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無限としての他者

高校時、美術部に属していた。名ばかりでオタクの溜まり場のようなとこだったが、居心地は良かった。美術資料室で顧問が娘の塑像を捏ねている横で、所蔵画集をみた。なかでも気に入りはゴヤの中二病を触発する作品だった。本の背表紙は何度も引き出すうちに剥がれてしまった。美術部にも遠征というか研修というかそういうのがあって、県下高校美術部員が参加した倉敷旅行があった。ロダン作品を入口に構えた大原美術館その1点ずつの記憶はもう薄いものの、ロダンって手だなと思ったり、勝利を象徴する虹を描いた作品や、ゴーギャンの沈んだ原色バチバチの作品などは印象に残っている。なんでもそうだけど、やっぱ現物のちからというのはあると思う。ゴーギャンなんか画集で見ていて何がいいのか分からなかったのに、生でみると確かな実在感をもって描かれた人の肉感がくるもんな。退館後倉敷を歩いて見つけたモネの睡蓮をあしらった傘を売ってる店や、イ・ブルのアンドロイドを解体して宙吊りにしたギャラリーに遭遇し、またソシエテ・コントル・レタのCDを見つけたのもこのときだった。帰り道で香川の美術館に立ち寄り草間彌生を知って、高知県立美術館ではモネの睡蓮を観た。汽車の中で顧問が「草間とモネは共通点があるね」と言った。「なんだと思う」と問われ悩み、悩んでる間に「ムコウ側にイッテルってこと」と顧問は言ったが、それが答えと気づかず私はまだ考えていた。

このあいだ上林暁の記念館に行った。利き手ならざる左手で書かれた原稿の展示にひどく感銘をうけた。これもムコウ側かもしれない。


多在する多者的自己の責め、アクリル、高校時(2000年代初め)の作品

高校時、被害妄想的だった自分が、幾分それを自覚したのは書いた小説を件の顧問に見せたあとだった。「あの小説によく似た話だ」と言って後日くれたのは一片の新聞記事だった。小説とは事故で失った恋人の遺骨を強奪して桜の木の下に埋め、桜に彼女を見る男の話だった。新聞記事を読むと、死んだと思っていた恋人は実は生きていたという話だった。記事の彼は統合失調症だった。この病名を知ったのはこのときである。

その後、統合失調症のことが気になった。近所の書店が森山公夫の『統合失調症』(ちくま新書)を置いていて買ってみると、これが面白くてよかった。
統合失調症はさまざま診断基準があるものの、その本で主眼においていたのは妄想の内容その展開についてだった。「了解不能」という語は精神医学的にあるようで、この本のなかにもしばしば使用されていたが、症例の妄想は了解不能と思えなかった。

了解可能な世界とはここでは常識の枠を外れないという意味なのだろうと解した。が、常識が多分にフィクション的側面をもつと認識していた私には、即座に「了解」という語に「常識的に」という前提を読み取れなかったのだ。ここが狂気への親近感への入口となり、ひいては認識論的というのか主観的というのかそういうものの現実感、その論を対抗させたいという衝動に駆られたと記憶している。

彼らは他者と共有する世界を生きていないかも知れないとしても、それを現実として生きた彼らがいる限り、その生の主観的世界を否定したくなかった(だって私もそれによって否定されかねないから)。つまり「了解不能」にはその点で不服を覚えた。

了解可能世界という地平を考えてみるなら、それは多少なり公約数的な、四捨五入的な曖昧さを含んだ世界だと思う。「悲しい」と言えば通じるとき、発言者の「悲しい」とは無関係な聴取者の悲しいエピソードを引用し、それが合致する限りで彼らは共-感されるはずだ。「悲しい一般」へと個別的「悲しさ」が剥奪され、共感の名のもとに彼は二度と個別的悲しさを訴える機会から遠ざけられる。


唯我論者の世界、2000年代初め、油絵

私たちの個別の世界とはどのような構造をしているのか。個人が得うる情報とは常に有限である。有限の情報をもとでに知覚の外側へとそれを類推的になのかなんなのか波及させているのが主観世界だとすれば、私たちは補った分だけフィクションのうちに生きているのであって現実を生きているのではない。それが私たちの現実だ。

統合失調症を知って以後、私の問題系はここへ収束した。つまり、主体的にはこのフィクションからの(内なる、しかし外からくる)侵犯に抵抗し脱しうる精神への志向であり、また、生きられたフィクションを肯定する文体を生成する意志である。

知覚の外側は自己へと向かう。世界は自己へと収束するので、自己ならざる者へと意志することが求められた。ここに他者という問題が立ち上がりうる。

最近はレヴィナスの他者論が気になっている。他者、顔、無限という接続へのシンパシーによるが、これも私が勝手にそうシンパシーしているのにすぎない。レヴィナスはそんなことは言っていないのかも知れない。

顔とは他者へと開かれた私の表象として機能する。私自身からは未確認なそれを他者によって評価されるとき私は純然たる客体へと堕する。我慢ならない、のっぴきならない事態だ。

顔、この不気味なもの。私からこれを剥離したい。願うなら、私が他者へお仕着せる顔をも。

こうした志向によって夢む他者とは、何者でもないそれであって、私を侵襲し、私が侵襲する先の目当てとなる。それは裏切られ常に再解釈され、返答される。彼ら他者とは絶え間ない不可解な波として、私の理解の外にあり、私もまた彼らへの波でありたい。

要するに(タイトルにしたように)他者とは無限なのだと。無限なるものとしてでない他者は他者の要件を満たさない自己の範疇へと堕すのであって、そこには(大きく言えば)予定調和による再生産だけが供給され続ける不毛があるだけなんだと豪語し続けたいよね。そうやね。

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