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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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『燃ゆる女の肖像』 にコロサレル!

今年も師走に入ってとんでもない映画が日本公開になりました。
若い時からカンヌやベルリンを沸かせてきたフランスの天才セリーヌ・シアマ
そんな彼女の最新作『燃ゆる女の肖像』
昨年のカンヌで脚本賞&クィアパルムを受賞していて、公開前から相当楽しみにしていたのに余裕でその期待を超えてきました。
今回はそんな映画について書きたい思います。

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あらすじ。

画家のマリアンヌはブルターニュの貴婦人から娘エロイーズの見合いのための肖像画を依頼され、孤島に建つ屋敷を訪れる。
エロイーズは結婚を嫌がっているため、マリアンヌは正体を隠して彼女に近づき密かに肖像画を完成させるが、真実を知ったエロイーズから絵の出来栄えを批判されてしまう。
描き直すと決めたマリアンヌに、エロイーズは意外にもモデルになると申し出る。キャンパスをはさんで見つめ合い、美しい島をともに散策し、音楽や文学について語り合ううちに、激しい恋に落ちていく2人だったが…
ー映画.comより引用

※なるべくネタバレしないように書いていますが、それでも以下多少はネタバレありますので、気になる方はご注意ください!

近年稀にみる邦題。

外国映画好きの中での長年の問題として“邦題ダサすぎ”問題というものがある。
(これに派生した“ジャケット/パッケージ&キャッピコピー詐欺”問題というのもあるがこれはまた別のお話で。)
パッと思いつくのは、

『エージェントスミス』(原題『Above Suspicion』=直訳「疑惑を超えて」)⇒Mr.&Ms.ス○スとかマ○リックスとかいろんな要素全部のせ。

『家族を想うとき』(原題『Sorry We Missed You』=直訳「あなたに会えなくて寂しい」=イギリスの宅配物不在票の定形分)⇒家族を想いやる時間がないほど働かされてるお父さんの話。※ちなみに映画としてはとても素晴らしい作品です!

『ジョシーとサヨナラの週末』(原題『Joshy』=直訳「ジョシー」=主人公の名前)⇒日本語としてもはや崩壊。

『人生はシネマティック!』(原題『Their Finest』=直訳「彼らの最も輝かしい」=ウィストン・チャーチルの演説「This was their finest hour」からの引用)⇒単純にダサい。

などなど、ただダサいだけではなく本編の内容と合ってなかったり、いろいろなパターンがあります。
基本的には原題をそのまま使えばいいんじゃないかなと思っているのだが、日本語にしかできない表現というものももちろんあるので、素晴らしい邦題というものも一部存在はしています。

『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(原題『Demolition』=直訳「破壊」)

『フレンチアルプスで起きたこと』(原題『Turist』=直訳「旅行者」)

『存在のない子供たち』(原題『Capharnaum』=直訳「混沌・修羅場」)
とかね。

そして今作の邦題『燃ゆる女の肖像』は近年稀に見る素晴らしい邦題だと思う。
原題はフランス語の『Portrait de la jeune fille en feu』で直訳は「火の中の少女の肖像画」。
それを意味はほとんど変えずに『燃ゆる女の肖像』という音のハマり方も日本語の美しさも完璧な形に。
そしてポスターにもなっている主演のアデル・エネルの印象的なシーン。
あの映像を見たらもう『燃ゆる女の肖像』という言葉しか思い浮かばないほどのパンチライン。
こういう邦題にたまにでも出会えるなら、普段のダサすぎる邦題にも目を瞑ろうかな。

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フランスの性と私たちの性。

大人気Netflixドラマ『エミリー、パリへ行く』。
このドラマは主人公のエミリー(リリー・コリンズ)がシカゴからマーケティングの仕事でパリへ行き、自分(アメリカ人)とフランスの文化や価値観に戸惑いながらも成長していく物語。
アメリカ制作のこのドラマ、配信してから「フランス人はこんなじゃない!」と炎上していたように、現代のフランス人はこのドラマで描かれる怠惰で差別的な悪者ではない。
それでも劇中でアメリカ人のエミリーが香水の広告撮影で女性モデルが裸になることに抗議するシーンで、フランス人女性の上司が「女性らしさ」だと肯定する姿は興味深い。
“らしさ”“差別”は表裏一体。
男性が重いものを持つ事が多いのは“らしさ”か“差別”か?
チアリーディングは女性がやる事が多いのは“らしさ”か“差別”か?


そして舞台を18世紀に巻き戻して、セリーヌ・シアマはこの問題を真正面から描いている。
セリーヌ・シアマ本人がセクシャル・マイノリティであり、デビュー作の『水の中のつぼみ』からずっとそのテーマをを映し続けているが、今作ではセクシャル・マイノリティからさらにその先にある「性とは一体何か?」を観客に投げかける。
女性同士の恋、望まない妊娠と中絶、女性の社会進出、政略結婚…
劇中、ほとんど男性はスクリーンに映らない。
それでも確実に感じる“男性”という存在。
“性”という目に見えているようで、実は見えていない人間の宿命。
そこにセリーヌ・シアマのシニカルな目線を感じる。

18世紀から200年以上たった現在でも未だに同じ問題が世間を賑わせている。
先日パリ市が2018年に女性管理職が多すぎたために罰金を課せられたというニュースがあった。
フランスでは公共機関の管理職の男女比が40%を下回ってはいけないという法律があるためである。
しかしこの法律のこの条項は廃止された。
担当する大臣は「この罰金は公務員の女性を昇格させるための具体的な行動にあてるべき。」と発言している。

性差というものは必ずある。
統計的に男性の方が身長は高いし、女性の方が長生きする。
それは変えられない。
差別もおそらく根絶されることはないだろう。
それでも人間は努力することができる。
長い長い人類の歴史にとっては本当に僅かな一歩だとしても、前に踏み出すことができる。
そういうたくさんの闘いと、願いと、祈りの上に自分たちが立っているのだと思い知る。

映画が終わり、外に出てパッと目に飛び込んだポスター。
スカートが燃えながらこちらを見つめるアデル・エネルの瞳がそんな風に語りかけてくるように感じたのである。


映画にコロサレル!
ニシダ

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