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#24 トラペジウム
高山一実さん原作の映画、「トラペジウム」を観た。
原作小説を読んだのは中学生のとき。もうそんな前になるのか、と驚く。電子ではほとんど本を読まないが、これはタブレットで読んだのを覚えている。
以下、ネタバレも少々含みます。
主人公、東ゆうはアイドルという夢を叶えるために東西南北の仲間を集める。しかし、その計画は仲間それぞれの思い・願いは考慮されていない。
ゆえに、アイドルデビューした後にメンバーそれぞれの心身や、それに伴う4人の関係性が崩れていってしまう。
私は、この前までイベント企画に携わっていた。半年がかりの、結構大きなものだった。にもかかわらずメンバーは10人足らずで、正直人手はかなり足りていなかった。
そんな中途中で体調を崩す人もいたし、生活を削って準備を進めている人もいたし、精神的に限界が来ていそうな人もいた。
そんな周りのメンバーを見て、「本当にこれがやりたかったことなのだろうか」と悩む時期があった。でも、イベントを終えてみて、みんな口をそろえて「楽しかった」「頑張ってよかった」「やりたいことができた」と言っていた。
その経験が東西南北の境遇と重なった。
ゆうは、アイドルの闇を見てもなぜアイドルであり続けられたのだろう。「アイドルが好き」、きっとその気持ちだけでは無理で。強い承認欲求か、自分で決めたことを絶対に最後までやり遂げる意志の強さか。
印象に残っているのは、亀井美嘉が東ゆうの「私たちはボランティア仲間なんです」という発言を責める場面。
「友人の基準」ってなんだろう…と私はよく考えてしまう。サークルの同期ともそんな話をしたことがあったが、私が「戦友みたいな存在」だと言ったとき、その同期に「友達と思われていないのは悲しい」と言われてしまった。
しかし、私の「戦友」という表現はきっと友人よりも親しい存在で、「友人」という言葉がもつ「親しさ」に加え、「明るい、前向きな話だけでなく難しくて時には悲観的に捉えないといけない話もできる」「困難な問題も今まで一緒に乗り越えてきた」みたいな意味も含んでいる。決して友人ではないという気持ちを込めているわけではない。
ゆうにとってはどうだったんだろうか。東西南北の3人だって、ゆうにとっての「自分がアイドルになるための駒」なだけでなく、「友人」だったのではないか。
人って、相手が自分に対して悪意をもっていたら何かしらのしぐさや言動で気付いてしまうものだと思う。年頃の女子ならなおさら。
ゆうがアイドルになりたくて、そのために自分たちが集められたことにもし気付いていたとしても、それに気づいてもなおゆうと付き合い続けるということは、ゆうと友達でい続けようと思えるようなゆうのしぐさや言動があったのだと思う。
見終わった後、後ろに座っていた方が、「2回目でも泣けるわー」と言っていた。そして、「東ゆうの性格の悪さが薄れる」と。
1回目と2回目で見え方にどんな違いがあるのだろうか……。私も、もう一度見てみたいと思った。
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