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宮沢賢治「真空溶媒」から、知覚する順序と認識する順序を考える

読書反響と同じようなことが夢や幻覚においても起きているのではないか。宮沢賢治の「真空溶媒」で保安係りが名乗るところに注目したい。

真空溶媒←全文が掲載されているサイトに飛びます。

   (わたくしは保安掛りです)
   いやに四かくな背嚢だ
   そのなかに苦味丁幾や硼酸や
   いろいろはいつてゐるんだな

ここの保安係りとは薬屋みたいなもののようだ。認識の順序では、その者が「保安係り」だと名乗って背嚢に気づく。その中には薬が入っているんだろうと推測を起こしている。つまり、何者であるかによって持ち物が推測されているのだ。

しかし、実際の認知はこの通りではなく、何者かが背嚢(と認識される四角いもの)を携えて現れる。ゾンネンタールの死や逃げた白犬。また苹果はゾンネンタールを殺した曙光、それがいまでは生長してしまった、といった風に意識の前面には現れないまま、不穏なものがすでに書き込まれ、重ねられていることに注目したい。その後保安係りのまえでこの牧師は倒れるのだが、このことから体調不良が起きていることも推測できる。言葉として現れない(=意識には上っていない)健康上の異変を、無意識のレベルでは察知しているというか。

この自称牧師のまえに現れる赤鼻紳士も保安係りも、みな牧師の幻影だ(余談になるけど、幻影となる端緒は現実にある気もしている。それは星ではないかと私は思っている)。すると彼らの造形は、夢のようにその場の情報で改変されていくものだろうと思える。

さて、そうであれば、保安係りがそういう役柄をもって現れたのは、牧師の体調不良を軸に四角いものを「背嚢」と規定し、そのなかには薬品の存在を予想したことに由来している。天井板の節が妖怪の目のようだと思うのと同じだ。そしてこれは、書かれた(=意識された)順序とは違うわけだ。保安係りと名乗ったから「なるほどハハンすると四角いのは背嚢で…」と推測が進行したのではなく、四角いのが背嚢でその中に薬があって…と認知が進んで、するとこの人は保安係りなんだろうという結論によって「わたくしは保安係りです」とその幻影が名乗ることになるのだ。

こうしてさきほどの引用部分をもう一度読んでみるとどうだろう。

   (わたくしは保安掛りです)
   いやに四かくな背嚢だ
   そのなかに苦味丁幾や硼酸や
   いろいろはいつてゐるんだな

この四行で現れていることは意識された思念の流れだが、それが綺麗に(つまり別の事柄へ踏み外すことなく)無意識が知覚を合理的に解釈し構築していった順序を逆に辿っているのだ。この文章を読んで読書反響が起るとちょっと面白いななどと思う。

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