「リズムが大切なんだ」とラクダは言う。しかしそのリズムは幾度となく滞り、熱がはじけ、青い春をめぐり、郵便局裏の倉庫、撮影所のスタジオから別世界へコネクトする。ラクダはモグラであり、モグラはラクダである。

 映画を撮るためのカメラ、キャメラと呼ばれるそいつは、屋根裏から掘り出されて、レンズという名の鏡を通して意識と無意識を顕現させる。ユウカは巫女であり、彼らは祭典を紡ぐ。

 その全てを見つめる視線がある。彼女は赤と青の3Dメガネを紫の世界へと導く存在である。ミズキは表層では自分の存在意義について意味を見出せていない。しかし全てを見、全てを経験し、無意識の中で、胎児の記憶の中で「網目」を創る者である。言うなれば“神”なのか?……

 「ハロー・ミスター・モンキー」のリズムに規定された集団「アラベスク」は同じ皿の飯を囲み、暗黙に兄弟の契りを交わす。そして見えない波長、リズムとしての集団「アラベスク」は、合理的現実的にはあり得ない行為としての「緊急事態」として、世界を覆う。

「完全に死んでない」

 映画の最後のシーン、卒業式は、ミズキの手に託された。いや、初めからキャメラはミズキのものであった。彼女が撮ることによって、ひとつの「運命」が帰結し、また新たな「運命」が始まる。その先にあるのは氷河期。我々は次なる試練のために、この祭典を終わらせてはいけない。リズムは来るべき終末を越えるために、止まることなく刻まれる。

「完全に死んでない」


、、、とまあ色々と書かせていただきましたが、私と同じ年代の人たちがこんなに熱のある、さまざまな要素の折り重なった面白すぎることをやっている、という事実に圧倒されています。私自身は演劇初心者であまり見ないのですが、ものすごく興味が湧いてしまったので、少なくともヅッカさんの舞台はこれからも観ます。本当にいい刺激を受けました。

 今回の#1『祭典:RAKUDA』は、噛めば噛むほど味が出て、思いが広がるので、まだまだ咀嚼し続けるつもりです。また考えがまとまったら何か書こうかな……。

 深夜にこんな文章を書いてしまって、明日読み返すのが辛いですが、仕方がない。“我々はその「運命」から逃げることはできない”のですから。

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