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「美しい」は当てにならない。

我が家のお猫様はとても美しい。
飼い主が言うのだから間違いない。



全体的にくすんだ黄褐色の、親方と呼ばれている、ウォンバットと見間違うサイズのそのお猫様は、誰がなんと言おうと美しいのだ。

本当の名前もセピアと言う。
フランス映画のような余韻が漂うお猫様である。

だけど、誰がどう見ても親方の方がしっくりくるだろう。

美しいと言えば、なにも容姿だけとは限らない。
内面の例えでも使えるし、音の響きにも使える。

先日、とあるマジシャンが面白いところで美しいと言った

客がカードをシャッフルし、テーブルにランダムに重ねる。

それをbeautifulと言ったのだ。

そのマジシャンには、何気なく無造作に重ねられたカードの山が それはもう、言葉を発するに値する美しさだったに違いない。

美しいってなんだろう。



仕事柄、日々、お客様へ提供するものは
誰もが美しいと思う見た目に調整していくような事をさす。

目指す輪郭は卵形。
目鼻口の全てが顔を何分割した場所にどのようなサイズで存在するかがポイントだ。

でも、そのお客様はそんな事しなくても
じゅうぶん、美しい人だとも思う。

肌のキメが細かいとか、眉の形が整っているとか。
姿勢がいいとか、香りがいいとか。

件の我が家のお猫様だって、一見すると
カピバラかウォンバットのようなサイズである。

猫としては少々、度が過ぎている。

でも、毛の1本1本をみると何色にも層があり、
それだけで、ため息がでる神秘的な美しいを持っている。

窓の外を眺める眼差しも素敵。
フワッと開いた髭の角度すら神がかっている。

いくら彼女が掃除機が誤って靴下を吸い込んだかのような寝息を立てていても。

お腹が邪魔で丸まれなくても。

美しい。

ますます分からなくなる。


美しいとは何なのか。


子供の頃に見た「永遠に美しく」という映画を
ふと思い出す。



2人の女性の行き過ぎた美への執着がもたらす結果が恐ろしいけど滑稽で笑える映画。

人工的に作る美しさ。
醸し出される美しさ。
その存在自体に価値のある美しさ。

人間の入れ物の醜美だけが美しいとは限らない。

とは言え、誰もが自分の美意識の範囲で
美しくありたいと思うもの。

今、これを書きながら

捨てる神あれば拾う神あり

名言が降りてきた。

要するに、誰かにとっての美しいに収まらなくてもその他の誰かにとっては美しいものなのかもしれない。

私の結論は

美しいとは、当てにならないものだ。

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