『寝心地の悪い脳』 # シロクマ文芸部
「逃げる夢を見るんだよ」
先輩は言った。
「俺じゃないよ、その夢を見るのは」
先輩は自分の頭を指さした。
「こいつだよ」
その先輩とは特別に親しいわけではない。
その日は朝から仕事が立て込んで、休憩が取れなかった。
全員が昼食を終えて戻って来た頃に、ようやくひと段落ついた。
近くのハンバーガーショップのセットで食事を済ませた後、長居するわけにもいかず、近くの公園まで移動した。
幸い天気も良かったので、ベンチで昼寝でもするかと場所を探しているところに先輩を見つけたのだ。
噴水の近くの、ちょうど植え込みの陰になった、寝るにはちょうどいいベンチだ。
「先輩、まだ戻らなくていいんですか」
こちらとしては、あわよくばそのベンチを独り占めさせてもらおうと声をかけたのだが。
「何かがいるんだよ、ここに」
先輩は、人差し指で自分の頭をこんこんとつついた。
「先輩ではなくて、ですか」
意味がわからずに尋ねた。
「何を言ってるんだ。俺は、ここにいるじゃないか。そうじゃないんだ、ここに」
そう言って、自分の頭をこちらに突き出してくる。
「住み着いてるいるんだよ」
「誰が」
「知るもんか。誰かが、勝手に住み込んで、そいつが毎晩、俺の頭の中で、自分が逃げる夢を見やがるんだ。そいつは」
まくし立てる先輩を押し留めた。
「ちょっと、待ってください。整理させてくださいよ」
このおかしな話をする先輩の相手をするのが、少し楽しくもなってきた。
「つまり、誰かが先輩の頭の中に住み着いた。それは先輩の知らない奴だ。ここまではいいですね」
「そう言ってるだろ」
「まあ、まあ。で、そいつがその、先輩の頭の中で眠っている時に、何かから逃げる夢を見ている」
「そうだ、そうなんだよ」
「でもですよ」
できるだけ笑いが見えないように注意した。
「そいつが見ている夢が、どうして先輩に見えるんですか。もしかすると、それは先輩の夢じゃないんですか」
ムッとするのがわかった。
「違うさ。そいつは寝ているんだ。で、そいつの夢も見えるんだよ」
先輩が頭を抱えたので、こっそり腕時計を見る。
時間はたっぷりある。
頭を抱えた先輩は話し続けた。
「で、そいつは走って逃げる夢を見ているのに、俺は走らなくていいのか、そんなことを一晩中考えるんだよ。俺は逃げなくていいのかと」
「そいつは、今もいますか」
先輩の悩みなんかどうでもよく、興味しかなかった。
「いるさ。今は俺の脳味噌のくぼみに腰掛けて、タバコを吸いたがっているよ」
そう言って、先輩は立ち上がると、
「君も気をつけなよ」
立ち去る先輩の後ろ姿は、よろよろと頼りなかった。
とうとう、先輩もいかれちゃったのかなあ。
そう思いながら、ベンチに仰向けに寝転んだ。
うつらうつらしながら、何かに追われている気がしてきた。
何かから必死になって逃げている。
完全に眠ってはいないので、それが夢であることはわかっている。
しかし、その夢は、もう何日も続いているようなのだ。
何日も前から逃げ続けているような。
目が覚めた。
起き上がってベンチを叩く。
やっぱりこいつの脳みそは寝心地が良くないな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?