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誰にも伝わらない言葉

自分の感じていることを人にわかってもらうというのは、すごく大変なことである。

自分ですら、自分の感じていることを正確にわかっているかどうかもわからない。

それを、言語という、不自由さの強い道具に乗せて、なんとか人にわかってもらおうと苦労する。

目の前の人が、同調してくれたら、なんとなくわかってもらえたような気がして嬉しくなり、逆にわかってもらえないと悲しくなる。

わかってもらえないことが続いたり、うまく自分の感じていることを言葉に乗せられないと感じるとき、人は、「別にわかってくれなくてもいいや」と自分の中に閉じこもろうとする。

思春期の青年の多くは、そのような経験をするものではないか。

思春期を過ぎ、ある程度大人になると、人は社会の中でしか生きていけないことに気づき始める。

大人は、自分の感じていることを人に伝えることの難しさを知りながら、それでもなんとか社会で生きていくために、人に伝わるための言葉を模索する。

そうすることが当然だと思っていた。

それは、ある意味では正しいのだろう。

社会の中で生きていくためには、社会に伝わる言葉というものを用いる必要がある。

しかし、もし、社会に伝わるための言葉を用いることに少しの労力も割かず、ただ、自分の感じていることを、自分の言葉で表現することにのみ時間を割いて、実直に積み重ねてきたとしたら、その場所で用いられる言葉は根本から異なるような気がする。

それは、誰にも伝わらないかもしれない可能性を持つもので、自分という存在に最も近い言葉でもある。

それは、誰にも伝わらないかもしれない可能性を持ち、同時に、例外なくすべての人類に伝わるかもしれない可能性を持つものでもある。

それはきっと、私たちが想定する言葉の伝わり方ではない。

もっと、根源的な、原初的な、内臓的な、動物としてのヒトが発する音として、同種の人間に伝わり得るものなのかもしれない。

僕らの用いる不自由な言語というものは、そういう、人間の共通の何かを呼び起こす側面も持ち合わせている。

私は、そういう、言語の側面をこそ信じたい。

それは、物事の空白を追わない、凸凹の凸を追うAIには、まだしばらくは実現が難しいことだろうと思う。

むしろ、そういうことは、追う必要はないものとみなされるのかもしれない。

でも、だからこそ、自分という人間がやる意味はあるのだろうとも思う。


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