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『赴任先にて』

急な人事異動で地方の支社に転勤が決まった。
僕には、付き合っている女性がいた。
「ついて来てくれないか」
居酒屋で話をした。
テーブルの上には、ビールとお通しだけ。
彼女は黙っている。

世間でよくいう遠距離恋愛というものが信用できなかった。
子供の頃、父が単身赴任先で女性を作り、母と離婚した。
母は、僕が恋愛映画や小説を読むようになると話をした。
「もし好きな人ができたら、毎日会いなさい。
そして、お互いに、何時間でも黙っていられるようになったら、2人で暮らしなさい」

時おり店員が料理を聞きにくるが、雰囲気を察してかすぐに頭を下げて離れていく。
もともと決断の遅い彼女だ。
実家で両親と暮らしていることを考えると、即断は難しいのかもしれない。
それでも、行きたいと言って欲しかった。
その日は、僕だけが酔った。

マザコンではない。
何でも母の言いつけを守ってきたわけではない。
むしろ、その逆だろう。
ただ、母のその言葉だけは、壁のスローガンのように残っていた。
いつもは忘れて見もしないが、時折り、わけもなく眺めてしまう、そんな張り紙のように。
かと言って、毎日会ったりはしなかった。
お互いに働いている環境では、現実的ではない。
たが、電話だけはかかさなかった。
メッセージでのやりとりもするが、声が聞きたかった。

一度、電話をしながら、2人とも無言の時間が続き、そのまま眠ってしまったことがあった。
仕事で疲れていたのかもしれない。
突然、母の声で起こされた。
時計を見ると深夜1時をまわっている。
「女性の方が来てるわよ」
玄関に彼女が立っていた。
「よかった。生きてたね」
彼女が帰った後、母は、
「そろそろ一緒に暮らす頃じゃないの」

赴任先では、しばらく残業が続いた。
本社とは、仕事の流れも違い、覚えることも多い。
それに、一人暮らしも初めてだった。
彼女にも連絡しない日が続いた。
このまま終わるとは思っていなかった。
どうしていいかわからない自分が、不甲斐なかったのかもしれない。
会社が用意してくれたワンルームマンションに帰り、時計を見る。
こんな時間だしな。
別に電話でなくても、連絡する手段はいくらでもあるのに。
だいたい、今どき電話だなんて。
どこからか聞こえて来る声は、彼女の声だろうか。

その日も、帰りは遅くなった。
駅前のコンビニで弁当を買って帰る。
この時間の弁当は、売れ残りですと言わんばかりだ。
エレベータを降りて、薄暗い廊下を歩く。
家賃は会社が負担してくれているのでわからないが、築年数から考えると、かなり節約したのだろう。
殺風景な部屋のドアに鍵を差し込んだ。
廊下の端に人影。
そこだけ明るいというのは、本当にあるんだと思った。
「らしいな」
「でしょ」
いつもより広くドアを開けた。

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