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『軽い男じゃないのよ』 にコロサレル!

日本でもジェンダーニュートラルが大きなうねりとなっていく中で映画界でもこのテーマをメインとする作品が多くなっている。
最近でも『モキシー〜私たちのムーブメント〜』 『燃ゆる女の肖像』『82年生まれ、キム・ジヨン』などなど、様々な国の様々な時代を舞台に描かれた良作揃い。
(私の勉強不足かもしれないが、この点で邦画のこのテーマの良作は中々目にする事がない…)
その中でも近年私がベストだと思う作品がフランス発Netflixオリジナルの『軽い男じゃないのよ』(英題『I am not an easy man』)。
今回はそんなジェンダーニュートラル映画について。


あらすじ

女性を見下す無神経な独身男が、ある日頭を打って気を失う。
意識が戻ると世界が逆転。
女が上に立ち世界を牛耳る社会で、傲慢な女性作家の助手になり…
ーNetflix公式ページより引用

短編映画から。

今作のクリエイターのエレノア・ポートリアットは元々フランスのテレビドラマなどで活躍する役者で、2010年に作った10分程の短編『Majorité_opprimée』(直訳:抑圧された多数派)を今作の長編に作り替えた。
この元になっている短編はYouTubeで公開されているのでぜひご覧頂きたい。
※年齢制限が設けられているので個人の責任で閲覧してください。


コメディ?ファンタジー?それともホラー?

本編はというとフランス映画らしいエスプリの効いたラブコメ。
いやこれはコメディなのか?
ファンタジーでもあり、ホラーでもある。

主人公のダミアン(ヴァンサン・エルバズ)は日常的にマチズモ的振る舞いをしているが、ある時電柱にぶつかって気を失ってしまう。(なぜかここの描写だけがやけにチープなのは気になる…)
気がつくとジェンダー(男女の社会的地位や立場)が逆転した社会になっていた。一変した世界に戸惑いつつも徐々に順応していきながら、気になる女性作家アレクサンドル(マリー=ソフィー・フェルダン)と良い雰囲気になっていき…もうこのプロットだけで面白そう。

素晴らしいのが世界観(ジェンダーが逆転した世界)のディテールへの拘り。
ジェンダーが逆転した世界では、

○街中に男性の半裸(露出度高め)の広告が貼られていたり
○男性はムダ毛を綺麗にお手入れする事が当然だったり
○男性はヒップをプッシュアップする補正パッドを入れたり
○トランプではキングよりクイーンの方が強かったり

これでもかというくらい徹底して男女の社会的な差異を逆転させている。
最初は違和感を感じて、次に可笑しくなって、そして途中からぜんぜん笑えなくなる。
なぜならそれは現実の世界で実際に起きている事だと実感するから。
この映画が仕掛ける笑いは現代社会の病気だ。
偏見や差別なんて自分には存在しないと思っている人間の身体の中に確かに存在する小さな小さな腫瘍を顕在化させる。
そしてそれがどんどん大きくなっていくのだと警笛を鳴らしているのである。
ホラーやファンタジーにしては嫌に現実感がある。
コメディにしてはもはや全然笑えない。

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そしてラストへと…

そしてこの物語で秀逸なのがラストの展開である。
普通の物語なら“女性がどれだけ虐げられているか”を知った主人公の男性がが元の世界に戻って悔い改めてハッピーエンドとなるだろう。
しかし今作ではダミアンとアレクサンドルが頭をぶつけて元の世界に戻ると、ここからアレクサンドル(女性)視点に転換して、女性優位の社会から男性優位の社会へ女性が来るという冒頭と逆の展開になる。
つまり同じ事が全く逆に起きる可能性だってあるという暗示になっている。
この暗示は“男性”とか“女性”とか性別に囚われない別の世界を目指さないといけないという強いメッセージだった。

今の酷く偏った社会では「女性の割合を40%以上にする」みたいな政策も確かに必要な事なんだと思う。
でもそれは麻酔のようなものでしかない。
強制的に眠りに落ちることができる薬。
それはとても便利な手段であるし、さぞ気持ちも楽な事であろう。
ではもし何十年先の未来、組織の上層部が全員女性になったら今度は「男性の割合を40%にする」と声高々と宣言するのだろうか?
本当の問題はもっと別の場所に存在していて、それに気づいて私たち自身が行動しない限り根本的な所では何も解決する事はない。
どんなに難しくて困難でも自ずから眠りに着く事ができるように努力しなければならない。
いつまでも薬に頼って悦に入っている訳にはいかない、とこの物語は私たちに語りかける。


劇中で最も興味深かったのがセクシャルマイノリティに関する描写。
この女性優位社会であっても、結局女性は現在の男性的な振る舞いをし、男性は現在の女性的な振る舞いをしていて“性”という枠に囚われている。
そこの枠組みからはどうしても抜け出せていない。
しかしセクシャルマイノリティはそういう枠組みから外れて、社会的な柵から解放された自由な存在として描かれていた。
そこに一筋の光が私には見えた気がした。


映画にコロサレル!
ニシダ

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