『愛の犬小屋』 # シロクマ文芸部

愛は犬小屋にいた。
懐中電灯の光をあてて覗くと、小屋の中で小さくうずくまっている。
「早く、出てきない。あなたの部屋は、ちゃんとあるでしょ」
しかし、愛は光から顔を背けるようにして、嫌々と首を振る。
隣の2階に灯りがついた。
黒い影が窓際に立つ。
影だけなのでわからないが、恐らくこちらを見下ろしているのだろう。
思わず、懐中電灯を消してしまう。
別に悪いことをしているわけではない。
そうではあっても、変な誤解を招きたくはない。
それを見透かしたように愛が笑う。
いや、笑ったような気がしただけかもしれない。
そうは思っても、一度芽生えた怒りは愛に当たってしまう。
「出ろって言ってるでしょ」
犬小屋の屋根を小さく叩く。
それでも、愛はこちらを見ようともしない。
「あなたがそんな所にいると、こっちが虐待してるみたいに思われるのよ」
つい声が大きくなる。
幸い、隣の2階に人影はなかった。
愛は結局、ひとことも口をきかずに、犬小屋の奥に消えて行った。

もともと我が家に犬なんていなかった。
だから、当然、犬小屋もない。
そもそも、今どき、屋外に犬小屋を置いている家なんて、あるのだろうか。
だから、愛がどこで犬小屋のことを覚えたのかは、わからない。
ある日、愛が犬を飼いたいと言い出した。
今、そんな余裕はない。
あなたひとりでも大変なのにと、恐らくどこの親でも子供にペットをねだられた時に口にするであろうことを、愛にも言った。
わたしがひとりで世話をすると、これも、ペットを飼うことを断られた子供が口にするであろうことを、愛も言った。
何回かの応酬があった。
子供の興味などそんなに長続きするものではない。
愛が犬のことを口にすることも、次第に減ってきた。
少しそのようなことを話しても、すぐにおとなしくなった。
そんな時には、夕食を愛の好きなメニューにしたり、普段は買わないようなお菓子を買い与えた。

ある朝、愛が部屋にいなかった。
夕べは、いつもと同じ時間に寝かしつけた。
愛の寝室のベッドで、いつもの絵本を読んでいるうちに寝息をたてていた。
その愛が、いない。
家中を探してまわった。
どの部屋にもいない。
かくれんぼをした時に隠れていたことのあるクローゼットや、浴槽。
ロフト。
そんなところに入れるはずもないが、地下収納室も。
愛は見つからなかった。
その夜、犬の鳴き声を聞いたような気がした。
窓を開けてみて、わかった。
玄関から門扉までの間の、庭とも言えない狭いスペースにそれはあった。
犬小屋だ。

中にいた愛を引きずりだして、部屋に閉じ込めた。
「どこからあんな犬小屋を持ってきたのよ」
愛は何も答えない。
それからも、愛は部屋を抜け出しては、犬小屋にこもり続けた。

次第に、愛は犬小屋にいる時間の方が長くなってくる。
なぜ、そこにいてはいけないのか。
愛は無言で尋ねてくる。
「どうして」
犬小屋だからとしか、答えようがない。
あるいは、あなたは犬じゃないからと。
愛はさらに問い返す。
「これが、なぜ犬小屋なの」

本当は、そこに愛がいたって構わなかったのかもしれない。
しかし、そんなことは、世間では認められない。
我が子を犬小屋に住まわせるようなことは、虐待だ。
そう思われても仕方がない。
今日こそは連れ戻さねば。

犬小屋の中を、そっと懐中電灯で照らす。
電池が切れかけているのか、灯りがチカチカしている。
愛の姿は見えない。
犬小屋の中に潜り込む。
頭からそろりと中に入れる。
続いて肩を少し捻りながら引き寄せる。
入り口は狭いが、小屋の中も思っていたよりも広い。
ゆっくり腰を上げてみる。
結局、天井も、大人が立ち上がっても充分な高さだ。
「愛」と小声で呼ぶが、返事はない。
そのまま、奥の方へと這っていく。
どこまで続いているのか。
直進しているのか、いや、少しずつ右に左に曲がっているような気もする。
今にもきれそうな懐中電灯の灯りでは、よく見通せない。
そろそろ引き返そうとした時に、一瞬、愛の顔が照らし出された。
「愛?」
電池が切れた。


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