人間を縛る「空気」ー山本七平『「空気」の研究を読んで


 僕は以前の記事で、人間が人間らしく幸せに生きるためには、周りに左右されることなく、主体性を社会の中で発揮していくことが必要だと書いた。

 だが、主体性を発揮するのが難しい場合も、しばしば起こり得る。例えば、周りがみんなある意見に傾いているから、ある種の同調圧力を暗黙のうちに感じ取ってしまい、その場の「空気」に合わせてしまう。こんな風に、どうも「空気」が主体性を妨げることもありそうだ。そこで今回は、山本七平『「空気」の研究』を中心に取り上げて、なぜ「空気」が人間を縛るのか、またどうすればその支配から抜け出せるのかについて考えてみたい。
 


「空気」とは何か

 まず、人間を縛る意味での「空気」とは何なのか。山本の定義を借りてみよう。

それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力である

山本七平『「空気」の研究』22、23頁

「~すること、~と考えること」などが社会的に当然だと人々に思わせる、これが空気の持つ魔力であり、空気はある種の「絶対的な」価値観といってもいい。本書で取り上げられている一つの例として、骨への認識の違いがある。日本人は骨を見ると、そこに何か霊的なものが存在すると感じるが、他方で西洋人は、そのような感覚は存在しないという(肉体や骨は魂の牢獄で、死後の魂はそこから解放されていると認識しているため)。そのため、遺跡で遺骨を処理する仕事では、日本人だけが心理的に苦しい状態になったという。

「空気」支配成立の要因


 このような「空気」支配が生じる一つの要因として、対象を「臨在感的把握」してしまっているからだと山本は指摘する。これは、ある対象(骨)に対して感情移入を行い(霊が宿ってる)、何の考えもなく、それを絶対的なものとして受け入れるということだ。
 もう一つの原因は、対象を相対的に把握しないからだという。一つの価値観には、必ず対となる価値観が存在する。ここで問題となるのは、どちらか一方の価値観を捨て去り(相対化を放棄)、他方を臨在感的に把握して、絶対視してしまう場合である。本書の例で説明すれば、「経済成長」と「公害問題」である。両者は対であるはずなのに、過去の歴史を見てもどちらか一方に追従する。ある時は、「経済成長」を至上とし、時代が進めば、今度は経済成長は捨て去られ、「公害問題」へと熱中する。
 このように、どちらか一方が善であり、もう片方が必然的に悪になるという思考様式では、寛容性を失ってしまうし、「空気」による支配が成立する。その上、「対象の相対性を排してこれを絶対化すると、人間は逆にその対象に支配されてしまうので、その対象を解決する自由を失ってしまう」意味でも(同前、66頁)、社会にとってマイナスと言える。
 これは後述するが、山本によれば、このような「空気」支配は、日本特有のものであるという。日本人は熱しやすく冷めやすいため、常に一つの命題を絶対化し、その「空気」で支配されてきたと指摘する(75頁)。もちろん、日本にその傾向が強いのかもしれないし、その考えは否定しない。ただ、個人的には、人類共通して空気支配に陥る危険性はもっていると言ってもいいように思う。例えば、ヴォルテールは『寛容論』の中で次のように述べている。

じっさい、人類はきわめて弱いものであり、かつ、きわめて邪悪なものである。であるがゆえに、人類は、宗教をもたずに生きるよりも、考えられるかぎりの迷信、ただし、ひとの命を奪わないていどの迷信に縛られて生きる方がおそらく望ましいのである。人間つねに何らかの束縛を必要としてきた。

ヴォルテール(斉藤悦則訳)『寛容論』175頁

この記述から、人間は生きていく上で、何らかの絶対的な迷信や支配を求めがちということが読みとれる。ヴォルテールは、人間の幸福にとって寛容の重大性を説いており、このような支配に服従することは、彼にとっても許されることではなかった。

「空気」支配からの脱出方法

 少し話が逸れたが、では「空気」支配から逃れるためには、どうすればいいのか。これは先に述べた、「空気」支配の要因を読んでいただいた方は、うすうす気が付いているであろうが、まず一つは山本によれば、「対象を歴史観的把握で再把握」する必要があるという(『「空気の研究」』42頁)。少しわかりにくいので、言葉を補って説明すれば、当たり前を疑い、なぜその「空気」が成立しているのか、またそれに従わなければならないかを考えるということである。どうしてその価値観が成立したのかということを考えれば、その空気に従う必要があるかは、一旦考えることができる。
 例えば、骨と霊の関係だ。これは僕も知らなかったが、どうも、古事記や万葉集以来の世界観に基づいたものらしい(同頁)。これを知ったらどう思うだろうか。今の我々は、このような世界観を共有しているだろうか。なぜ、骨に恐怖心を抱いてしまうのか、その原因を考えさえすれば、「骨=恐怖・霊」といった図式からは離れることができる。一度、あらゆる物事・考え方の歴史に触れてみるということは、実はすごく重要なことなのかもしれない。
 もう一つの克服方法は、相対化することだ(54頁)。空気支配の要因のふたつ目で、対象を相対化せずに、どちらか一方を善と絶対視し、もう片方を脳内から消し去ってしまうということを挙げた。相対化していないがゆえに、その片方のみに支配されてしまう。そうではなく、「対象を相対化することによって、〔中略〕対象から自己を自由にすること」で(67頁)、「空気」の支配から脱することができる。
 これは、寛容になるということと同義であるし、また寛容の恩恵を他者から受け取るためには、以下のようなことが必要だとヴォルテールも述べる。

ひとが寛容を受け取るにあたいする人間になるためには、まず自分が狂信的な人間ではないようにしなければならない。

ヴォルテール(斉藤悦則訳)『寛容論』165頁

 このように、どちらか一方を絶対視するのではなく、一旦考えを相対化することが、寛容や「空気」支配からの脱出には求められる。ヴォルテールも、人間は往々にして「正邪を決めたがる風潮」があると指摘しているが(同前、43頁)、そうなってしまってはよろしくない。せっかく考えるだけの頭脳を人間はもっているのだから、少しでもいいから他の考えにも目くばせをした方がいいだろう。自分自身だけでなく、周りの人含め、上記の点を意識するようになれば、寛容さを持てるようになるだろうし、「空気」に縛られずに済むだろう。まず、とにかく否定から入るのではなく、一旦相手の意見を受け入れるという姿勢も大切だと思う。

啓蒙主義・教育の悪影響

 ただ、このような相対化の思考を困難にしている、社会的な要因について、山本は重要な指摘を行っている。それは、啓蒙主義の影響である。

啓蒙主義とは、一定の水準に「民度」を高めるという受験勉強型速成教育主義で、「かく考えるべし」の強制であっても、探求解明による超克ではない。

山本七平『「空気」の研究』36頁

 啓蒙主義の発達により、どちらが正しく、誤りなのかを区別し、正しいとみなされた考えを絶対視する傾向が強まったと言える。これは、別に現在の教育においても同じことが言える。詰込み型教育により、正解か不正解でしかモノを考えない習慣が身についており、「寛容」を持ちにくくなってしまっている。啓蒙主義の功罪や、現代教育の問題は、今一度社会全体が考え直さないといけないのではないだろうか。

日本特有の社会構造と「空気」

 最後に、「空気」支配と日本社会の構造について、山本の指摘を述べて締めくくりとしたい。本書は、なぜ日本で「空気」支配がはびこりやすいのかを提示している。それは、儒教に基づく伝統的な「父ー子」観念に日本社会が基づいているからだという。ある不都合な事実を、「父は子のために隠し、子は父のために隠す」という規範が、日本社会の構造になっていると山本は指摘する(142頁)。つまり、自分たちにとって都合のいい考えや発言が唯一の真実となっている。
 山本は戦前の右翼や軍部を事例に出す。彼らは「自由主義者」を「救いがたい連中」だとみなし、嫌悪していた。なぜなら、自由主義者たちは、「あった事実をあったといい、見たことを見たといい、それが真実であると信じていた」からだ(148頁)。つまり、彼らは「父ー子」の枠内に入っておらず、個人が父や子のためではなく、自由に発言していたため、これを右翼や軍部は排除していったという。
 山本によれば、この「空気」は別に戦前だけに限らず、枠内からはみ出すものを排除しようとするのは、日本の通常性だと指摘する。

日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない「父と子の隠し合い」の世界であり、従ってそれは集団内の情況倫理による私的信義絶対の世界になって行くわけである。

山本七平『「空気」の研究』184頁

 これはまさに、日本特有の「おおやけ」観といったものであろう。このような社会は、異質な考えを排除するという意味で、やはり寛容さに欠けていると言わざるを得ない。このような「空気」で本当に良いのかどうかは、今一度相対化して考え直さないといけないのではないかと思う。






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