生きづらさの原因ー社会から切り離された「人間」

 この世はなんだか生きにくい。そう感じたことはないだろうか。少なくとも僕にはあるし、今もぼんやりと感じている。じゃあ、なんで人間は生きづらいのか。人間はどのようにしたら楽しく過ごせるんだろうか。今回はこの点を少し考えてみたいと思う。


「人間」とは何か

 本題に入る前に、そもそも「人間」って何なのかについて考えてみたい。こんな大きいテーマを掲げてしまうのは気が引けるし、それだけで記事がいくつも書けるだろう。そんな難題にこの記事では取り組むつもりはないが、そもそも「人間」という「日本語」がどのような意味を持っているのかについて、今回は、哲学者である和辻哲郎の言葉を借りて見てみたい。
 和辻によれば、「人間」という言葉は単なる「人」を指すものではないという。なぜなら、「人」という言葉に「間」がくっついているのだから。彼の言葉を借りよう。

人は世間に於て人であり、世間の全体性を人に於て現わすが故に、また人間と呼ばれるのである。例えば、人を動物より区別するものは言葉と理性とであると云はれるが、言葉と意識とは社会的産物であり、しかも個人に於て現れるものである。一人の人と雖もそれが人である限り、即ち言葉を持つ限り、社会を個人に於て現わしているのであり、従って人間と呼ばれてよい。〔中略〕人間とは「世の中」自身であると共に、また世の中に於ける「人」である。

和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(岩波書店、1934年)20、21頁。
※なお、本書は岩波文庫で2007年に復刊されている。そちらが読みやすいだろう。

 このように、和辻によれば「人間」という言葉は、種族・生物としてのヒトに加えて、「世の中」という社会に存在するものだという。さらに和辻は、「世の中」や「世間」、さらには「存在」という概念についてもしっかり論じている。「世の中」・「世間」については、絶えず移り変わる「人間共同体や人間関係」だという(同前、29頁)。ここだけでも、「人間」が社会の中で生きることを意味することが分かるが、「存在」についても同じことが言える。和辻によればそれは、「自覚的に世の中にあること」だという(同前、41頁)。
 和辻が言葉を解体して、意味を見出していく過程はかなり読みごたえがあるので、興味があれば、ぜひ原典に当たって確認してもらいたい。だが、僕がここで言いたかったのは、「人間」とは社会とのかかわりの中で生きるものであり、「人間」が「存在」するためには、自分が「世の中」で生きていると自覚することが求められているということだ。社会の中で自分がなんらかの役割を果たしていると思えれば、人間として存在できる。逆説的に言えば、社会との関わりを持たずに生きていれば、それはもはや「人間」ではないということだ。

社会的関わりがない故に生きづらい

 だが近代以降、人間は社会との接点が減ってきている。『自殺論』を執筆した社会学者のデュルケームも、このことを指摘する一人だ。デュルケームは、自殺の要因を大きく3つに分類しているが、ここでは「自己本位的自殺」を取り上げたい。
 この「自己本位的自殺」とは、デュルケームによれば近代以降、個人主義化が進展したことにより、数が増えていったという。この議論を少しばかり紹介しよう。人間が社会と切り離された結果、人間の「意識は周囲のものをすべて遠ざけ、みずからについて反省」をめぐらすようになり、「内面の生活」へと籠るようになる(『自殺論』467,468頁)。ただ、人間は基本的に、外部の世界からなんらかの刺激や素材を得て考えるようになっている。そのため、自分が周囲との関係を断って内面にこもることは、「みずからの内部に空洞をうがち、すでに自己のみじめさ以外には反省の対象をのこしていない」(同上 469頁)。人間が世の中から切り離されたことによって、自分の殻に閉じこもり、普通なら考えなくてもよいことばかり考えてしまい、自らを苦しめてしまうわけだ。
 同じようなことは、ショウペンハウエルも言っている。

 自分だけを全実在だと思いこんでいるような卑しい利己主義者は、〔中略〕他人の運命などには全然同情をもたないで、自分の関心のすべてを自分自身の運命に向けているからして、その結果、非常に敏感になってしきりに嘆声を漏らすということにもなるというわけである。
 〔逆にー引用者注〕自分以外の現象のうちにも自分自身を再認識するというちょうどそのことからして、〔中略〕まずそこに正義と人間愛とが生まれてくる。

ショウペンハウエル(斎藤信治訳)『自殺について 他四篇』(岩波文庫、1979年)89頁

ショウペンハウエルによれば、他者に目を向けることで、他者の境遇に触れ、自分だけが不幸でないということを知るし、その人を助けてあげたいという欲求が起こるという(同上、88,89頁)。そうなると、自分を卑下することはないし、なんなら他者の役に立てるという意味で、より「人間」的な生活をおくれる。

 少しショウペンハウエルに話が逸れたが、近代以降社会が解体され、自由化したことも、「自己本位的自殺」が増えた原因だとデュルケームは指摘する。

〔従来の閉鎖的なムラ社会とは異なりー引用者注〕その活動範囲をひろげていくことを要求されていうなるような社会では、意識は、それをこえると自壊を起こさざるをえないような正常な限界をもこえる危険に、それだけ大きくさらされることは明らかである。すべての事柄に問いを発するような思惟は、もしもそれが不可知の重荷にも耐えられるほど十分強靭なものでなければ、かえって自らにも疑問を向けるようになり、懐疑の深淵におちこむおそれがある。なぜなら、もしもその思惟が、問いをむける対象のもつべき存在理由をさぐりあてることができなければ、〔中略〕それは対象の実在性をすべて否定することになろう

デュルケーム(宮島喬訳)『自殺論』(中公文庫、1985年)473頁

 要するに、閉鎖的な社会から解き放たれたことで、人間は様々な活動に従事することができるようになる。が、他方で、人間は社会との結びつきを失ってしまった中で活動に従事するが、結局なんのために自分がこの活動をやっているのかという意味が見えなくなってしまい、自分の存在意義を見失ってしまう。だから、自殺してしまうわけだ。逆に、社会に根差して生活している場合は(とりわけ、昔のムラ社会のように)、この活動は何の意義があるのかということについても、理解できるし、人間が社会の中で生きていると自覚していられる。
 この「自己本位的自殺」から分かることは、「人間」が社会との接点を失い、自らの「存在」意義を自覚できなくなった結果、生きづらくなってしまったということだ。

解決へ向けた一つの方策ー自分らしさの追求

 では、なぜ人間と社会との接点が失われてしまったのか、また社会との接点をもつためにはどのようにすればいいのか。この原因や方策については、これまた色々と考えられるが、今回は自分らしさを追求するということに限定して述べてみたい。
 自分らしさを追求することが、なぜ社会との接点を生み出すことにつながるのかと言えば、それは近代以降、人間全体が画一化・没個性化の傾向にあるからである。ミルは『自由論』の中で、この傾向に警鐘を鳴らしている。

今では、社会は個性に対してかなりの程度、優位に立っている。したがって、人間本性を脅かしている危険は、個人の衝動や好みが過剰であることではなく、むしろそれらが欠如していることである。〔中略〕娯楽のために何かするときでさえ、人々が最初に考えるのは、他人に合わせることである。大勢の人々に好まれるものが、自分の好きなものなのである。何かを選ぶにしても、一般に行われている物事の中からしか選ばない。〔中略〕自分の本性に従わないことで、従うべき本性がなくなるまでになっている。人間的な能力は衰退し貧弱になっている。意見や感情にしても、自分の中で成長してきているものもなければ、本当に自分自身のものもないのがふつうである。はたしてこれは、人間本性の望ましい状態だろうか

J.S.ミル(関口正司訳)『自由論』(岩波文庫、2020年)136~138頁

 現代でもこの傾向は引き続き見られると思う。とにかく流行り物に乗っかって、それだけでなんか満足した気になる人はいるわけなんだから。つまり、社会全体の画一化が進行しており、個々人の差異みたいなものが分からなくなってしまう。自分らしさや個性っていうものが見えなくなった結果、自分が社会でどんな役割を果たせるのかが、見えなくなってしまったと言える。
 周りに合わせるっていうことは、確かにすごく楽だ。ミルの言葉を再び借りよう。

自分の人生のあり方を、世間任せにしたり自分の周囲の人任せにしたりしている人に必要なのは、猿真似の能力だけである。自分の人生のあり方を自分自身で選ぶ人は、自分の能力のすべてを駆使する。

同上、132頁

 自分らしさや個性を捨てることは、無思考でいられるし、労力もかからない。だが、本当にそれでいいのか。自分の中に少しでも、社会やその慣習に違和感があるのであれば、いったん立ち止まって考え直してみるのも良いんじゃあないだろうか。何が(自分にとって)最善なのかを少しでも考えることで、またきっと変わってくる。もう一度だけ、ミルの言葉をそのまま借りよう。

人間の本性は、図面通りに作られ決まりきった仕事を正確にこなすように設定された機械ではない。一本の樹木である。人間の本性は、自らの内部にあって自らを生命あるものにしている諸力の趨勢に従いながら、あらゆる側面で自らを成長させ発展させることを求めているのである。

同上、133頁

 少しでも、自分自身をよりよくしたいと願うのが人間の性であり、そのためには周りに追従するのではなく、自分でしっかりと考えないといけない。ただし。先に取り上げた「自己本位的自殺」のように、自分の世界に閉じこもって考え続けてはよくない。相手を知ることで自分を知ることにもつながるし、社会の中で自分の個性や我を押し出していくうちに、自分らしさっていうものも見えてくるだろうし、社会における役割みたいなものもはっきりしてくる。そうなると、和辻の言うような「人間」として「存在」できるようになるだろうし、生きづらさを感じることもまた少なくなり、楽しく人生を過ごせるんじゃあないだろうか。

他者に合わせることは果たして幸せか

 他人に合わせることによって、他者の歓心を買えるから、それで幸せだから、なんの問題もない考える者もいるかもしれないが、それは全くもっておかしな話だ。他者に気に入られようと、こびへつらい、とりあえず長い者にまかれておけばいいと考える者。他者の顔色ばかり気にして、自分の意見を持たず、とりあえず全員に良い顔をして生きる者。僕はそれらを総称して、「風見鶏」と呼ぶ。果たしてそんな「風見鶏」が幸せだろうか。
 ラ・エボシの『自発的隷従論』にも、圧制者に追従する「小圧制者」が描かれるが、彼らは悲惨な生き方をしている。少し見てみよう。

この者たちは、圧制者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない。連中は、圧制者に服従するだけでは十分ではなく、彼に気に入られなければならない。彼の命に従って働くために、自分の意志を捨て、自分をいじめ、自分を殺さなければならない。彼の快楽を自分の快楽とし、彼の好みのために自分の好みを犠牲にし、自分の性質をむりやり変え、自分の本性を捨て去らねばならない。

ラ・エボシ『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫、2013年)70,71頁

 このように、「風見鶏」は常におびえているのである。いつ他者から見限られてもおかしくない。彼らはその人に嫌われてしまえば、もうおしまいである(これは現代に適用すると少々極端だが)。だから、嫌われないようにいつまでもへこへこし続けるのだ。
 どうだろう、常に不安と表裏一体なこんな生き方を、幸せと言えるだろうか。僕にはそうは思えない。先ほどラ・エボシも書いていたように、「風見鶏」は自分らしさを捨ててしまっている。だから、他者ばかり気にして、不安に苛まれるわけだ。
 もちろん、人に合わせることが全く悪いと言わないが、問題なのはその程度なわけだ。自分を完全に押し殺しているのであれば、それはよろしくない。ただ、社会において何事をも自分の思い通りに進められるなんてことはあり得ない。だから、周囲の状況に乗っかりつつも、その中で自分の色を出していくことが現実的な選択肢と言える。その物事に少しでも違和感を抱くのであれば、そこははっきりと意見を言うなどして変えていけばいい。とにかく、自分を捨てて「追従する」のでは、生きていく上で適切ではない。そのことはここで申し述べておこう。

 ただ、ミルも指摘するように、「現在の世論の方向が持っている一つの特徴は、個性が際立って示されることに対して、とりわけ不寛容になりがち」であり(前掲、ミル『自由論』156頁)、自分らしさを出しにくい環境ができてしまっているのもまた事実である。なぜこんなことになってしまっているのか、なぜ自由や個性を放棄せざるを得なくなってしまったのかなどについては、また別の記事で改めて考えてみたい。
 それでも、僕が今回言いたかったのは、自分の「魂の欲求」を優先してあげようということだ。もちろん、それで他者に迷惑をかけてはならないし、その人が不利益を被るようなものはよくない。でも、そうならない限りにおいては自分に素直であってほしいし、僕もそうありたい。むやみやたらに他者に気を遣いすぎるのは疲れやしませんか。もっと自分にわがままであってもいいんじゃないかしら。

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