"意地悪になる"くらいが丁度良い
私の性格を言葉で表すと「繊細で傲慢」過去のnoteではそんな性格の私の「心地よい考え方」について書きました。
今回の note では、「心地よい考え方を」深掘りして私が意識した "意地悪になる" について書いていこうと思います。
" 意地悪 "っていう言葉から連想するのは「性根が悪く人を傷つけたり、それを楽しんでいる人」みたいな、道徳の範囲を超えた「悪い人」とイメージしていたのですが、私の近くにある意地悪は自分が思っているより、程度が低いものでした。(過剰評価をしていた)
そんな意地悪、皆さん" 意地悪 "をしようとしても中々できないんですよ。なぜなら、根本には "善良な心" を備えているからです。気を遣って、顔色を伺い、他人を思いやる気持ちを持っているからです。更に、繊細さんは人より何倍も他人への気遣いにカロリーを使っています。
他人を傷つけようとしてください、という趣旨ではなく意地悪いの程度で言うと「むかし、自分の好き勝手して堂々としていたあの子」を演じるレベルの事です。伝わりますか?
私は自我が、かなり強い自覚があります。だから人に対して疑問に抱く瞬間もそれが怒りに変わる事も沢山ありました。それをそのまま、相手にぶつけられるならノンストレスだったかもしれませんが、繊細さが「相手を気遣う事優先」として自分の意見は二の次、三の次。我慢する事に慣れてしまったのです。
それが、大きなストレスとなって対人関係も「自分の思い通りにならない事」が目立って疲れてしまう事もありました。
対人関係から自分を守る意地悪さ
「相手より優位に立ってやろう」なんて考えていたらそれはもはや「何関係?」の次元。平等だからこそ築ける対人関係なので、自分ばかりが相手の顔色を伺い気にかけるばかりも、平等とは思えません。
自分ばかりが犠牲になっていると感じる関係性は、一度距離を置くべきだと思います。
それが中々できないばかりに「私ばっかり不公平だわ」と相手を心の中で憎み責めたり、自分を否定する方が多いのですが、簡単なのは意地悪になったつもりで「切り捨てる覚悟」を持つ事です。
いつまでも、相手の変化を待っていても期待通りに変わる訳でもないし、理解してくれるまで説得したところで、他人は他人なので意見は異なります。
だから、見切りをつける。折り合いをつける、割り切る、スルースキルを身につける...など、自然にできない、それは相手にとって失礼だと思う繊細さんは、少し「意地悪」くらいを自分の心を守る為の手段として身に付けたって、それくらいが丁度良いと、自身の経験から学んだ事です。
相手を恨んだり、自分に非があると考える方が複雑です。どこまで考えても違う人間だからこそ折り合いをつける、距離を置く事は対人関係には必要だと思います。
言いたい事を言う、コミュニケーションの意地悪さ
「言いたい事、思っている事を中々人に言えない」それが故に我慢・抑制→ストレス となったり「相手に自分を理解してもらえない」という状態が続く事もあります。
会話から始まる互いの理解に必要なのは言葉にする勇気。中々難しいからこそ「意地悪」になりなるくらいの気持ちで自分の思いを素直に伝える事がステップだと思います。
会話をする中で感情が昂り、思うように言葉にできないという方や怒りが先行してしまう方もいらっしゃいます。
それも、どこかで押さえ付けていた感情や我慢していたストレスから反動として気持ちの昂りが高まる傾向にあるので「溜め込まない」事が、反動を抑え冷静さを保つ日頃の意識ケアだと思います。日頃から言葉にする練習を重ねた事で、会話がスムーズになりました。
「溜め込まない」つまりは、思いを吐き出す癖みたいなものですが私の認識では「わがままになる」くらいでした。
後から気付いた話ですが「人よりわがままのレベルが低い」事を知りました。つまりは、自分が「こんなに傲慢でわがままな私。」と思う事はそんなに、わがままじゃなかったという事です。
文句ばかり、弱音ばかりと自己否定するのではなく「正直になれてる」という意識くらいが丁度良いと思っています。
NOと言うのは、意地悪ではない
これも一つコミュニケーションではありますが、「NO」を言える人が少ないと感じます。
なので、私ばかりがNOを言う自己中心的(エゴイスト)だと周囲からも偏見を持たれそうと思ってしまうのは、国民性の問題なのかもしれません。
意思をはっきり伝える言葉というものも日本語には少なく「大変申し訳ないのですが〜」など、一度謝る姿勢から入るけれど自己主張として自分の苦手や嫌いを伝えるのに「謝罪の意思」や「罪の意識」はそこまで意識する必要はないと、私は思います。
過剰である事が問題なのであり、謝る事を辞めるという話ではありません(時に、それは尊重に繋がる事なので)
相手への思いやりだと思って「我慢」していたつもりが、返って逆効果となり関係性がこじれる事もあります。どんな時か?それは後出しのような、「あの時、嫌でした。」発言です。
あの時、昔に〜と、後から振り返って「NO」を伝えられても起きた出来事は変わらないし、当人も相手も今できる事は振り返ったとて、無い。次に活かせるとしても、心のしこりになる可能性もあります。「だったら、早く言ってよ」なんて会話はあるあるじゃないですか?
言えたら、言ってたよ。と、思うのですが、どちらにしてもその場で思いを伝える事は双方にとって重要だと思うので私はなるべく「NOは早く言う」を意識しています。
それは意地悪でも自己中心的でもなく、自分と相手の為になる選択肢として捉えています。
みんなからどう思われるか?より、自分の為を考える。
これもまた、協調性を重視する日本の文化国民性が生き辛さを蔓延させているとも思う事なのですが「他人からどう思われるか?」より「自分の為にはどちらが良いか?」を選択できるようになる事。
良い人、意地悪な人。これって人によって異なる価値観なんですよね。全員が全員「この人は良い人だ!」「この人は意地悪な人だ!」と一致する事はほぼないに等しいですよね。
私はボランティア活動などされている社会貢献者に感銘を受けるのですが、中には「偽善者」と言う方もいらっしゃる。だから、世の中分からないものだな〜と思うのです。
ですから、私の中で「良い人になろう」と自分の主張を我慢抑制したとて、全員に「良い人だね」と褒められる事はそんなに無いよって事です。
自分の為の人生、その価値観に合う対人関係が自ずと築かれていく。だから、見えない知らない関係性の浅い「誰か」の評価より、まずは自分自身の為。次に近しい存在の他人を気を使う事に注力したい、そう考えています。
これも、自分勝手と捉えてしまう繊細さんは周りに自由に生きている人から被害を受けていると感じやすい為、「自分はそうならないようにしよう!」と勘違いを起こしやすいのです。
そういう視点を持っている時点で、人様に迷惑をかけるような人間ではあまりない事の自覚も促していきたいです。
だから、少し意地悪になるつもりで、「あなたはあなたらしく自分の為に生きたってへっちゃらよ。」とお伝えしたいです。
最後に
もっと時間をかけて考えれば、これまでの経験から得た私の意地悪になるくらいが丁度いい考え方は沢山あるのかもしれませんが、一旦これらが主に意識してきた考え方なのでシェアさせてもらいました。
あくまでも、私の考え方なので選択肢の一つ程度に読んで頂けたら嬉しいです。最後まで読んで下さりありがとうございました。
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