私の100%は誰かの0%
はじめに
私はとても強くて弱い人間です。言葉で表すなら「傲慢で繊細」なのです。そんな私には「人よりできない事とできる事」があります。それは、皆さんも同じだと思います。
私は幼少期にADHDと診断されて、それ以降「社会の枠組み」例えば幼稚園での過ごし方から小中高と教育の場でも人の違いや差に、戸惑う場面が沢山ありました。
今、22歳になり様々な経験から自分の心地良い考え方を身に付けて自分をよく知ったからこそ、言える事なのかもしれませんが「皆んなが同じ力量やキャパを持っていないし、皆んなが同じ事を同じようにできる世界ではないという当たり前の事を意識」しながら、生活しています。
幼少期からこれまでは、自分にとっての当たり前と、他人にとっての当たり前を比較するような考え方はありませんでした。
どうしても目の前に課せられる「課題」や「成績」などの評価基準に、追われていたのも理由の一つだと考えています。
ただ、これからもそれは変わらない気がします。どんな職についても「求められる事」に応える能力だったり、生活という日常でも、自己管理、お金を稼ぐ、メンタルも含めて自分でコントロールする能力を持って、生きる事が「課題」であり「成績」(と、される) にも変わるからです。
なので、どうしたって生き辛さを抱えていては自分が苦しいだけな気がしたので自分を認めてあげる事の方が生きていくなら簡単な気がしたんです。簡単、つまりは「心地よく、自分が楽に生きていく」事をどう、実現させていくか?の手段として簡単だという事です。私が意識している容量の違いについて書くnote
皆んな違うしそれが良い
容量の前に、感じる気持ち「感情」や思考の違い「性格や価値観」の違いを改めて知る事が大切だと思います。
どこを切り取っても、ある人にとっては「別の感情」だったり「違う意見」があったりします。
それは自然な事なので、例えばどこかのシーンで自分だけが違う気がしても、合わないと感じても「私が間違っている」などと、思う必要はなく「偶然」として捉えられたっていいはずです。
大多数が同意見であると、どうしたって「イレギュラー感」は否めませんが、それで自己否定を繰り返すようだと疲れるじゃないですか?
だから、肯定しろとは言わないけど「違うのは仕方ない」と、割り切る力も大切だと思います。
その、当たり前を意識できるようになってから身近な人から距離感のある人間にも「理解されない」「否定されている気がする」「私が間違っている」というネガティブな思考が緩和されました。
違うんだから、まあいいか。の気持ちって、怠惰でも気持ちの譲渡でもなく「自分を守る方法」だと思います。
皆んなも頑張っている。私も頑張っている。
上記を踏まえて、人と違う事はごく自然ならば「努力の過程」も、「やる気の度合い」も、「頑張る力の馬力」も違うと思いませんか?
人は、得意不得意があって好き嫌いがあります。
足並み揃えて協調性を求められる事か多いですが、例えば全て同じ能力で同じ速度でしか進まない世の中なら、どうなるか想像してください。
皆んな違うから面白いんだよね、本当は。
皆んなと同じかどうか?より私は個性を尊重できたらいいなって思う。これは理想論になってしまうんだけど自分の世界ではそうしている。そんな私だから、私の個性から認めてあげようよ、って思った話なんです。容量も含めて、個性がバラバラだからこそ、良いものも悪いものもあるよね、と。
なので、誰かより何かができなくても足りなくてもダメでも当たり前だし、大丈夫だし、最初から認めてくれない人に認めてもらおうとする力より、認めてくれる場所を作る方が楽しいやって思いました。
なので、学校が苦手だしても別の学校に行く手段もあるし行かない手段もある。仕事も転職もできるし新たな勉強をして違う環境へも行ける。休職して休んだって、いい。
人と違うのを受け入れられないのは、どういう視点で自分を見ているか?でも変わると思います。
他人からの評価基準に生きてしまうと、どうしても自分の犠牲を背負ってまで、キャパオーバーな事をしてしまうんです。場所を変えるだけでも、心が休まる事もあるんです。視点を変えるだけでも、心地よく考えられる余裕に繋がります。
どれだけ頑張ったかの競い合いなんかしてるようじゃ先に進まないし、どれだけ凄いか?の見せ合いっこなんて、時間がもったいない(これは私の考え方です)から、そこに心を置くのを辞めました。
自然とSNSからも離れられたし、他人の意見は良くも悪くもスルーできるスキルが身についたかなって思います。
うん、こうやって自分を認める事をしてあげると自然と余裕も出てきて誰かの頑張りを素直に認められるようにもなるんですよね。
自我が分からず他人を生きてしまう人へ
こういう自分と他人の違い云々の前に自分が分からないし個性も持ってないし他人からの評価で生きてしまうという方も多いと思います。
よく、自分とか自分らしさとか自分軸とか分からないし自我なんてわからないよ、って質問頂くのだけど「悩み」こそが「自我」の証じゃないか?と思うんです。
人と違うって感じるなら、人と違う気持ちがあるから「差」に気付いて悩むんでしょう。自分が何が分からないのも、何か分かろうとしているから「自分って何?」って悩めるんでしょ。自我を探ろうとする自我があるじゃない!と私はよく思います。
だって、どうでもよかったら悩まないし何も思わないと思うんですよ。眠ければ寝る、お腹空いたら食べる、尿意感じたらトイレ行くみたいに、当たり前に、疑問にも思わず行動してると思うよ。
でも、そこに一個自我という壁があるから悩むんだから、どんな感情も汲み取ってみたら自分の気持ちが見えてきたり理解できたりするんです。
それを前提に、皆んなそれぞれで皆んな差があって皆んな個性がある事も分かったら尚更自分を肯定?理解?できると思います。
求められたものに応えなきゃいけない決まりはない
賛否両論あること今から書こうとしています。ただこれも私なりの考えであって私はこう考えて生きていると身が軽いので最終的には、誰かの為にもなる余裕につながっています。
働くって、職種やその相手(例えば患者さんや企業の方、お客様)の需要と供給があって成り立ちますし誰かの為のお仕事なんだけど、相手もこちらも人間同士。今はカスハラなんて言葉があるくらいだけど、サービスとか仕事の枠を超えたことを求められるのは、ただの思いやりになってしまい時に自分の犠牲を払う事もあります。
もう少し手前の事も考えてみてください。働く人がいなければ成り立たないです。会社という枠の中で過ごしているとその中の対人関係やその中で求められる課題に追われてしまうけど、働き手のそもそもの「課題」とその先のお客様に向ける「サービス」があって成り立つんですよ。
自分という人間がお金を稼ぐ理由も「目的」があって手段として働くという仕事の選択をしていて、本来の自分の生活を充実させる心の余裕を失っては「対価」として頂く「給料」も思うように使えません。心の余裕がないとお金の使い道から、お金を払って何か充実させることも日常を過ごすのにも何か欠けたような満たされない気になってしまいがちなんです。
学校も同じく、勉強ってそもそも自分の為なので例えば将来のやりたいことがあって「目的」があるならその為に勉強できるし、「目的」があってもなくても全体的な基礎知識を身につければ「どうにでもなれる機会」を勉強という学に与えてもらえるんであって「良い成績を残す合戦」でも「競い合い」でもないと思うんです。「誰より、吸収率が早く高いか?」でもないよね。
今の状況に「距離感」を持って自分は「何の為?」を意識しなければ余裕も無くなるし、誰の為に生きているのか見失います。
自分なりにやることは、余裕になり活力にもなるので確保したい距離感ってあると思うんです。それを意識したら自分が効率が悪い事や、無理して心にダメージを必要以上に背負っていることがわかりました。
無駄を省くと言いますか、自分は自分という意識は仕事にも勉強にもいい意味での効率化にも身になる事にも私は変わった気がします。
これからも一社会の枠組みで生きていかなければならないからこそ、自分の身と心を守るスキルを得た方が心地良いという私の考え方です。
最後に
私はとにかく繊細で傲慢だから自分の当たり前に慣れてしまい自分の容量を越した事にも全身で取り組んできたのに「心を病んだ」結果になりました。
自分にとっての良い考えや視点の変化だけでも「頑張った」がどう実り自分の為になるのかは変わるし、「頑張りの度合い」が本質ではないからこそ私という個性も活き活きとすると思います。
皆さんにもそれぞれの長所・短所があり、容量の違いがあるのでそれぞれが自分の余裕を持って心地よく自分の出来ることをして、それが結果として誰かの為にもなる事を願います。
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