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弱くてもいい

 いきなりだけれども、世の中なんと「強くなければいけない」と思い込んだままの人が多いことだろうか。「泣いてはいけない」と自分の親に教えこまえれた母親に育てられた子は、やはり「泣いてはいけない」と信じて生きる。「弱さを見せることは罪だ」と知らぬまに思い込んで。それは、なんと不幸なことか。だって、真実は、「人は誰しも弱い」からである。
 「人は誰しも弱い」とあっけらかんと認めて生きると、とってもラクになる、と私は思う。弱い自分、ややもするとすぐ落ち込んでしまう自分。でも、ひょんなことがきっかけでまた立ち直ったりして。なんと頻繁に感情の奴隷になっているのかと自分にあきれたりがっかりしたりしながら、人は生きているのではないだろうか。それでいいのである。人の心なんてそもそも不安定なもので、それを表面に出しているかいないかの違いがあるだけである。


 ここ2ヶ月ほど、息子と娘が二人とも東京へ引っ越すのにバタバタしていた。まずはひとり暮らしをしていた息子が谷町のマンションを引き払い、いったん自宅に戻って来た。実家住まいの娘は洋服を選別、東京へ持っていきたい本を10箱の段ボールに詰めると言う。その荷造りを仕事の合間にちょこちょこ手伝いながら「コレが全部終わったら寂しくなったりするのかな?」とちょっと不安になった。が、しかし、引越しのあれこれの真っ最中は”何も感じない”ので、「ああ私、平気でよかった。それに第一彼らはもう大人ではないか。自分の夢のために上京するんだからこんな幸せなことはない」と、淡々とした自分を頼もしく思い、落ち着き払っていた。


 なんだかんだで東京に8割がたの荷物を運んだ後、大阪に残した用事を片付けるために彼らは再び戻ってきて、この家で最後の十日を暮らした。その間も、私はいたってふつうに仕事をし、彼らにご飯を作ってやり、洗濯を干し、ノー天気な夫と老齢の父母の世話をした。彼らがいよいよ最終的に東京へ出発するという朝は、父母の定期診察日であった。そこで青いオデッセイに彼らと私の父母を乗せ、まずは父母を大阪市内の病院で降ろした。「行ってきます。またすぐ帰るからね」と外に出て挨拶をする二人。おばあちゃんが名残惜しそうなのを二人はかなり気にかけていたが、時間も迫っているので車に戻り新大阪へ向かった。病院から新大阪までは15分ちょっと。あっというまにタクシーロータリーに着いた。慌ただしく送迎の車が出入りし、タクシーの運転手はそれが迷惑そうにギシギシのろのろ移動している。
 「早くここを出ないとタクシーの迷惑になるから、気をつけて降りてね」私はハザードを焚いてバックミラーを覗いた。二人は黙々と荷物を降ろし、ドアを閉めると、ちょっとそこまで行ってくるワとでもいう様子で助手席側の窓から少し照れたように微笑んだ。それから不意に、兄のSが背をかがめて窓の中の私の顔を覗くと、「お母さん。ありがとう。気をつけて」。そう、ひとことひとこと区切るように言うと、私が大丈夫かどうか確認するかのように私の目を真っ直ぐに見た。それからニコッと笑った。「うん!Sも気をつけてね!Aちゃんも!」Aはどこか気弱そうな幼い頃の面影をちらつかせながら、「ありがとう」と笑顔でうなずいた。「じゃあママも行くわ!いってらっしゃーい!」私はすぐに前方を見るとタクシーロータリーの狭い道を進んだ。一瞬覗いたバックミラーに、互いにしゃべりながら駅の構内に入っていく二人が見えた。
 私は運転に集中し、父母のいる病院への道を走った。コーナーを曲がって陸橋を過ぎ御堂筋方面の短いトンネルへ続く下り坂に吸い込まれていく時、突然、予想していなかった感情がこみ上げるのを感じてうろたえた。視界を曇らせないように左手の指で目のあたりを何度か拭い、深く息を吸ってふーっと吐くのを繰り返していると、まもなく病院が見えてきた。ウインカーを出して右折し駐車場に車を停めた。それからバックミラーで今度は自分の顔をしっかり点検し、マスクを付けて車から降りた。
 私は淡々と強く見えただろう。自分でも「大丈夫。もう彼らもオトナになったのだから」と思っていたのだから。でも、あの感情の揺れはなんだ? それは悲しいとか寂しいとか、そういう単純な感情ではなかった。一言では言えないが、「知らぬ間に大きくなったんだなあ。こうやって誰しもいつかは一人で生きていくんだなあ」という感慨であったのだろうか? いや、やはり一言では言えない。 

 人間というのはわけがわからず、予想がつかないやっかいな生きものだ。それでも人生は続いていく。なんとかなる。なんとか生きていける。さめざめと泣いた次の瞬間、つまらぬ冗談に爆笑もできる。どんな子供もどんな大人も、幸せという名のふしぎな、かたちのないものに向かって、今日も、編み直し編み直し、私たちは生きていく。生きていけるのである。