「隠す」という事が問題を深くする
私には2人の子どもがいる。子どもが小さい頃、正体の見えない不安をずっと抱えていた。「ちゃんと育てなきゃ」という焦りにも近い想い。
これから何色にも染まることができる、真っ白な人間に一番の影響を与えてしまうのは母親である自分だけ。それがわかっているから、こんな私が子供を育てられるのだろうか、という不安は常につきまとっていた。
当時の夫(前の夫)は、経済力はあったけれどお互い分かりあえているパートナーとは言えないという事は結婚してすぐに気づいていた。
休みの日、小さい子ども達と一緒に車で遊園地へ向かう。暑い夏の日。夫は暑さにイライラし、渋滞にイライラし、子どもにうるさいと怒鳴る。車という狭い空間内は重苦しい雰囲気でいっぱいになり、遊園地へ着いた頃には気分はすでに最悪だった。いつものパターン。それは子どもも同じ様に感じていて、私達は暗い表情のまま遊園地の入口へと向かう。何も楽しくなかった。ワクワクした表情で入っていく家族連れを見る度に、なぜ自分がそうできないのかと余計に悲しくなった。楽しく笑いあっている家族になりたい。自分が目指している家族像はとても遠くにあるように感じられた。
私の母親はしょっちゅう電話がかかってきた。ちゃんとやってるかの確認なのだ。「元気なの?」とかかってくる。
子どもが風邪をひいてるなんて言おうものなら、私がひかせたと言われる。「元気か?」なんて言われても若いのだし元気に決まっている。それより、母親の話したいことを延々聞かされることに疲れていた。みんな元気でやっているのだから、なにかあったらこちらからかけるね。と言っても一向に変わることはなかった。反論しようものなら「あんたは、おかしい!」と言われる。普通、娘とは母親の話を聞くものだとよく言われた。当時、私は母親と上手くやれていなかった。
夫はそのうち単身赴任になり、私は余計に自分独りで育児や家事をすることになる。夫がいないのは気が楽だったが、家の周りの環境の事が原因で自分が精神的にしんどくなっていった。夜も眠れなくなり、鬱の薬を飲むようになる。
今、思い返せば自分はADHDであり、必要以上に色々な事が怖いし、気になってしまい、たくさんの事を独りで抱えていくのは難しかった。誰かのサポートが必要だったのかもしれない。でも、当時ダスキンで家事サポートを頼むなんて当たり前ではなかったし、母親に知られたら嫌味を言われそうでできなかった。でも第三者のちょっとしたサポートがあればどれだけ気が楽だっただろう。
子どもが不登校になり、家は散らかり、自分は精神的に病んでいる。
でも、それを人に言えなかった。
前夫は毎朝、単身赴任先から「今日は学校行ったか?」と私へ確認の電話ある。「今日は行ったよ(本当は今日も行ってないけど)」
母親から「みんな元気なの?」「元気にやってるよ(本当は子どもはずっと休んでいて私は鬱の薬を飲んでやっと生きてるよ)」
前夫と母親が本当のことを知ったら、大騒ぎになる。私は子どもへの対応、学校への対応、に加えて前夫と母親をなだめるという作業が増えることがなにより苦痛だった。だから隠して隠して生活していた。
当時の事を思い出すと、今でも心が苦しくなる。もし、今53歳の私があの頃の私のところに飛んでいけるのなら、まず自分をギューっと抱きしめたい。そして「大丈夫!」と伝える。家を片付けて、家事を手伝って、子ども達のご飯はどこかで買ってきて、みんなで笑いあいながら、この苦しい場所から出られるよ!と伝えたい。
実際、上の子が大学生、下の子が高校生の時に一大決心をして親に本当のことを伝え(わかってはもらえなかったけれど)離婚して子どもと一緒に家を出た。
自分が抱えていた苦しみは、苦しみを抱えているという事を誰にも言えなかったこと。隠して隠して、うわべは上手くやっている風をずっと装い続けてきたこと。自分を偽り続けてきたこと。隠して隠して生きていくと、それが当たり前の癖になっていく。そうすると自分自身の本当の言葉が余計に出てこなくなり、自分の殻に閉じこもっていってしまう。
こんな事を不安がっている自分はおかしい。誰にもわかってもらえない。という想いが人に話せない要因になる。
独りで抱え込まない。
本当にこの言葉につきると思う。
あの頃の自分が、本当の自分をわかってもらえる人に出会うことはできなかったけれど、今の私はきっと誰かことをわかってあげられるかもしれない。そういう想いが、今の私の原動力になっている。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
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