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私だって「人間」なんだよ | 家族

こんにちは。私は摂食障害はじめ、精神疾患経験者で経験談から考え方、メンタリティーについて X @mgmgpai で質問やお悩みを頂いて Ameba blog @konpaichan でお答えさせて頂いています。公式LINE maro no talk も開設していますので詳しくはblogをご覧下さい。

以前、投稿した「家族について」のnoteから家族への想いや相談など沢山頂くようになりました。私も思い切って自分のカタチを伝えてよかったと思いました。

今回は、私が家族と向き合っていく過程の一つで共通した認識として大切にした「人間同士」という事について書いていきます。



家族も人間。人間同士の集まり。

親は、親という役割を担った人間であり、1人の人間である。子も同じく、親にとって子という役割(立場)でありながら、1人の人間という距離感を持つ。

私は気付いたら今の家族の元に産まれて私という人間で生きていました。皆さんも誰かから、産まれていますよね。

産まれるまでのこと、1番古い記憶までの過程には親という人間の人生があって、選択があって、今も私が人として生きていて、育ってきたと思うのです。

生きてこれたのは、育ててくれた親のお陰ではありますが「親のおままごとの人形」とは違いますよね、私は1人の人間として立派な自我があり、性格もあり、個性もある。

親と同じDNAや遺伝子が含まれているからと言って、全てが「似ている・同じ」とは限りません。これも皆さん周知の事実かと思います。

ただ、毎日を共に過ごしていたりお互いを身近に感じると忘れがちな「互いの人間性の区別」これを、再確認する機会や意識を持つ事が、距離感となると思います。


共有・認識とは?理解してもらう事との違い

好きも違えば、嫌いも違う。重要なのは相手に「伝える」事、認識する事。


例えば、私の経験談にはなりますが「嫌な事」を伝える事が共有の一つになります。

親にとって「言われて嫌な事」があるように子にも「言われて嫌な事」はあるのですが、友人関係等の他の対人関係でもたまにあってしまう「そんなつもりではなかった」という" 認識のすれ違い " は、人間同士なのでよくある事です。

親も「傷付けたい」とわざと取った言動ではなくても、無意識にも、無自覚にも「子を傷つけた」事になってしまうミスはあるものです。

例えば「そんなつもりではなかった」と認識するのには傷付いた事や嫌だった事を「伝える」事から始まります。我慢をしたり気を遣って伝えられないと、本人の無自覚に訴える事はできませんよね。

なので、会話やコミュニケーションは大切ですし何より重要視したのは「嫌な事の認識」です。


よく、親に理解してもらえないor子に理解してもらえないと悩み「伝える事」を億劫に感じてしまう方もいらっしゃると思います。私もそうでした。

" 理解とは、相手の気持ちを汲み取って「了解」する事 "ですが例え自分の中で腑に落ちない、理解できない事でも相手が嫌な事を「知る」のと「知らない」のでは、全く違うと思います。(知ろうと知らないでいいや、でも全く違います)

知らなかったら、やってしまう事なども「例え理解ができていなくても」知っているというだけで、それまでとは違う意識を持つ事ができます。

知っていながらも、ミスをしてしまう事もあるのを私自身は自分で学びました。親に対して私も完璧でいられないように、親も完璧なんてありません。少しのミスも許す・受け入れるようになるには「認識」という大きな共通項が大切だと思います。

また、知っていながらも繰り返し同じ言動を取るor共感の姿勢を持たないようであれば、私は0から伝えるように気を遣います。(こちらが気遣う事に抵抗を感じるかもしれませんが重要だと経験から思います)

自分で納得ができない事には、どうしても理解が追いつかず頭の中で処理する時に「忘れてしまうポケット」に入ってしまう事もあるのです。

しつこくても、繰り返し伝える意識はそういう意味も含めて大切なものになります。

億劫になって言葉にせず、態度で示してしまう、我慢してしまうなどするとストレスとなったり余計に関係が悪化します。喧嘩になろうが、一時的に悪化するより「これから」を考える事も大切だと思います。


なんで?の気持ちは「否定」ではなく「肯定」の為。

なんで?どうして?の疑問は、否定や拒否ではなく「知ろう」という気持ちから純粋に疑問に変わる事もあります。全てが否定的ではないと、覚えておく。

私は、親に「なんで?どうして?」と聞かれると「また否定されてるわ」と決めつけていた思考の癖がありました。小さい頃から人と違う個性から、自我を出すと否定的なコメントをされる事があったからなのか、自分を否定される事にも抵抗を感じていました。

ですが、小さい頃「アツいヤカンを触ったらダメよ!」と言われたら「え?なんで?」と聞きますよね。" 触ったらアツい→火傷をする " を知らないからこそ、なぜ「ダメ」なのか理由を「知る」為に質問をします。

その繰り返しで、我々は成長してきているので親も私も成長という意味で「なんで?Why?の気持ちは「大切な感情」であり、「否定」ではなく「肯定」の気持ちだってあるんです。

そして、私自身も親に対して「なんで?」と問いかける姿勢を待つように意識しました。

親がパッと取った言動に心の中だけで「モヤっ」としたり「イラっ」とするのだけでは勿体無いと、感じました。何故なら先程書いたように「会話」になっていないからです。

なぜ、そんな言い方をしたのかな?なぜ、そんな事をしたのかな?自分が疑問に思う事って「悪い事」じゃなく、ただの「疑問」なのですから、答え合わせしたっていいんです。

その回答にまた違和感を抱いたとしても、分かるまでとことん話そうと思っています。喧嘩もしますが、納得いかなくても相手の気持ちを知る事だけでも、心のモヤモヤを軽減できたりします。


素直になるのが難しいならわがままになる意識

わがままは、思っているより「気楽」なもの。わがままの気持ちを抑え込むと、ストレスとなり反動で違うカタチで当たってしまう。

私だけの話かもしれませんが、親にとってどうしたら「手のかからない子」「親孝行の子」となるのか?を模索してきたのですが、結果としてメチャクチャに迷惑をかけてしまったと思います。

でも、頑張っていたのは確かなんです。その、頑張り方を間違えてしまったから「私」も疲れちゃったし、「親」にも伝わらなかったのです。

例えば、何か習い事を始めたら親に褒めてもらえるかな?功績を残せば、何か良いだろうと思って習い事をやってみますが結果として私は長続きするタイプではありませんでした。飽き性なんです。

やってみよう!とした事は凄い事だけど、結局すぐに辞めてしまう事に焦点が合ってしまい「習い事辞めるならやるな」と言われてしまったり。

私は親に勉強しろと言われてきた訳ではありません。そこは理解してくれた部分でもあり感謝しています。だけどテストで100点でも取ったら「親は嬉しいんじゃない?」と分かっていたので、100点取れるほどの勉強への意思がなかったので他で埋めようと、頑張っていました。

良い子」であろうともしました。何が良い子なのかは分からなかったけど、例えばテレビとかで見る親孝行してる子供の映像とか、友達の姿とかを真似てみた事もあります。

でも自分が「楽しんでいるか」「無理していないか」ここが重要だったと思います。合う合わないってありますからね。

そんな散り積もった「何かで頑張っているを伝える」がストレスとなって結果として学校も嫌いだったから不登校になり、習い事もすぐ辞めるし、後に非行期に入り、自分の中で挫折を体現してきました。

今振り返って、じゃあ何が私にとっても親にとっても「正解」とまではいかなくても「良いカタチ」というのでしょうか?それは、「私が私らしくいられる事」です。

様々な精神疾患を乗り越えても、ゴールとして "社会復帰" つまり、学校に行けるようになる事や社会に出て働く事を望まれてきました。ただそれって、私を知ってもらっていないような気もしました。

親が望んでいるのが「成績」や「功績」や「ずば抜けた何か」なら、私という人間の魅力や他の事に目を向ける姿勢を持って欲しいと思うのです。

私という人間の魅力は、仕事の地位や学校での成績では計りきれないものがあります。

友人に「ありがとう」と言われる事や個性として、色々な事に敏感だからこそ気付いてやれる「思いやり」の気持ちや、「優しさ」色々な事に興味があるからこそ広く浅くできる特技。学校や社会という枠組みには収まらない私の個性に目を向けて欲しいと思いますし、皆さんもどこかでそういう魅力があるはずなんです。

私は、言葉にして伝えましたしどこかで親も「人とは違う子だけど素敵な子」だと理解はあったらしいので、ようやく自分の思いと合致した時に「本当の私」に視点が合ったと思います。

だから、素直になろうと思いました。それでも受け入れてくれるだろうし受け入れられないなら、とことん伝えようと思ったんです。

私がまずは自分に対して許容する心を広く持つ事で、自分の魅力に気付いて伝えるまでができたのですが、自分で思う事が難しいのなら「フリ」をするんでも、最初は構わないと思います。私って、凄いんだ!ってフリからでもカタチは変わる気がします。

素直になる事が難しいなら「わがまま」になったつもりでいたらいいと思うんです。悪い事だと決めつけないで、自分らしくとか、何?と思いませんか。だから、私の中では素直になる事は「わがまま」に近いものと思うので、わがままをやってみたらいいと思うのです。

良い子でいるとは真反対にいるような「わがまま」ですが自分の魅力や個性を表現するにはある程度「自分から伝えていく」事も必要です。

親と価値観が違う部分を認めてから共有していかなければなりません。ずっと親の為に生きる人生でもありません、まずは自分が無理しない事もストレスを感じない事も大事な親孝行ではありませんか?

素直になるのは、立派な意思表示であり自分を知ってもらい「私こんなに頑張ってるんだぞ」って伝える手段でもあると思っています。頑張るのカタチがどうであれ、頑張っている事に良い悪いはありません。

だから、素直が難しいなら「わがまま」になろうと、私はそう心がけたらとっても楽になりましたし、親にも伝わったと思います。


最後に

いつも3000〜4000字まで書いて長くなってしまうのでここらで一旦終わりにします。やっぱり家族の話は湧いて出てくる程、たくさん試行錯誤してきました。まだまだ、ヒストリーはあるので今後もシェアしていけたらと思います。

ここまで書いて、冷静に客観的になれているのは「最初」からできた訳ではありません。

私も沢山もがいてきました。葛藤して悩んで辛い日々を乗り越えて「今」があります。

あくまでも、私と親のこれまでをシェアしているので皆さんの自分らしさと親との在り方は自由であると思います。

考え方の選択肢の一つとなれば、と思います。最後まで読んで頂きありがとうございました。

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